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ランドリーより愛をこめて  作者: 三村真喜子
16/25

日本ラブストーリー大賞最終候補

仕事に行くのがこんなに嫌だったことがかつてあっただろうか。いや、ない。




 行けばすでに社内中に広まった噂が面白おかしく脚色され、手垢にまみれているだろう。そこへ出て行かなければならないなんて、恥さらしとはよく言ったものだと思う。




 今日はブライダルフェアのレポートを作成し、後片付けやらこまごまとした仕事がある。フェアに来たお客が別途申し込んだブライダルデスクへのアポイントも数を把握しなければいけない。回収したアンケートも早急にまとめなくては。やるべきことは山ほどある。それだけが陽子を救う唯一の手段だった。




 ……はずだった。なのに、どうしたことだろう。婚約破棄の痛手を紛らわせた仕事は、今回に限ってまるで陽子に有効に働かなかった。頭の中は仕事のシュミレーションでいっぱいなのに、心の中は千夏と哲司のことが渦を巻き、気を抜くと意識のすべてをかっさらっていく。




 ロッカールームに入った途端、一瞬でその場の空気がしんと水をうったように静まり返った。気まずい。手早く着替えてオフィスへ行くも、そこかしこで囁かれる噂が陽子をかき乱す。




 みんなに挨拶をし、仕事の指示や報告をし、自身も忙しく書類を作成したり電話をかけている時でさえも、陽子は今この瞬間にも社内を駆け巡っているさまざまな憶測について考えずにはおけなかった。




 と、その時、携帯電話がメールの受信を知らせた。




 陽子は何の気なしにそれを開いて、驚愕した。メールは哲司からだった。




 陽子は思わず胸に手を当てた。心臓が止まるかと思うほどびっくりして、深く息を吸い込む。メールは今は他人であることを示すように件名が「岡崎さん」となっていた。




 いや、他人だったのだ。今も昔も。陽子は苦く笑うと、携帯電話を片手に立ちあがった。




「岡崎さん」


「ん?」




 後輩が椅子をくるりと回転させ、


「ショーで使ったドレスのクリーニングは即出しでいいんですよね」


「ああ、そうね。業者発注かけといてくれる? 小物類のチェックはブライダルデスクでやってもらうように頼むから」


「あ、じゃあ、デスクに申し送りを……」


「それは宮本に話しが通ってるから、そっちで確認してくれる? 詳細は分かってるはずだから」


 陽子が千夏の名を出した途端、みんながぴくりとした。腫れもの。陽子の頭にそんな言葉が浮かんだ。今の自分の立場はまさにそれだ。




 陽子は携帯電話を握りしめ、休憩室へ行った。




 従業員施設となっているそこはラウンジの様相を呈していて、時々、やる気のないスタッフがうだうだと時間を潰しているだけの放埓な場所だった。




 陽子は紙コップのコーヒーを買い、隅の方に腰かけて飲みながらメールを開いてみた。




 まるで懐かしくない。懐かしくなどなろうはずもない。なぜなら、それは別れて日が浅いからではない。陽子の携帯電話から哲司のアドレスは削除されていないからだった。




 今頃、陽子が席を外したオフィスでは千夏との噂が取り沙汰されているだろう。




 コーヒーに口をつけると、熱くてやたらに薄っぺらな味が舌を焼いた。なんて物悲しい味なんだろう。陽子はそう思うと今度は用心しながらコーヒーを啜った。




 メールには、今更連絡をとれる立場ではないけれど、会って話したいことがあるとあった。忙しいと思うけれど、時間がとれないだろうか、と。




 付き合い始めた頃、哲司のメールはビジネス文書のように丁寧で、礼儀正しさのあまり冷たい印象を受けることがあり、その度に陽子を不安にさせた。真面目な性格だから、相手に失礼のないようにと考えすぎる傾向にあって、そのせいだと分かる頃には哲司のメールは友人らしいくだけたものになり、最後は恋人のそれになった。




 そして今はまた他人行儀なメール。しかし、そこからまたやり直し、同じ軌跡を辿ることは二度とない。




 陽子は哲司が言うところの「話したいこと」というのが千夏のことだろうと思うと、なんと返答していいか分からなかった。




 正直言って、会いたいような会いたくないような複雑な気持ちだった。メールが来た瞬間、心の片隅がほんのわずかにきゅんと窪んだことが陽子は自分でも意外だった。そんな馬鹿なと思うけれど、陽子の心は反射的に動いた。嬉しいとまではいかずとも、少しのときめきを無視することはできない。




 と同時に、怒りがふつふつと再燃してくるのも事実で、だから陽子はしばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。




 文面には、自分が勝手なことを言っているのは承知しているので、会いたくなければ無論断って欲しいともあった。これ以上傷つけるのは本意ではない、と。それから、会って話すことができないなら、代理を立てたいので返事だけでも貰えないか、と。




 代理とは一体誰なんだろう。陽子は頬杖をつく。まさか千夏ではあるまい。いや、まさか、そんな。




 まとまらない思考が、そのまま大きな波になって陽子を動かした。気がつくと陽子はメールに返信を返していた。「それでは」と場所と時間を指定して。




 都合や待ち合わせ場所を相談する必要はなかった。陽子は哲司の仕事が大抵何時に終わるのか、また、いつ忙しいのかも知っていたし、陽子の行く店ならどこだって哲司も知っている。それは二人がかつて恋人だったことの名残みたいなものだった。




 送信してしまうと陽子は空になった紙コップを握り潰した。オフィスでもっとまともなコーヒーが飲めるのに、わざわざ自販機のコーヒーを飲むなんて、よほど動転していたのだろう。陽子は自虐的に笑って紙コップをゴミ箱に投げ込んだ。




 その日、陽子がそうしたように、千夏も陽子を避けているらしく、用事があってブライダルデスクへ出向いても千夏の姿はなく、昼食時もロッカールームでもとにかく千夏と遭遇することは一度もなかった。




 そう大きなホテルでもないのに、いつも密接に仕事をしているはずの二人が一日顔を会わせないなんて不自然極まりないのだが、だからこそ陽子は今夜の哲司との会談が再び自分を傷つけるものであると想像できた。




 傷つくと分かっていて会おうとする自分がどれだけ愚かで、間抜けで、情けないかは自分自身が一番知っている。終わった恋の残骸を拾い集めて仕舞っておこうとしているようなものだ。捨てられたのは自分の存在そのものだというのに。けれど、そういった意味では陽子の恋はまだ「終わっていない」のかもしれない。陽子は自分が不甲斐なかった。




 陽子は集中して仕事をこなし、次のバンケットの打ち合わせにも参加し、誰にも何も言わせる余地を与えないぐらいに背筋を伸ばした。




 仕事を終えると陽子はロッカールームで化粧を直した。アイラインはよりくっきりと、マスカラもしっかりと。元々黒目の大きい方だが、そうやって強調すると瞳は泣きそうに潤んで見える。でも今は化粧のせいとは思えなかった。




 哲司との待ち合わせは百貨店を囲むように設計された回廊にあるオープンカフェだった。




 目の前を車が行き交い、買い物客や近隣のサラリーマンが絶えず闊歩する喧騒の中のカフェ。陽子がそこを選んだのは、周囲が騒がしいほど、人が大勢行き過ぎるほどどんな話しをしようとも誰も自分達に関心を払わないだろうということと、人目が多いほど自分が取り乱さないでいられると思った為だった。




 そう、陽子には取り乱さない自信がなかった。いくら話しの内容が想像がついていても、本人の口から聞けば衝撃であるのに間違いはない。映画やテレビではないのだから激烈なドラマを演じることはないのだ。どうせすべては怖いぐらいの現実なのだから。




 信号の向こうからもフランスのカフェと同じように通りに面して整然と列をなすテーブルが見える。黒いベストに白く長いエプロンのギャルソンがコーヒーを運んでいる。ここのアルバイトの男の子は顔で選んでいるのだとか噂にきいたことがある。緊張のせいかどうでもいいことばかりが胸を去来する。




 陽子はカフェに哲司の姿を探し、まだ来ていないと分かると空いている席へ座った。




 店員が注文をとりにくる。でも、陽子には若いギャルソンの顔を見る余裕もなかった。ただ、なんとなく垢ぬけてすっきりしているなという印象を受けただけで、あとは「お洒落な店だしお洒落なギャルソンだけど、さすがにアフロはいないな」と思っていた。




 だいたいなんで悪魔がアフロなんだか。お洒落のつもりなのだろうか。まさか地獄の釜の熱気で焼けたとかいうのでもないだろうし。それともあれは黒人並みの天然なのか。陽子は運ばれてきたカプチーノに角砂糖を落としぐるぐるかき混ぜた。今この瞬間も、アフロは陽子を見ているだろう。緊張と不安で強張った顔の陽子を。




「ごめん、待たせて」




 そう声をかけられてはっとして我に返ると、目の前に哲司が立っていた。陽子は「あっ……」と慌てて腰を浮かした。




「エスプレッソ下さい」




 哲司は椅子をひき、わずかに距離をとりながらギャルソンに向かって少し声を張った。




 初めて会った時、なぜか合コンだったのに二人は名刺交換をした。誰もそんなことはしなかったのに。哲司も陽子も丁寧に両手で互いの名刺を受取り、ぺこぺことお辞儀をした。それから、自分でもそれがおかしくて、一緒に笑った。




 陽子は自分の記憶がまるで錆びていないのに、もう泣きたくなっていた。




「だいぶ待った?」


「ううん……」




 哲司は重そうな鞄を足元に置いていた。陽子の見たことない鞄だった。きっと別れてから買ったのだろう。少しばかり痩せたような気もするが、どうなんだろう。




「急に、ごめんな。忙しかったんじゃないの?」


「ん。でも、一段落したとこだから」


「そうか」


「……哲司は……」




 陽子は名前を呼ぶことに一瞬ためらった。




「これから忙しい時期でしょう? 暑くなると庭木の手入れ大変だもんね」


「うん。でも、最近は現場に行くこともあんまりないから」


「そう……」




 造園設計の仕事といっても、設計だけが仕事ではない。実際に庭に植える植物の育ち具合によって配置や、造作そのものを変えることもある。哲司は植木屋にも出入りし、花木や植栽の育ちを確認し、時には世話を手伝い、育て方を学び顧客へのアドバイスにもする。




 哲司と付き合い初めてから陽子はそれまで目に止めることもなかった公園や、その辺に雑草の如く生えている草花について教わった。それが今自分の仕事にも生かされている。ホテルの中庭や前庭、観葉植物にいたるまで陽子はこまめにメンテナンスをし、重宝がられている。陽子が枯らしたのは、自分の恋愛だけだ。




 運ばれてきたエスプレッソに哲司はミルクと砂糖をいれ、ちらっと陽子に視線を走らせた。




 あ、くるな。陽子は瞬時に悟った。言いにくいことを言う時の、哲司の視線。気弱な子供のように相手の顔色を窺う目。そのくせ、言い出したら絶対に引かない頑固さ。陽子は身構えた。




「あの」


「うん」




 きた。




「実は話しっていうのは……」


「うん」


「……自分の勝手でこんなことになって本当に悪かったと思ってる」


「……うん」


「陽子のお父さんお母さんにも」


「うん……」


「それで……」


「……」


「こんなことしたからって許されるわけじゃないのは分かってるし、気を悪くしたら謝るけど……、俺、陽子に慰謝料っていうか……その……」


「え」




 あんまり意外で陽子はぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。




「式の為に貯めてたの、あれ、陽子が使ってくれたらいいと思って」


「……」


「……陽子?」




 二人の婚約中にかかったお金などたかが知れている。式場のキャンセル料も仮予約だったのでとられなかった。買ったものといえば婚約指輪ぐらいなもので、それは破棄と同時に哲司へと返却されている。そういえば、あの指輪はどうしたんだろう?




 哲司が貯めたお金は陽子の貯金を遥かに上回る額面だったけれど、結婚と新生活にかかる費用は双方が出し合うことで合意していた。割合からいうと、それは哲司の負担の方が少し多くなる予定だったけれど、今となってはそれも単なる「お話し」に過ぎない。ようするに、哲司のお金は哲司のものなのだ。




「慰謝料なんて……」


「気を悪くしたなら、本当に、謝るよ」


「いや、そうじゃなくて……」


「……ごめん」


「なんで慰謝料なの?」




 陽子はほとんど素朴な疑問と言っていいほど不可解で、膝の上で拳を固めて俯く哲司に問うた。




「そんなの貰うつもりないよ」


「けど……俺の気がすまないっていうか……。なにか、陽子にお詫びというか……」




 何か変だ。陽子の勘のようなものが脳裏にちかっと閃いた。




 哲司とて自分が振った女とこうして会うのは気まずく、緊張するだろう。でも、それ以上に今日の哲司の様子は妙に視線を彷徨わせたり、困惑したように肩を怒らせていて、それが陽子には「なんか、あやしい」と思わせた。




「お金なんか貰えない」




 その次に喉元まで出かかった言葉を飲み込むために、陽子はカプチーノに口をつけた。




 千夏の差し金なんじゃないの? 慰謝料で片づけて、綺麗さっぱり後腐れなくしようとしてるの? そうして千夏と結婚するの? そもそも千夏と結婚するのは本当なの? 一体いつからそんなことになっていたの? そのせいで私と別れたの? 嫌いになったわけじゃないって言ったけど、私より千夏がよかったの? なら、どうして結婚なんてしようとしたの?




 陽子は大きく息を吐き出した。




「とにかく、お金はいらないから。……哲司だってこれからお金いるでしょ」




 哲司ははっとしたように陽子の顔を見つめた。待ち合わせに現れた時からろくに顔を見ようとしなかった哲司が、初めてまっすぐに陽子に視線を注いでいた。




「話しはそれだけよね? 私のことは、いいのよ。もう。終わったことだから。気にしなくていいから」




 飴玉を誤飲したような息苦しさが胸のあたりにあった。声が震えないように、ゆっくりとした語調で続ける。




「私、もう行くね。仕事頑張ってね。あんまり無理すると体壊すから。ごはんもちゃんと食べてね」




 こんなことを言いたいわけではなかった。他に聞きたいこともあれば、言いたいこともあった。けれど、そのうちの何一つ言葉にすることができなかった




 陽子が自分の分のコーヒー代をテーブルに置こうとすると、黙っていた哲司がかろうじてそれを押しとどめた。




「コーヒーぐらいは奢らせてよ」


「……じゃあ、ごちそうさま」




 必死の思いで笑顔を作る。さよならを言う為に。せめてこの瞬間が美しく見えるように。でなければ、自分が可哀想すぎる。




 いつもそうであるように、陽子はぐんと背筋を伸ばして大股で歩き始めた。




 鼻の奥と眼窩がひどく痛む。唇を噛みしめ、信号が青に変わるのを待つ。この期に及んで、陽子は哲司が自分の名前を呼んだことがひどく懐かしく、愛しく、やりきれなかった。 「岡崎さん」から始まって「陽子ちゃん」と呼ぶようになり、気がつけば「陽子」と呼んでくれた人。今更だけれど、陽子は本当に馬鹿げて一途に恋をしていた自分を思い知った。




 信号が変わる。歩き出す。胸の中で黒く渦巻くもやもやは、暗雲がたれこめるように陽子の心を覆い隠し、雨を降らせようとした。

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