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ランドリーより愛をこめて  作者: 三村真喜子
14/25

日本ラブストーリー大賞最終候補

怒涛のような一日が終わると、陽子はまだ緊張に張りつめ疲弊した神経を引きずりながら自分のデスクへ戻ってきた。




 どうにか一通りの片づけが済み、ようやくほっと息をついて椅子にどっかりと腰をおろした。




「おつかれさん。好評だったみたいだな」


 上司が声をかけた。




「ちょっとスケジュールが過密すぎましたねえ」


「いや、イベントなんだからあのぐらい盛り沢山にしないとそもそも集客できないだろ」


「うーん……」


「まあ、課題と反省についてはまた明日でいいよ」


「はい」


「今日はもうあがっていいよ」


「でもまだ……」


「後は岸本や高田がやるから」




 上司は後輩の名前を言い、陽子のデスクの脇を通ってコーヒーを入れにサーバーの前へ行った。




 陽子は慌てて「私、いれますよ」と立ち上がろうとしたが、疲れていたせいか足が思うように動かない。ヒールの踵が一瞬あやうくよろめいたのを、かろうじてデスクに手をつき立て直した。




「なあ、岡崎」


「はい」


「今日が無事にすんでよかったな」


「……はい」


 上司はコーヒーを片手にくるりと振り向いた。


「大丈夫か?」


「え?」


「余計なお世話かもしれないけど……。もう、平気なのか? 婚約破棄になったら色々揉めることもあっただろ。そういうのは片がついてるのか?」


「ええ、まあ。揉めるって言っても、別れるしかないんですから、それ以上はなにもないですよ」


「まあ、岡崎のことだからそう泥試合にはならんのだろうが……」


「ええ。次は婚活パーティーでも企画しますよ」




 陽子は今日のブライダル・フェアの担当から陽子を外そうとした上司を恨んでいたけれど、終わってしまった今は素直に気遣いをありがたいと思えた。




 自分が着るはずだったと思うと確かにドレスは見るのも忌まわしい。幸せそうに胸をときめかせているカップルにもうんざりする。しかし、そんな陽子をみじめさから救ってくれるのも自分に与えられた仕事であるのも事実だった。




 今日という一日のすべてが「模擬」的なもので、言うなればリハーサルのその前のさらにリハーサルにすぎない。陽子が直面した地獄も一つのリハーサルだったのかもしれない。人生の困難や修羅場におけるリハーサル。




 そこまで話したところでオフィスの扉が開き、後輩達がどやどやと入ってきた。




「お疲れ様」


「お疲れ様です」


「今日のまとめは明日以降でいいからね。ほんと、疲れたでしょ。いろいろ、御苦労さまでした」


「岡崎さんも大変でしたね」


「ん。でも、今日で終わったし、ちょっとゆっくりするわ」




 陽子は鞄を取り上げた。そして二、三の仕事の指示をすると、すでにデスクに戻った上司にも挨拶をしてロッカーへと向かった。




 神経が高揚しすぎるとすぐにクールダウンすることは難しい。陽子は体はひどく疲れているのに奇妙に頭が冴えていて、まっすぐ帰宅する気分になれなかった。




 ブライダルデスクの前を通りかかると、フェアの後のおかげでデスクには幾組ものカップルが続々と相談を持ちかけている。




 ガラス越しに千夏の姿も見え、ショーで見せたヘアメイクの名残を幾分残して笑顔で応対している。




 今こうして相談に来ているカップルの披露宴や挙式が成約すれば、陽子がその現場を「監督」することになるのだ。そう思うと(おの)ずと身が引き締まった。




 今夜はアフロと打ち上げでもするか。陽子はそう決めてロッカールームの扉に手をかけた。




 グレイのオフィス用の重苦しいロッカーが幾列も迷路のように並んでいる室内は、色彩の暗さを補うかのように女たちのかしましいお喋りに満ちている。その扉を押し開けると、陽子は自分の名前が話されていることにぎくりとして立ち止まった。




 女子スタッフが数人、帰り仕度をしながら雀のさえずりのように騒ぎ立てているのは、驚くべきことに陽子の婚約破棄のことだった。




「婚約まで行って破談って、かわいそー」




「いや、でも、ギリセーフじゃない? だって友達とかにも招待状出した後とかじゃあさあ……。一応、社内でも誰も知らなかったわけだし」




「まあねー」




「けどさ、岡崎さんも鉄の女だよねえ。ぜんぜんそんな素振り見せないんだもん。私だったら、仕事する気もおきないよ」




 ……。陽子はロッカーの影に潜むようにして苦く笑った。笑うより他なかった。誰も知らなかったって、今、あんた達は知ってるじゃないの。まったく、一体どこから漏れたんだろう。陽子は首を傾げた。




 この事を知っているのは上司と千夏だけだ。まさか千夏が漏らすとは考えにくい。しかし秘密というのは隠せば隠すほど、どこからともなく漏れるものなんだな……。陽子はこのまま出て行くべきか、彼女たちの前に姿を見せるべきか迷った。おもしろおかしく噂されるぐらいなら、自らネタにした方がまだいいような気がした。




 が、次の瞬間、彼女らの言葉を聞いて今度は完全に体が凍りついてしまった。




「しっかし、宮本さんも怖いよねえ」




「悪女だよねえ」




「岡崎さん、なんにも知らないの?」




「らしいよ。私、そんなの知らなくってさあ。今日、宮本さんが代役したじゃない? そん時に岡崎さんに結婚のこと喋っちゃったよー」




 最後に相槌をうった声は、ブライダルデスクの後輩で、ちょうど今日千夏の結婚を教えてくれた子だった。




 他の女の子が深刻そうな声音で、言った。




「宮本さん、このまま綺麗にドロンするつもりみたいよ」




「ねえ、本当に? 宮本さんの相手って岡崎さんの……?」




「だって。私の彼氏がその人と同じ会社でさあ」




「なんだっけ? 建築?」




「ううん。エクステリアとか、造園系。元々、三人とも合コンで知り合ったらしいよ。で、岡崎さんとその人が付き合ってたんだって」




「宮本さん、それ、盗ったんだ」




「怖すぎる……」




「えー、でもでもでも、その男の人も宮本さんのがよかったわけ?」




 陽子は貧血のように目の前が真っ暗になるのを感じた。自分がどこにいるのかも分からないし、心臓が猛烈な早鐘を打っている。賑やかなお喋りが幻聴のように遠くに感じられるのに、言葉はダイレクトに脳に叩きこまれていく。その処理速度がまるで追いつかないから、陽子はパソコンがフリーズしてしまう時のように硬直し、瞬きさえ忘れていた。




「婚約までしといて、男も男だよねえ……」




「宮本さん、マジ、怖いわあ」




「つーか、岡崎さん可哀想すぎる」




「知らぬが仏ってまさにこれよね」




 陽子はその時なにを思ったのかポケットからサンバホイッスルを取り出すと、いきなり思い切り強くホイッスルを鳴らした。




「ひゃあっ?!」


「な、なに?!」




 女の子たちが驚いて声をあげ飛んでくるものの数秒の間に陽子は勢いよく外へ飛び出した。そして猛烈な勢いで階段を駆け降りると、今にも爆発しそうな胸を押えた。




 膝に手をつき荒い息を吐きながら、混乱の渦の中、立っているのも精一杯だった。




 今、立ち聞きした話。あれはなんなんのだ。自分の婚約破棄はさておき、千夏が結婚するのもさておき。その相手が……哲司だなんて……。しかも千夏が仕事を辞めるなんて、急転直下のアトラクションよりも強烈な衝撃だ。バンジージャンプだってここまでのインパクトはないに決まっている。




「おい」




 階段の上で声がした。




「……おい、なにしてんねん」




 落ち着け。落ち着くのだ。陽子はゆっくりと振り返った。




 階段の上にはアフロが立っていて、段差の分だけいっそう巨大に見える体躯と膨張したアフロヘアで陽子を見下ろしている。




 陽子は深く息を吸い込んだ。そして、吐き出すと共に言った。




「ねえ、ごはん食べに行かない? 私、奢るし」




「なんや、急に」




「打ち上げよ、打ち上げ。フェアも終わったしさ」




「……ええけど……。あんた、着替えんでええのん?」




「ちょっと待っててよ」




「……」




 アフロはすべてを見ているはずなのに、何も言わず黙っている。それは奇妙に陽子を優しく包んだ。同情はみじめだ。が、アフロの沈黙からはそういったものは感じられず、言葉のないことに意味もなければ理由もなく、干渉するもしないも悪魔の領分を越えているからと思えた。陽子はこの無関心を、そのくせ訳知り顔で笑いもしなければ慰めもしないアフロに言葉以上の思いやりみたいなものを感じていた。




 ゆっくりと階段を上り再びロッカールームへ行くと、女の子たちはもう姿を消していた。




 陽子は手早く着替えると制服をハンガーに吊るし足早に外へ出た。千夏のロッカーの前を通る時、一度だけ拳でがんとロッカーを叩くと思いのほか硬質な音が響いた。

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