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ランドリーより愛をこめて  作者: 三村真喜子
17/25

日本ラブストーリー大賞最終候補

「おかえり」




 失意のどん底で帰宅した陽子を仰天させたのは、当然のような顔で玄関に出迎えてくれたアフロだった。




「な、なにしてんの。呼んでないよ」


「メシ」


「は?」


「この前奢ってくれたやろ。せやから、今日は俺が作ったから」


「作ったって、何を……」




 靴を脱ぎ部屋にあがるとテーブルにはキムチ鍋の用意がされていて、ご丁寧にナムルまで並べられていた。




 アフロは冷蔵庫からビールを取り出しながら、


「俺、意外と料理好きやねん」


「好きはいいけど……」


 勝手に人んちで作るか? 普通。陽子は呆れるのを通り越して、あんまり唐突だったので食卓を眺めながらしばし立ち尽くしていた。




「ほら、はよ手ぇ洗ってきいな。食べようで」


「……」


「心配せんでも、ちゃんと美味しくできてるで」




 豚肉、白菜、ニラ、もやし、厚揚げ。キムチ。オクラとブロッコリーのナムル、にんじんと玉ねぎのチヂミ。なんだ、こいつ!




 陽子はこらえ切れなくなってふふふと唇から漏れ出たかと思うと、とうとうげらげらと大声で笑い出してしまった。




 一体、どこの悪魔がアフロで韓国料理を作るんだか。これまで自分が見たり聞いたりした数々のファンタジーや伝承はなんだったんだろう。まるで「学校で勉強したことは、社会に出てなんの役にもたたない」のと同じじゃないか。「悪魔の話しも、実際とはまるで違うから、なんの参考にもなりはしない」。




 陽子は涙が出るほど笑った。哲司とのあの泣きそうな会談の後で、あんなに耐えた感情が弾けて壊れてしまったようだった。




 何もかも見て、聞いて、知っているくせに。わざとらしくもキムチ鍋なんて。どういうつもりなんだろう。こんなことするなんて。「優しい悪魔」は昭和歌謡で充分だ。




「そんなウケんでも」


「だって、あんた、考えてもみなさいよ。なんで悪魔が鍋作るのよ。しかも、人んちで勝手に」


「悪魔も鍋ぐらい食うがな」


「それがおかしいんだってば」


「マッコリもあるで」


「あははははは!」




 陽子は笑い転げながらも、洗面所で手を洗い、ジーンズとTシャツに着替えてからやっぱり笑いやむことができないまま食卓についた。




 アフロは陽子にビールを注いでくれると、


「仰山あるから、ようけ食べやー」


 と言った。




 鍋が二人の間でぐつぐつと煮えている。アフロが取り皿に肉と野菜をごっそり盛って「ほれ」と陽子の前に置いた。




「……ありがとう」


「おう」




 ありがとう。陽子はもう一度心の中で呟いて箸をとった。キムチ鍋はとても美味しくて、二人は鍋がからっぽになるまで時間をかけて食べ、大量のお酒を飲んだ。




 陽子はこの時間が、悪魔のいる時間がこのまま続けばいいと、初めて思った。




 アフロはきちんと洗いものや片づけをしてくれてから消え、陽子は翌日が遅番だったので午前中に部屋の掃除をし、布団を干した。




 昨晩、「あんた、料理できるんなら毎日作ってくれればいいのに」と言ったけれど、あれは半分本気だった。家に帰ってアフロがごはんを作ってくれていたらどんなに楽で……どんなに嬉しいだろう。




 自称「料理がうまい」男の子は8割方大したことないのが陽子の経験上の統計だけれど、アフロはそれを良い意味で裏切り本当に上手だった。きちんと基礎ができていて、ナムルもチヂミもアレンジが利いていて美味しかった。それに、鍋。キムチ鍋の元でもいれてるのかと思ったら、ちゃんと出汁をとって、味付けも自分でやったと聞いて脱帽した。




 普段から割と料理をする方だというアフロの「普段」がどんなものか知らないけれど、なんにせよ陽子がキムチ鍋にどれだけ救われたかは言葉に尽くせなかった。




 時間が空いたので陽子は出勤の前に美容室を予約し、久しぶりに髪を切りに行った。




 結婚に向けて伸ばした髪だったのだがもうその必要はなかったし、なにより哲司との交際期間中ずっと長い髪をしていたのが実は飽き飽きしていたのだ。失恋直後は美容室に行く気力もなかっただけに髪は伸び放題のぼさぼさだったが、やっと手入れする気になった。




 肩より長いロングヘアは暑苦しいし、重いし、肩も凝る。乾かすのも大変だし、そもそも洗うのも大変。セミロングぐらいにしておけばさぞかし楽ちんだろう。陽子はそんな風に考えていた。




 なのに、いざ美容室の椅子に座ると、なぜか担当の美容師にこう言い放っていた。




「短くしてください。思いっきり」




 言ってから自分でも驚いたけれど、そうはっきり注文した自分がおかしくて、キムチ鍋の余韻なのかテンションがあがっていて、陽子は続けて、


「ベリーショート。セバーグみたいな」


 と言った。




 担当美容師はびっくりして、何度も何度も、しつこいぐらいに、


「本当にいいんですか?」


 とか、


「お仕事は大丈夫なんですか?」」


 とか、


「切ってしまうと戻せませんよ」


 とか、


「もったいないんじゃないですか」


 と念押しした。




 でも、一度口にしたからには陽子は翻さない。そういう性格なのだ。突差の言葉ではあったけれど、口にした途端、切る前から身軽になったような気がして気持ちがすっとしていた。




 失恋したら髪を切るなんて昔の少女漫画みたいだが、そういうつもりではなく、ただ気持ちが軽くなるようなさばさばとした勢いだけが手足の先をじんじんと痺れさせているようだった。




 陽子は美容師に向かって「絶対大丈夫。あとで文句言ったり訴えたりしないから」と笑ってみせた。




 もしも昨夜キムチ鍋を食べていなかったら。たぶん、髪を切ったりはしなかっただろう。




 シャンプーにかかる前に「じゃあ、先にざっくり切りますよ」と美容師が陽子の髪を大胆に鷲掴みにした。




「はい、どうぞ」


 鏡の中から陽子が答える。




 鋏が髪に触れ、軽く引っ張られるような錯覚を覚える。気がつくと、20センチ近くの長さがばっさりと切り落とされ、茶色い木製の床にどさっと落ちた。




 それを見た途端、陽子はにっこり笑って言った。




「ああ、もう、頭が軽くて気持ちいい」


「髪って結構重いもんですからね」


「そうね」




 そう。でも、それだけじゃない。重いものは、他にもあった。




 これまでの人生で一度もしたことのないベリーショートが仕上がると、陽子はゴダールの映画では女が男を裏切っていたななどと考えていた。




「似合いますね。ショート」




 他の美容師たちも口々に声を揃えて言うのが、くすぐったかった。でも、素直に嬉しかった。




 そうして実際軽快になった陽子は、職場でみんなが驚くだろうと思うとそれも愉快で、美容室を出てから弾むような足取りで出勤した。




 通用口を通り、タイムカードを押す。通路ですれちがう社員が「あっ」と言うのがおかしくて、陽子は気分良くロッカールームの扉を押し開けた。




 早番のスタッフが帰り仕度をしているところで、ロッカーは少し混んでいた。




「おはようございます」


「ああっ?!」


「うそ! 岡崎さん、その髪!!」




 後輩たちが一斉に陽子を見て、驚きの声をあげた。陽子は笑いながら、髪に手をやり「切っちゃった」と肩をすくめてみせた。




「うそー、大胆~」


「めちゃめちゃ短いじゃないですか」


「てゆーか、似合うー」


「ありがと」




 自分のロッカーの鍵を開け制服に着替え始めると、驚きと称賛の声をあげていた後輩の一人が、


「かなり思い切りましたねえ」


「思い切りっていうか、ね。勢い? 短いと頭軽くていいね」


「若くみえますよね」


「あっはっは」


 陽子は声をあげて笑った。




「それねえ、褒めてないからね」


「そんな」


「若く見えるのは、若くない人に言う言葉よ。私は年齢なんて気にしないからいいけど、それ、お客さんとかに言ったら駄目よ」


「はーい」




 黒いスーツにベリーショートは思いのほかよく似合い、陽子は鏡の中の自分にまずは及第点を与えた。髪が短くなった分、ピアスをつけた耳が目立つ。




「あの、岡崎さん」


「ん?」




 陽子はばたんと音を立ててロッカーを閉め、施錠した。




 女の子たちが互いの顔を見合わせながら、実に言いにくそうに肩をつつき合い口ごもっていた。




「なあに?」


 その中の一人に陽子は尋ねた。




「あの……宮本さんの送別会のことなんですけど……」


「えっ」


「幹事、私がやることになって……」




 言われてみて陽子はその子が千夏と同じブライダルデスクの配属であることを思い出した。




 彼女は陽子の顔色を窺いながら、おどおどした調子で続けた。




「宮本さん、退職は来月付けなんですけど有給消化とかで実際の勤務は今月一杯なんです。急なことだからあまり人数集まらないと思うんですけど……」


「送別会、どこでやるの?」


「それがまだ決まってなくて……」


「結婚退職だから、お祝い集めないといけないんじゃない?」


「……はあ……そうですけど……」


「幹事、初めて? 宮本と同じ部署と、あと、うちのバンケットと……、あと宮本と仕事してた部署を部長に聞いて指示してもらって、ざっとご祝儀集めてまわればいいのよ。一口千円ぐらいでいいのよ」


「あの、岡崎さんは……送別会来られます?」


「えっ、私?」




 陽子は今更だが、言われてみて気がついた。後輩達が陽子の顔色をこんなにも窺いビクつくのは、陽子だから、なのだ。




 後輩達が考えていることも分かる。千夏と一緒に仕事をしてきて、しかも仲のいい陽子を送別会に呼ばないなんて不自然だし、しかし、すでに社内に二人のことが広まってしまっている以上、呼んではまずいと思うのが当然だ。陽子が同じ立場でも、ひどく困ることだろう。




 送別会や飲み会の幹事はその時々で手の空いてる者や、性格的にも経験的にも慣れた人間がやるのが慣習だが、まだ入社してそう長くもない若い社員にやらせることになったあたり、どうも今回に限り千夏の送別会の幹事は押しつけ合いになったのであろうことが推測できた。




 同僚に婚約者をもっていかれた女と、同僚の婚約者だった男と結婚する女。この二人を同じ場に呼んでも呼ばなくても、物議を醸さないわけがない。




 陽子は優しく微笑むと、


「いろいろ気を使ってるみたいだけど、私の事はいいのよ。気にしなくて。ありがとうね、声かけてくれて。なんか悪いわね。気まずい思いさせて。大丈夫、私は行かないから。お祝いはうちの部からってことで出すようにするから、個人名とかは出さなくていいわ。私から部長に言っとく。もうあんまり時間ないでしょ。早めに人数決めてお店も予約しないと駄目よ」


「……岡崎さん……」




 陽子は後輩の肩をぽんと叩いた。わざと気のいい先輩のふりをしているわけではなかった。




 確かにこんな気遣いを受けなければいけない境遇は情けないけれど、自分が傷つくほど周囲に迷惑がかかるのだと思うと、笑うより他なかった。




 後輩達は陽子の微笑にほっとしたように胸をなでおろしていた。




 ロッカールームを後にした陽子は、これでまたみんなからひそひそと噂されるのだと思うとため息をこらえるのに苦労した。




 良かれ悪しかれ人の口にのぼるのは面倒なことだ。ましてや本当のことなど誰も知りはしないし、そもそも本人だって知らないのに言葉ばかりが勝手に横行していく場合は特に。




 気付くと陽子はまた無意識に背筋を伸ばし大股で歩いていた。




 その日一日、陽子の新しい髪型は注目を集めた。誰もが驚き、しかし似合うと褒めてくれた。陽子はやはり切ってよかったと思った。お世辞でもポジティブな言葉は聞いていて嬉しいし、癒される。嘘も重ね続ければ本当になるようなものだ。




 厨房へ次のバンケットの連絡に顔を出しに行った時も、懇意にしているフランス人コックから「そのショートカット、まるでパリジェンヌ!」と言われた。ふざけてフランス語で「お嬢さん、お菓子をどうぞ」と言われ、新しいケーキを試食させて貰った。陽子はそれで充分だと思った。人生というものは、そうやって万事オッケーになっていくのだと。

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