火事の夜
その日の夜はいつもと変わらなかった。
夕食を済ませて部屋に戻ると寝るための準備をする。
ベッドに潜るとアンナがランプを消してくれた。
ライラの部屋の明かりはろうそくや油のランプが主流だ。魔法石のランプはあるのだが、それは高価なので借金のことを考えてしまうと安価なろうそくを使うようにしていた。そのため部屋は魔法石よりも随分と暗いが仕方がない。
光が消えたことで暗闇に包まれた部屋はいつもと変わらない静かな夜だった。
目を閉じて眠りに落ちようとしていたその時。
静かな部屋の扉がそっと動いたのだ。音はなかった。それでも扉が開いたことで空気が動いたのがわかった。
閉じていた目を開いたライラは、半身を起こして部屋の扉を見た。
部屋に鍵はかけられるが、ここはクリスタラーゼ城だ。警備は万全のはず。侵入者に襲われる心配をしていなかった。すでに寝静まった時間帯に誰かが来ることは今までなかったので、誰かが来たことは異常でしかなかった。
それに、扉が開いて誰かが部屋に入ってきたのはわかったが声を発することがなかった。
「誰?」
静かすぎる侵入者にライラの鼓動が速くなっていく。
ここで叫び声を上げれば誰かが駆け付けてくれるはずだが、相手がわからなかったので確かめる方が先だと考えてしまった。それがライラの失敗だった。
侵入者がゆっくりと近づいてくる。
毛布を引き寄せて身を固くしたライラだったが、相手が動いたことで窓から差し込む星明りで姿がおぼろげに見えた。
「お義父様・・・」
そこにいたのは母親の再婚相手でライラの義理の父親であるディック=クリスタラーゼだった。
彼は無言で近づいて来ると、ライラを静かに見下ろした。
「こんな時間にどうしたんですか?」
ベッドのサイドボードに置いてある時計に目をやるが、暗くてはっきりとした時間はわからない。ベッドに入ってから僅かな時間しか経っていないように思っているが、辺りがとても静かなことから思っている以上に時間は過ぎているのかもしれない。
そんなことよりも誰もが寝る時間に義父が来たことが疑問だ。
何か大事な話しでもあるのかもしれない。そう考えてしまったライラはまた選択肢を間違えたのだ。
誰かを呼べばよかったのだが、そこに考えが及ばなかった。
とりあえず明かりが必要だと思いランプに火を入れようとした時、突然伸ばした手を掴まれた。
驚いて固まると、そのまま手を引かれてバランスを崩す。危うくベッドから落ちそうになるのを義父が支えて押し戻してくれたのだが、そのままの勢いでベッドに押し付けられてしまった。
ディックが上に覆いかぶさるようにして仰向けに倒れたライラは、自分の状況がわからず混乱した。
「お義父様」
体を起こそうとすると掴まれた手を離してもらえず、ディックの空いていた手が肩を掴んでベッドに押し付けられる。
「一体何を」
「借金があることは知っているな」
静かな声が降ってきた。部屋に入って来て初めて口を開いたのに、出てきた言葉が借金だったので混乱するしかない。質問というより確認されているようだった。
「それは、知っていますが」
「もうどこも貸してくれない」
「え?」
何を言い出したのかと思った。母の贅沢な金使いに父は口を挟むことをせず、金を借りていた。逆に金を返すことをしていなかったため、借金はどんどん膨れ上がっていく。そうなればおのずと貸している相手もこれ以上は貸せないと言い出すだろう。
親族からも借りていたことを知っているが、彼らにも生活はある。きっと皆が断り始めているのだろう。
「金がないとルミラの買い物ができない」
義父は母が買い物をして喜ぶ姿が見たいようだった。侍女として仕えていたルミラだが、侍女の中でもひときわ美しかった彼女をディックが見初めたのだ。
再婚すると、義父はどんどん母に心酔していった。だから買い物を制限することなく彼女が喜ぶことをしていたのだ。
そのことは近くで一緒に生活していたライラも薄々気づいていたが、一度ルミラに意見を言って暴力を受けてから何も言えなくなってしまった。母親を抑え込めない代わりに借金を少しでも減らせるようにいろいろな準備を進めてきていた。
「お金がないのなら諦めるしかないのでは」
どこからも借りられないのなら少しは自粛するかもしれない。返済することに意識が向けば本当はいいが、そこまでは望めないだろうと思っていた。
「そうなったらルミラに失望されるだろう。豊富な財産があるからこそ結婚してくれたというのに」
つまりは金目当ての結婚だったと義父は言っている。
再婚するまで母と2人で貧乏な暮らしをしてきた自覚はあるが、母が金だけを目的に公爵家に嫁いだとは思いたくなかった。
「お義父様が側にいてくれれば、お母様も嬉しいはずです。高価な買い物だけが幸福な生活ではないのだから」
貧乏暮らしでも、母と一緒の生活は仕事で一緒にいられない時間は寂しいと思うこともあったが不幸なのだと思わなかった。だから、母もディックと一緒にいることに幸せを感じてくれれば買い物も控えてくれるかもしれない。
そんな願いを込めて言ったつもりだったが、義父にはどうやら届かなかったようだ。
ディックが首を横に振って静かに告げる。
「金を作る必要がある」
「どうやって?」
領民の税収は国への税の支払いに使われ、残った金で城での生活をする。使用人たちの給金も払わなくてはいけないが、年々減ってきていることも知っていた。
生み出される金がない。収入をどこから得るつもりなのか疑問を持っていると、肩を掴んでいた手がゆっくりとライラの首元に移動してきた。
背筋をぞくっとしたものが駆け抜けた。
まさかライラの命を引き換えに金を集めるつもりではないだろうか。
葬儀を行うのに金は必要だが、多くの親族や領民たちから娘が亡くなったことで悲しむ公爵に対して寄付金が集まるだろう。それが目的なら、このまま首に触れた手に力が籠められる。
咄嗟に逃げようとしたが上から覆いかぶさっている義父を押しのけるだけの力がライラにはなかった。
僅かに藻掻いただけで体重を乗せられて身動きが取れなくなる。
首に触れた手に僅かな力が込められた。
「殺しはしない。それよりも継続的に金を稼いでもらう方がいいだろう」
「どういう意味ですか」
まだ言葉が出た。呼吸もそれほど苦しくない。
「母親似で美しく育ったな」
「え?」
「これなら上客をつけてもらえるだろう」
「何を・・・」
別の意味で背筋に冷たいものが駆け抜けた。
上客という言葉が意味するところを理解すると、ライラは叫びそうになった。だが首に触れていた手が咄嗟に口をふさいだ。
「心配しなくていい。できるだけ上等な娼館を探しておいた。王都に行くことになるが、今まで楽な暮らしをさせてもらえていたんだ。親孝行をしてもいいだろう」
ライラを娼館に売って金を稼ぐつもりだ。しかも継続的な金の稼ぎを口にしていたことから、娼館で稼いだ金も奪うつもりでいるらしい。
義父の恐ろしい考えに体が震えた。何とか逃げなければと思うが押さえつけられて身動きが取れない。
このまま馬車に押し込められて王都へ連れて行かれるのか。そんな考えが浮かぶと、義父はさらにとんでもないことを口にした。
「まずは男を覚えておいた方がいいだろう。心配しなくていい、すぐに客の相手ができるように手ほどきをしてあげよう」
耳を疑うしかなかった。口を押えていた手が離れるや、布の裂ける音が聞こえた。
胸元のボタンが弾けたのか、床に硬い物が落ちて転がる音が聞こえる。
悲鳴を上げるよりも先に再び口をふさがれた。今度は何かの布が口を覆った。
暴れようとすると両手首をあっという間に拘束されて、抑え込まれる。
それでも逃げるために抵抗していると、頬に激しい痛みが奔った。
一瞬何が起きたのかわからなかったが、どうやら頬を平手打ちされたようだった。
「大人しくしていろ。これはお前の母親も承諾していることだ」
義父の言葉に動きが止まる。金を稼ぐため実の娘が売り飛ばされることを母も納得しているというのか。
目を見開くと暗闇になれてきた視界が義父を捉える。彼は不敵に笑ってライラを見下ろしていた。
「誰も助けてはくれないぞ」
顔を近づけてきたディックがライラの耳もとでそう囁いた。
おそらく使用人たちも今夜はここに近づくなと命令されているのだろう。ライラがいくら叫んでも誰も助けには来てくれない。義父の言葉の真偽などわかるはずもないが、ライラはその時諦めてしまった。
途端に視界がぼやける。涙が溢れてきて止まらなかった。
諦めと悔しさと悲しみで心の中がぐちゃぐちゃだ。
絶望と呼ぶべき感情に支配されたライラは、そのまま覆い被ってきた義父に抵抗できなかった。
ただ、心の奥底で最後に助けを呼んだだけだった。




