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ランドリーより愛をこめて  作者: 三村真喜子
15/25

日本ラブストーリー大賞最終候補

従業員通用口を出ると、アフロは言われた通りにちゃんと待っていて、二人並ぶと大股で歩き始めた。




「なに食べたい」


「なんでもええけど」


「じゃ、そこ」


「え?」




 陽子はちょうど前を通りかかったいつも中高年層のサラリーマンでいっぱいの、賑やかで粗雑な店を指さした。




「俺はええけど、あんたはこんなとこでええのん?」


「いいのよ」




 もはやいつものお気に入りのイタリアンでワインなどという気分は失せていた。




 何も知らなかった。本当に何も。気づきもしなかった。頭ががんがんするほど激しく乱れる思考が陽子を世界の何もかもから遮断する。それはアイデンティティを見失うような、雑踏の中にいるほど孤独を感じるようなせつない瞬間だった。




 あの子たちの噂が本当なら、一体いつからそうだったのだろう。プロポーズは哲司からだったのに、なぜそんなことになったのだろう。分からない。一体、自分の身に何が起きたのか。いや、それ以上に哲司と千夏が何をどうして、どうなったのかが分からなかった。




 居酒屋に入ると二人は向かい合って座りビールを注文した。店内はいっぱいで、アルバイトの店員が忙しく店中を行き来していて、魚の焼ける匂いやモツ煮込みの濃厚な匂いに満ちていた。




 テーブルとテーブルの間が狭く、陽子とアフロは周囲を中年サラリーマンに完全包囲されたような状態で、その誰もが赤い顔をして大きな声で談笑していた。普段なら喧騒の中では到底落ち着けないはずなのに、この時ばかりは誰からの注目を集めることもなければ、視線のすべてが素通りしていく気楽さに救われるような気持ちだった。




 陽子とアフロは運ばれてきたビールのジョッキを持ち上げた。




「おつかれー」


「お疲れさま」




 陽子は唐突ににっこりと微笑んだかと思うとアフロのジョッキに勢いよく自分のジョッキをぶつけ、あっけにとられている隙に一気にぐいぐいとビールを呷った。




 疲れた体にビールが心地よく沁み渡って行く。咽喉が隆起するほどの勢いでジョッキをあっという間に半分ほどにすると、陽子はぷはっと息を吐きだし、手の甲で乱暴に唇を拭った。




「さ、なに食べる?」


「えらい勢いやな……」


「だって、今日、見てたでしょ?」


「え」


「忙しかったわあ。ほんと疲れた」


「……まあ、でも、終わって一安心やな」


「まあね」




 開いたメニューの上を陽子の視線が彷徨う。アフロは一瞬困惑したような表情を見せたが、すぐに自分の食べたいものをいくつも指さした。




 陽子は片手をあげて店員を呼ぶと、アフロが食べたいと言ったものだけでなく、自分の好きな物も思いつくままにがんがん注文し始めた。




 たこの唐揚げ、焼き茄子、お造り盛り合わせ、ポテトサラダ、鶏レバーの生姜煮、次から次へと注文する。思わず店員が途中で「そんな食べ切れます?」と案じるほどに。陽子はそれに対して「もちろんよ」と答えて言った。




「それからビールお代わりも」


「はやっ」





 アフロが驚いて見咎めた。陽子のジョッキがいつの間にやら空になっている。


「仕事の後のビールなんて水みたいなもんよ」


「あんた、おっさんやないねんから」




 苦笑いするアフロを尻眼に、運ばれてきたビールをまた同じ調子でぐいぐいと流し込む。




 この強烈な衝撃と怒りと絶望を再び味わうとは思いもしなかった。哲司が結婚するのをやめたいと言った時、そして別れたいと言った時、陽子の世界は死んだも同然だったのに、今度こそ完全に消滅するほどの打撃を加えられるとは。




 陽子と哲司と千夏。三人は確かに合コンで知り合った。哲司と陽子が付き合うようになった時、千夏は別な人からのアプローチを受けていた。何度か二人で会ったりもしていた。結局付き合うまでにはいたらなかったけれど。




 三人で食事をしたり、ごくまれには映画を見たりしたこともある。その場合、あくまでも千夏は陽子の友達として哲司に会い、そのように接していた。あやしいところは何もなかったし、なんの気振りもなかった。




 哲司の方でも、そうだ。千夏は、自分のカノジョの友達であると共に同僚であり、それ以上でも以下でもなかった。




 ああ、それでは、あのプロポーズは一体なんだったんだろう。




 アフロと陽子は今日のフェアの感想を話しながら、次々と料理を片づけていく。けれど、陽子の心は銀河系よりも遥か彼方にあり、食べても食べても満ち足りることはなく、まるで腹の中にブラックホールができたように食べ物もお酒もごうごうと音を立てて吸いこまれていくだけだった。




 プロポーズは陽子の好きだったフレンチレストランでだった。その日はいつもの休日と変わらない、なんの予感も予告もないデートで、食事の誘いに応じたにすぎず、なにを食べようかと聞くと哲司は「今日はもう決めてあるから」と言って、その店に陽子を連れて行った。




 席はちゃんと予約されていたけれど、哲司の様子は普段と変わらなかった。料理もいつも通りで、特別なものはなかった。




 ワインを飲み、鴨やウサギを食べた。哲司の嫌いな青カビのチーズを、陽子はラムレーズンと共に赤ワインを飲みながら食べた。




 デザートにはバニラビーンズをたっぷり使ったババロアに苺のコンポートがかかったものを食べ、哲司はエスプレッソを、陽子はジャスミンティを飲んだ。




「今日はなんの日なの? わざわざ予約してるなんて」


「うん、ちょっと」


「なに?」


「今までは普通の日だったかもしれないけど、これからは今日が特別な日になるかなと思って」


「え? なにそれ?」


「これから先、今日がプロポーズした日になるから」




 ……それから「結婚してください」だ。そうだ。あの時、哲司は実にストレートにそう言った。真面目な顔で、照れもせずにはっきりと。プロポーズを受けた日。その記念日。二人はこれからは毎年その日にこの店で食事をしようと約束した。




 こうして考えると笑いだしたくなる。約束は何一つ守られることなく終わった。




 あの時も、哲司は実は千夏と繋がっていたのだろうか。陽子を涙ぐませた瞬間も、彼の背後に千夏の影はあったのだろうか。




 陽子は哲司に対してひどく腹が立ち、体が震えてくるのを抑える為にジョッキを握る手に力をこめた。よくも、いけしゃあしゃあと。




 そして次に浮かぶのは千夏だった。哲司との婚約破棄の話しを聞いた時の態度。心配そうな顔で、声で、陽子を労ろうとしたことの茶番。




 泣いてすがりたい気持ちで千夏にした打ち明け話はどれほど滑稽だっただろう。次の恋愛に早いも遅いもない。むしろ、早い方がいいぐらい。立ち直っていける証拠だなんて、一体どの口が言うんだろう。信じられない。




 そりゃあ立ち直っていけるだろう。いずれは。いつかは。が、こんな事が発覚しても尚、立ち直っていけるなんて本当に可能なのだろうか。陽子には自信がなかった。




「ああ、もう俺、腹いっぱいなってきたわ」


「……」


「あんた、まだ食べるつもりなんかいな。ちょっと食べすぎちゃうか」




 ほとんどの皿を空にしてしまうとアフロは煙草に火をつけ、大きく息を吐いた。




 焼酎の匂い、揚げ物の匂い、煙草と笑い声。陽子はアフロの目の中をじっと見つめた。悪魔でさえも自分を傷つけはしていないのに。そう思うと胸が潰れそうに苦しかった。




「もうお腹いっぱいなの? 案外小食ねえ」


「いや、もう、たいがい食べたやろ。今からどうする? 飲みに行く?」


「そうね」




 陽子はトイレで化粧を直してから、勘定をすませてアフロと店を出た。夜気が気持ちよく、ほてった頬にひやりと触れる。




「どこ行く? いつもんとこ?」




 アフロは歩きながら尋ねた。陽子はその時までそのつもりだった。いつもそうであるように、二軒目はおなじみの店で飲むのだが、飲み屋の客引きやナンパに勤しむ男の子、意味なくたむろする女の子たちのはびこる駅前の通りを進むうちに、カラオケボックスの前まで来て急に気が変わった。




「カラオケ、しない?」


「えっ? カラオケ? あんた、カラオケとかすんの?」


「するよ」




 アフロは大袈裟に驚いて目を見開き、「へえ~」と妙な嘆声をあげた。




 すると陽子はアフロがいいも悪いも言わないうちにさっさとカラオケボックスに入って行き、受付に並んだ。




 アフロは陽子の行動にさらに驚いて、


「え、マジで?」


 と慌てて後を追ってきた。




 受付をすますとこれも陽子が先に立ってすたすたと指定された部屋へ向かった。せまい通路をガラスのはまったドアが並び、学生グループの賑やかな歌声やバカ騒ぎする声が漏れ聞こえている。ルームナンバーは402。陽子は投げ出すようにソファに鞄を放った。




 薄暗く狭い室内はモニターの灯りだけがてらてらと輝き、荒んだ色であたりを照らしていて、耳障りなヒットチャートが流れっぱなしでうっとうしかった。




 ビールがすぐに運ばれてきて、アフロは煙草を吸いながら、




「いやー、しかし、あんたとカラオケっていうんは意外な感じやなあ。そういうの行かへんと思てた」


「……」




 陽子は無言で巨大なリモコンのタッチパネルを操作している。




「なに歌うん? やっぱ、最近の流行りのやつとか歌うん? まさかAKB48とかではないわなあ?」




 無言で操作を終えた陽子はリモコンをテーブルに戻すと、マイクを掴んだ。




 室内のスピーカーから流れていた音楽が消える。一瞬の静寂。アフロは「おっ」と言いながらモニターに目を向けた。そして画面いっぱいにタイトルが現れると同時にアフロは「ええっ?!」と声をあげた。




 陽子はふんと鼻を鳴らすとマイクを手に立ちあがった。




 明日から仕事に行き、恐らくはすでに社内中に広まってしまったであろう噂を前にしてどうしていいのか想像もつかない。悲しい顔も、怒った顔も誰にも見せることはできないし、傷つくことさえ許されないような気がした。




 それに、もう、千夏を前にして平静でいる自信がない。嘘だと思いたい。ただのゴシップで、仮に哲司に新しい相手がいるのだとしてもそれが千夏であるなんてのは根拠のない無責任な噂と誤解だと。そうしたら陽子は悩まないし、かしましい噂にも笑うことができると思った。




 曲はブルーハーツの「リンダリンダ」だった。




 陽子はしっかりマイクを握り、モニターの歌詞を睨みながら歌い始めた。




 アフロは煙草を指にはさんだまま、灰が落ちるのも気づかぬほど呆然として陽子を見つめていた。




 ゆるやかな歌いだしを過ぎて、あの叫びにも似たサビの部分を陽子は声を張り上げて歌った。それも、今にも飛び跳ねたり、テーブルに乗ったりしそうなほど暴力的なパワーで。体を二つ折りにするように、陽子のシャウトは床に向かってほとばしり、仰ぎ見ては天井に向かって火を噴く。リンダリンダ、リンダリンダリンダ。




 アフロは、日頃ジャズやソウルを好む陽子の豹変ぶりに言葉を失い、普通なら一緒になって歌ったり、合いの手をいれるところも言葉もなく、ぽかんと口をあけていたた。




 陽子は大声で歌い続けた。本物のブルーハーツのライブパフォーマンスもかくやと言わんばかりの熱唱だった。




 髪を振り乱し、全身で歌い上げた時、陽子は汗をかいていた。泣かないようにするのに必死だった。




 陽子はマイクを手にしたままテーブルのビールグラスをつかむとごくごくと咽喉に流し込み、アフロに向かって尋ねた。




「……なに歌う?」




「えっ。あ、ああ。ええと俺は……」




「ねえ」




「ちょっと待って」




「そうじゃなくて」




「え?」




「聞いたでしょ」




「なにを」




「知ってるんでしょ」




「だからなにを」




「……婚約破棄」




「……」




 二人の視線がモロにぶつかった。




 陽子はアフロがコインランドリーから現れて、信じがたいことに自分を常に監視していることから、この悪魔が事の真相を知っているように思った。




 それは「悪魔の力」ですべてを見抜いているというよりも、陽子の預かり知らぬところで交わされた会話の数々や隠密行動も、アフロが姿を消して見ていると思ったのだ。言うなれば、私立探偵のように。




「正直に言って」




 陽子の声は低く、固かった。さっきまでの気合の入った歌声とは別人のように力なく、口から出た途端失速してべったりと床に落ちるようだった。




「聞いたでしょ。今日。ロッカーで」




「……」




「私の婚約者を千夏が……」




「盗ったってか」




「わかんない」




「そういうことは俺にも分からんで。確かに若い子らが噂してるんは聞いたよ。でも、それだけや」




「結婚するはずだったのよ」




「ふん」




「でもしなかった」




「その理由が……」




「彼氏の浮気?」




「浮気じゃないじゃない」




 実際のところ、浮気なのかどうなのか陽子には分からなかった。なにが本当で、なにが嘘なのかも。




 アフロは陽子の吐き捨てるような言葉を聞くと、立ちあがりフロントへビールのお代わりと頼んだ。




 二人の間を絶えずこうるさいBGMが埋めている。




「浮気が本気になってしもたんやな」




 浮気が本気に? 一体それはいつから始まっていたのだろうか。婚約前なのか、それとも婚約後か。




 陽子になくて千夏にあるものといえば、女らしさと、情緒と可愛げと……。陽子自身があげられる、自分とは対照的な性質。哲司はそこに惹かれたのだろうか。




 でも、それならなぜ最初に哲司は千夏を選ばなかったのだろう。いや、それよりも、何年も付き合って今になって千夏を選ぶのは浮気なんて単純な言葉では片づけられない。心変わりと言ってしまえばそれだけのことかもしれないが、陽子はそれも納得できなかった。




 追加のビールが運ばれてきた。アフロは自分が歌う曲を入力し、マイクを手に取った。




「調べてよ」




「えっ?」




「昼間、ヒマなんじゃないの? だったら、調べてよ。特にすることないんでしょ」




「調べるってあんた、なにを……」




「哲司と千夏のこと。できないなら、いいよ」




「調べてどうするねん」




「できるの、できないの?」




「……」




「あ、これ、別に願い事じゃないから。頼みっていうか、スパイっていうかね」




 アフロが入力した曲のイントロが流れ出す。陽子はビールを飲む。アフロが選んだ曲は「雨上がりの夜空に」だった。




 複雑な顔で歌い始めるアフロに陽子はそれ以上は何も言わず、自分も一緒になって歌を口ずさみながら、ああ、この曲は哲司も好きだったなあと思いだしていた。




 結局、その夜はアフロとカラオケに興じてから、いつものバーで飲み直し、〆めにラーメンを食べて帰った。




 部屋に帰ってからシャワーを浴びて出てくると、アフロはベランダに出て手すりにもたれながら煙草を吸っていた。




「あんた、歌うまいね」




 陽子は髪を拭きながらアフロに声をかけた。




「いや、あんたには負けるわ。俺、女子があんなパンチ効いたブルハ歌うん初めて見たわ」




 ベランダからは街の灯りが細かい光の粒になって眼下に広がっている。ぬるい風がアフロの煙草の煙を蹴散らすようにして、吹き過ぎていく。




「ストレス解消にいいのよ」


 そう言うと二人はふっと笑った。




「現代人はストレス社会を生きとうからな」




「悪魔にはないの? 複雑な人間関係とか」




「さあ、人によるんやろな」




「あんたは? ある? ストレス」




「あんたが願い事決めてくれへんことかな」




「む」




 俄かにアフロは真剣な顔をしたが、すぐに笑いだし、


「冗談や。俺らはな、朝は寝床でぐーぐーぐーやし、学校も試験もなんにもないからな」


「それ、妖怪」




 ああ、どうしてこんなに気が楽になるのだろう。陽子は不思議だった。相手は、見た目はただのアフロの気のいい兄ちゃんだが、悪魔なのだ。気を許したらなにをされるか分かったものではない。




 アフロは現代社会のストレスを指摘したけれど、それと同じぐらいにこの現代社会で誰彼なく気を許すのは危険であると認識されている。陽子は常々そのことを無味乾燥とした、冷たい世の中になったと思っていたけれど今なら分かる。信じて裏切られた時の傷は大きいから、前もって予防線を張って人を信じないことは一つの自衛手段なのだ。




 正直者が馬鹿を見る時代なのだということを陽子は痛感していた。




 アフロは煙草の火を丹念に消すと、


「ほな。まあ、またな」


「……うん」


「おやすみ」




 アフロは目の前ですうっと空気に溶けるように姿が薄くぼやけて、そのまま夜の中にかき消えた。




 背中から黒い翼がでて、月夜に向かって飛んでいくのかと思ったので陽子は少しがっかりした。




 窓を閉める。髪を乾かす。歯を磨く。一連の作業の合間、陽子は一人きりの部屋で今日聞いた打撃が薄れるほどまでに回復していた。一人の孤独は一人きりで味わうもので、陽子には当て嵌まらない。陽子は今、自分は一人ではないと思った。

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