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箱の中のティミディティ  作者: みたよーき


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箱の中のティミディティ

「シズちゃんは感情が希薄だね」

 と、千羽(ちわ)先輩に言われたのは、出逢ってからまだひと月程しか経っていない頃だった。

 確かに、先輩のように嬉しさを全身で表現したりはしないけれど、私だって嬉しければ普通に笑っていたりするつもりだけど。なんて内心では思いながら、「そうですかね……?」とだけ、その時は返したけれど。

 ――でもそれは私にとって、無意識に目を背けていた部分に光を当てられるような言葉だったように思う。


 千羽先輩と出逢ったのは、高校に入ってすぐの頃。

 その、自由な校風が売りの私立高校は、その自由さを特に部活動の面で発揮していて、新規創部のハードルが低く、推奨すらしている。

 だから、部活動案内の冊子には、『電子顕微鏡部』だとか『チューバー部』だとか『“某魔法界で人気のスポーツ”部』だとか、絶対に入りたくはないけどどんな事をしているのかはちょっと気になるような名前も含め、五十を超える数の部活名が並んでいた。

 それでも、その中に私が一際興味を惹かれるようなものは無く、だから、放課後に部活動勧誘が許された三日間、私は無駄な勧誘を受けないように、脇目もふらずに校門への道のりを歩いて下校することにした。

 そんな、堂々と真っ直ぐに校門へ向かう私は既に部活動を決めていると思われたのか、一日目、二日目と、全くといっていいほど声を掛けられる事も無かった。

 だけど、三日目。校門がもうすぐそこという所で、突然、私の前に飛び出してきた人がいた。

 私よりも頭半分は小柄で、リボンの色が学年で分かれていなければ同級生だと思っていただろうその人は、上目遣いに、とびきりの笑顔で。

「あのっ! もしかして、犬、好きじゃありませんか?」

 いきなりそんな問いかけをしてきたその人が、西住千羽先輩だった。

 その第一印象は、何となく犬っぽい人(その印象は間違いじゃなかったと、今でも思っている)。

 それはともかく、その時私は、先輩の問いに、嫌いではない、というような答え方をしたと思う。

 ――本当は、大好きだ。

 犬を道で見かければつい目で追ってしまうし、その時の私は普段より口角が上がっているはずだ。

 でも、その時の私は、母が勧めても新しい子を迎える決断をできなかった私が、犬が好き、と口にすることは憚られるような気がしていたのだ。――今思えば、その時も、それ以前もずっと、その原因を深く考えようとする事を無意識に避けていたんだと思う。

 ともあれ、千羽先輩はそんな私の煮え切らない答えにも満足したのか、嬉しそうな(どこか犬っぽい雰囲気の)笑顔で、一枚のチラシを差し出した。

 そこには大きく、

『新設! ドッグトレーニング部!!』

と、可愛らしい手書き文字で記されていた。

 先輩に目を戻すと、ちょいちょい、と私を手招きして道の端に寄る。

 そしてそこで、どうしても諦めきれなくてこの新学期に自分で作った部活だという事、何とか三日目に間に合った事、でも声を掛ける勇気が出せずにいた事、そんな中、私を見かけて直感的に勧誘したいと思って頑張って話し掛けた事、そして先輩の犬への愛、トレーナになりたい夢、そんなあれこれを、それは熱心に、楽しそうに(先輩に尻尾があったら大きく振れていたに違いない)、私に語ってくれた。

 私は、他の人には声を掛けなくていいのかな、なんて心配しながらも、先輩の熱意に、あるいは、先輩の犬っぽい可愛らしさに、いつの間にか引き込まれ、入部を決めていた。

 とはいえ、入部を決めた理由はそれだけじゃない。

 先輩の犬への愛情を聞くうちに、ふと、母は新しい子を迎えたいのではないか、と思ったのだ。

 私が拒否していたから、私のために、諦めてしまっているのではないか、と。――ほんと、今更ながら、と思うけれど。

 でも、もしそうであるならば、私は、変わりたい、と思った。

 中学生の頃は、母にだけは感情的になって、素っ気ない態度を取ってしまう事が多かった。それが反抗期というもので仕方ない事だ、なんて理由で納得はできない。

 女手一つで育ててくれている母に、今からでも、それが恩返しになるのなら、私は、ただ漠然と新しく犬を飼う事を拒否する自分としっかり向き合って、そして、変わりたい。

 この部活が、その切っ掛けになるかも知れない、そう思ったのも事実だった。


 そうして、先輩と私の二人から始まったドッグトレーニング部。

 最初こそ見学者がちらほらと現れたけれど、実際に犬がいるわけでもなく、やる事と言えば、資格取得に役立ちそうな本を読んだり、犬を躾ける動画を見たり、ただ犬の動画を見て癒やされたりと、わざわざ部活として行う必要性に疑問符が付くような事ばかり。

 当然、そんな部活に積極的に入りたいという人はおらず、顧問の花井先生も『百合研究部』という、やたらピンポイントな部活(この時はまだそう思っていた)との兼任との事で、活動はほとんど二人きり。

 先輩はそんな状況のままである事を気にして私を気遣ってくれたけれど、私は先輩と二人で過ごす、このゆるい時間を、割と気に入っていた。

 ――そんな素直な気持ちを伝えてみたら、何故か、感情が希薄だね、なんて言われたのだけど。


 先輩に言われた事について、考えてみた。

 私だって、色々な事が億劫に感じてしまう時もあるし、もの寂しい気持ちの時だってある。物語などに没入している時は、自分の感情というものは意識の外に行ってしまうこともあるけれど、現実に帰ってきた時には、楽しい気持ちだったり、切なく思ったり、良かったなぁ、なんて感慨を覚えたりもする。

 そんな風に、折に触れて自分の内に何らかの感情は伴っているように思えるので、先輩からそう言われた事は、単純に不思議に思えた。

 ただ、顧みると、怒る、という事は、ほとんど無いような気はする。

 意に沿わないような出来事や、突然降りかかる理不尽、そういった時にムッとすることはあるけれど、声を荒げたり、露骨にふて腐れたり、暴力に訴えたり、私が家族以外に対してそうした行動で怒りを表したことは、自分の記憶にある限りでは思い浮かばない。

 いや、母に対してさえも、当時の友人に言わせれば、私の反抗期なんて反抗期の内に入らない、なんて言われたくらいだから、明確に怒りをぶつけるような事はしてないのかも知れない。

 そういう意味では、希薄なのは“感情”ではなく、その中の“怒り”くらいなもので、せめて「感情の表現が希薄だ」と言ってくれたなら、少しは同意できたのかも知れない。


 その、怒る、という感情を思い出そうとして、思い浮かんだ出来事が一つある。

 小学六年生の時だったと思うけれど、細かい経緯は忘れたが、ある男子から謂れの無い中傷を受けたときがあった。

 その時私は、相手の一方的な決めつけや思い込みに確かに腹が立ったような気がしたのだけれど、同時に何か、心がすごく冷たくなるような気持ちがして、次の瞬間には、周りの全ての音がすうっと遠ざかるような感覚の中にいた。

 それは、雪の降る日のような遠い静けさに似ていて、そして何故か、私の頭には、誰もいない雪降る街並みにぽつんと佇む、一つの大きな箱が想像された。

 私はただ、いきなりそんな感覚を覚えた事が不思議で、同時にそれを面白いと感じていた。

 私の代わりにその男子を論破してくれた友達には、ありがたいな、と思ったことは覚えているし、周りで起こっていた事全てから興味が失せた訳ではないと思う。

 だけど、当の男子に関しては全く印象が残っていないあたり、その時不意に訪れた感覚に私の興味のほとんどは向いていたのだろう。

 ただ、その感覚自体を面白く思っても、何故そんな感覚を味わったのか、という事は、深く考えようともしなかった気がする。


 思えば確かに感情の一部は希薄かもしれない私の、でも、感情が一番大きく動いた日の事は、覚えている。幾度も幾度も、不意に思い出す度、心を殺してやり過ごすように、目を背け続けてきた想い出だ。

 それは、小学三年生の、秋のある日。

 私の自宅、母と二人で住むには広すぎる一軒家には、当時、私達以外にも家族がいた。

 名前は、金太郎。ゴールデンレトリバーだから、金太郎。名付け親は母だというが、そのネーミングセンスに全く疑問を抱かないまま育った私は、間違いなく母の子なのだろう。

 私がまだ赤ん坊の頃にやって来て、私の育児で精神的に参っていた母を救ったという金太郎。母曰く、幼い頃の私はその後ろをよくついて回っていて、また金太郎も、構ってもらえない時などは一生懸命に私の気を惹こうとしてみたり、それはまるで、私の兄のようで、時に弟のようでもある、そんな関係だったという。物心ついた後の私にとっても当然、そんな金太郎は、かけがえのない大切な家族だった。

 父の命を奪った交通事故、その時に父を庇おうとした時の傷のせいで右後ろ足の自由を失っていた金太郎は、その頃にはもう、ほとんど外には出たがらず、家の中でさえ、歩く姿はあまり見かけなくなっていた。

 でも、そんな元気を失ってしまったような金太郎でも、私が抱きつくと、そのモップのような尻尾を、ブン、ブン、と振ってくれて、それは私にとって、嬉しくて、あったかくて、大好きな瞬間だった。

 ――だけど。

 その日の夕方。私が学校から帰って、部屋にランドセルを置いて、手を洗って、うがいをして、そして、リビングの端の、段ボールで作った低い囲いの、そこに敷かれた毛布の上で、じっと横たわる金太郎に、私はまた、その、あったかさを求めて。――でも。

 でも、金太郎は、とても、とても、ただ――冷たくて。

 その冷たさが、それが示す事実が、私に与えたのは、ひどく“こわい”という感情だった。

 ただただこわくて、部屋に駆け込んで、ベッドに潜り込んで、震えていた。

 母親もどこかで冷たくなっていて、もう帰ってきてくれないんじゃないか、そんな想像をしてしまって、どうしようもなくこわくて。

 布団の中は暑くて、喉が渇いて、なのに、自分の身体の奥から冷たさが広がってくるように感じて、自分もこのまま全部冷たくなってしまうんじゃないかって、ただひたすらにこわくて。

 時間さえも凍って固まってしまったように思えた、永い永いこわさの中で、いやにハッキリと玄関の扉が開く音を聞いて、布団から飛び出した。

 駆けて、そして見つけた母の顔は、私の様子に少し驚いた顔で、でも、いつも通りの母さんで、それは、びっくりするくらい安心して、私は、泣いた。

 泣きながら、金太郎はもう、いなくなるんだと思って、寂しくて悲しくて、泣いた。

 そして何よりも。

 いつまで経っても消えてくれない、胸の奥に潜む“冷たさ”に。

 私は、その涙を長い間止める事ができなかった。


 ――今なら解る。

 その冷たさは、罪悪感だ。

 金太郎が冷たい事に、死んでしまった事に気付いても、私はただ怯えるだけで、そのことをすぐに悲しんであげられなかった後ろめたさ、その、とても大きな、罪悪感。

 そしてきっと、その時の、今も消えない罪悪感が、私が素直に感情を顕わにすることに、ブレーキを掛けている。

 先輩の、たぶん何気ない一言が、そんなことを私に気付かせてくれた。


 先輩と過ごす日々を重ねて、改めて思う。――先輩はかわいい人だ。

 先輩と仲良くなるのには、そんなに時間は掛からなかった。それはひとえに、先輩の“距離感の近さ”のおかげだと、私は思っている。

 それは、すぐに名前呼びをしてきたような精神的な近さもあったけれど、物理的な距離感という事もある。

 先輩は人にひっつくのが好きなのか、割と早い内から私の身体や腕に抱きついてくる事が多かった。

 私も最初の内こそ「ねえ、パーソナルスペースって知ってる?」なんて心の中で思っていたけれど、その悪意のない笑顔にいつの間にか絆されたのか、そんな先輩の接近を、(年上の人に対して失礼だとも思いつつ)甘えん坊の妹ができたような気持ちで、あっさり受け容れていた。

 そんな先輩も時々、私に対して先輩風を吹かせたりもする。

 例えば、中間考査の前。部室で一緒に勉強をしている時、私の方をチラチラと窺いつつ、目が合うと「分からない所は遠慮なく聞いてね」なんて言ってくる。

 私はといえば、入学金や授業料免除の特待生制度のあるこの高校を選んだ手前、勉強に関しては相当努力した自負もある(お金の心配はしなくていい、と言った母に対する反発もあったのだけれど)。

 年次毎に審査もある制度だから予習もだいぶ先まで進めているので、先輩に頼るどころかむしろ、文系の分野であれば、うんうん唸る先輩に私がアドバイスする事もできた。

 そんなときの先輩は頼られなくて寂しそうな雰囲気が少しあって、つい、背伸びしたがる妹のように見てしまったりもするのだけれど、でも、それでも先輩は私に対して、すごいね、とか、ありがとう、と言ってくれて、それが強がりとかじゃなくて、素直にするっと言えてしまうのは、この人の美徳だと思う。

 一方で、私が入部を決めた次の日には花井先生に顧問を引き受けてもらっていたり、空いている土日の予定を伝えたその日の夜には比較的近場のドッグトレーニング見学会の参加を伝えてきたり、私にはない行動力で私を引っ張ってくれるような所は、頼りになるお姉ちゃんのように感じたりもする。

 犬っぽくて、可愛らしくて。時に妹のようで、時の姉のようで。

 そんな先輩に、私は金太郎の面影を見ているのかも知れない――なんて、頭では考えてみたけれど、心のどこかが納得しない感覚が残っただけだった。


 地味に、地道に、まったりと私なりに楽しんでいた部活動は、大きな変化もないままに、一学期が終わった。

 でも夏休みは、それまでにやりたくてもできなかった事をやろう、と先輩に言われ、週に一度くらいのペースで先輩と会って、そのたびに、犬と触れ合えるテーマパークや犬カフェなどへ、遠出した。

 それは一応、部活動という名目だったのだけれど、そんな事は私の頭の中からはすっかり抜け落ちて、ただただ楽しいばかりの時間だった。

 そんなある時、先輩が私に尋ねた。

「シズちゃん、無理とかしてないよね?」

 全然無理なんてしてるつもりはない私としては、なんでそんな事を聞くのか不思議に思ったけれど、私が小さい頃に飼い犬を喪ってからは犬を飼っていないという事を先輩に伝えていたので、そのことを気にしてくれているのだと思い直した。

 だから私は、素直に「はい、全然大丈夫みたいです」と伝えた。

 すると先輩は満足そうに、それなら良かった、と言った後、更に付け加えてこう言った。

「じゃあ、楽しみにしていてね!」

 そう言ったきり、何を? という私の疑問には答えてくれず。

 結局、私がその答えを知るのは、夏休みが明けてからだった。


 そして、新学期最初の部活の日。

「あの、千羽先輩。落ち着いて下さい」

 私は、ウロウロウロウロと部室を落ち着きなくうろつく先輩を見かねて、そう声を掛けたのだけれど。

「え? ああ、うん、ダイジョブダイジョブ」

 返ってきたのは、そんな、どこか心ここにあらずといった様子の空返事。

「あの……、今日、何があるんです?」

 どうにも気になってそう尋ねれば、先輩は、思わずこちらもつられてしまいそうなほどの、この上ない笑顔で、

「えぇ~? んふふ……。すぐに分かるよぉ~」

 なんて言う。

 私としては、こんな先輩の様子と夏休みのやり取りから、「もしかして」と「でもまさか」という気持ちを行ったり来たりしつつも、この後に起こる事を予測していたりもするのだけれど。

 それを先輩に言ってみようか、でも、私に対するサプライズなら黙っておくべきか、なんて迷っている内に、部室の扉が開けられた。

 そこから表れたのは、顧問の花井先生。そして、その手には、キャリーバッグ。

 何を運ぶためのバッグか、なんて、考えるまでもない。

 ――だって、側面の窓から、興味津々といった様子でこちらを覗く、愛らしい子犬の顔が見えているのだから。

 犬種は――柴犬だろうか。ミックスかも知れない。

 私は、多分私今ニヤけてるんだろうなぁ、なんて思いつつもあらがえず、ただ子犬のかわいさに胸をときめかせていると――。

「……おいおい、マジかよ……?」

 すぐ横から、そんな、今まで聞いたことのないような声で先輩が呟くのが聞こえ、思わずそちらを振り向いた。

 先輩は、窓から覗く子犬の顔を、射貫かんばかりに見つめている。

 そして――。

「……どちゃくそかわええやないか……。これもう、やばたにギャラクシーじゃん……」

 今まで聞いたことのないような言葉遣いで喋り始めた。どうやら、子犬のあまりのかわいさに、どうかしてしまったらしい。……っていうか、ギャラクシーって何だ? いやまあ、園っていう規模じゃ収まらないって事なんだろうけれども。

 因みに、子犬に夢中なあまりに私の事はすっかり頭から抜け落ちたそうで、後で、私が驚く顔を見られなかった! と、頭を抱えて悔しがっていた。まあ、どっちにしても私の驚く顔は見られなかったのだけど。

 ともあれ、先輩がおかしくなるのも理解できるくらい、その子は可愛らしかった。

「はいはい、ガン見する気持ちは分かるけど、一旦下ろすわよ」

 そう言って先生はバッグを地面に下ろした。

 ジッパを下ろし、入り口を開けてあげると、子犬はそっと顔だけを覗かせて、キョロキョロと辺りを窺う。

 そして、いよいよ外へ向かって、前足を踏み出して――。

 それは、ほんの一瞬の違和感だったけれど。

 私は、それを、よく知っている。

 鼻の奥に、きゅっと、沁みるような痛みを感じて。

 堪えようと思う間もなく、涙が溢れ出して、思わず蹲る。

 そして、その涙が私の心の奥から運んできたかのように、私が覚えているなんて思ってもみなかった記憶が、脳裏に浮かび上がってきた。


 私の前を軽快に駆ける金太郎。開く距離。思うように歩けない私の胸に、焦りのような、不安のような気持ちが。でもその瞬間、それを分かっているかのように、金太郎は立ち止まり、私の方を振り返って、その大きな尻尾を左右に大きくゆっくりと、私を誘うように揺らす。私は生まれかけた気持ちなんてすっかり忘れて、その尻尾を追いかけるのに夢中になる。もう少しで手が届く、その瞬間、また金太郎は走り出して距離を取り、その先でまた私を誘う。そんな事を二度、三度と繰り返した後、金太郎は手を伸ばす私の顔にその尻尾をふぁさっ、ふぁさっ、となでつけて。私はくすぐったさにバランスを崩して尻餅をつく。痛いというよりはびっくりする私。でも私は泣き出すでもなく、なんだか無性に楽しくて楽しくて、ケラケラと笑い出す。

 それは多分、私がまだとても幼い頃の想い出。


 私はビニルボールを投げる。金太郎は私の横をすごい速さで飛びだして、そのボールを咥えて戻ってくる。そして私は受け取ったボールをまた投げる。たったそれだけの事が、でも金太郎はとても楽しそうで、私もとても楽しい。私はふと意地悪を思い付いて、ボールを思いっきり投げるフリだけをして、すぐにボールを身体の後ろに隠す。金太郎は飛び出して行くけれど、ありもしないボールを探してキョロキョロして、でもすぐに何か疑うような様子で私を見る。私は身体の後ろで腕をあまり動かさないようにしてボールを横に転がす。すると、ボールに気付いた金太郎が、すごく必死な感じでこちらへ向かってきて、その顔は私のツボに入り、私はお腹を抱えて笑い出す。その面白さを両親に伝えたくて、私は縁側で私を見守る二人の元へ駆けていく。

 それは小学校に入る前、まだ父がいた頃の想い出。


 私が転んで泣きそうになった時の、心配そうな金太郎の顔。

 仰向けに寝ている金太郎の、薄目を開いた変な顔。

 友達に怖がられて、ちょっと悲しそうな金太郎。

 怒られて泣いている私にそっと寄り添ってくれた、金太郎の温かさ。

 ――浮かんできた想い出たちに、悲しみよりも、楽しさや嬉しさ、優しさが心に湧き上がる。

 そして、ようやく私は、本当に理解した。


「大丈夫? シズちゃん」

 先輩の心配そうな声に、現実に引き戻される。

 私は、悔しくて情けなくて、八つ当たりのように、しゃくり上げながら、溢れるままに、思いを吐き出す。

「私は……っ、あの子に……、ごめんって、言わなくちゃっ、て。……でもっ、本当の……、心残りは! ……私、あの子に、ありがとうって、言えてない!」

 そうだ。どうしてこんな簡単な事に、もっと早く気付かなかったのか。

 悲しんであげられなくて後ろめたかったからって、大事な想い出と一緒に大切な言葉まで心の奥に押し込めて。

 私はただ、大好きな金太郎に、一緒に過ごした時間がかけがえのないものだった事を、その感謝を、ただ伝えてあげれば良かっただけなのに!

 その時――ぎゅっ、と。

 先輩の腕が、私の頭を優しく包み、その胸に抱いた。

 それだけの事で、どうしてだか妙に落ち着いて、冷静さが戻ってくる。

 いきなり泣き出して、独りよがりな言葉を吐き出すだけの私に、軽率な慰めを口にする事もなく、こうして優しさを示してくれる千羽先輩に、少しの申し訳なさと、安らぎと、心の奥によく分からないむずがゆさを感じる。

 暫しそうした後、先輩がそっと口を開いた。

「……シズちゃん、もし、辛いなら……」

 先輩がそれ以上を口にする前に、私は、その奥ゆかしい胸の中で、首を横に振る。

 そして、考えをまとめながら、ゆっくりと話してみる。

「うちで昔飼ってた子、事故で後ろ足が片方不自由だったんです。……大丈夫だと思ってたんですけど、この子の歩き方が、その子みたいで……」

 右後ろ足をあげたまま、不思議そうにこちらを見上げている子犬を見る。

 その表情は、幼いうちからハンディを背負っているなんて微塵も感じさせないほどに、無垢で、可愛らしい。

「昔、うちの子が亡くなってから、ずっと私の中にわだかまりがあったんです。最近ようやくそれに向き合えたと思ってたんですけど……、この子が、そうじゃないよ、って、教えてくれました」

 私を包む先輩の腕をそっと解いて、先輩と向き合う。

「だから、今度こそ、大丈夫です!」

 そう、笑顔で、言った。

 この時の私はきっと、今までで一番自然な笑顔になれたと思う。

 とはいえ――。

「……うん、その感じだと本当に大丈夫そうだね。……良かった」

 そう言ってくれた先輩の、その、輝くような魅力的な笑顔には、到底敵いそうもないのだけれど。



 ――ところで。

 金太郎との想い出が私に教えてくれた事は、もう一つある。

 それは、金太郎への“好き”が、千羽先輩に対する“好き”とは、やっぱり全然違うものだ、という事だ。

 勿論それは、友人らに対する好意とも、全然違って。

 これは私の推測でしかないのだけれど――もしかしたらこの先輩への“好き”は、世間一般では『恋』とか『愛』とか言うのかも知れない。

 でも、千羽先輩と恋人らしい事――例えば、キスとか――をしたいのか、と考えると、別にそれを求めてるわけじゃない気がする。

 だけど困った事に、“それ”を想像してみても、全然嫌じゃない自分もまた、自分の中にいるのだ。

 ――だから私は、実際に、確かめてみようと思う。

 この決断をするまでに迷いが無かったわけじゃない。でも、今、自分の中にあるこのハッキリしない気持ちをそのままで押し込めてしまえば、また何かを間違ってしまうような気がしてしまって、傷つくよりも、その方が恐いと、思った。

 先輩との関係が壊れる事だって、同じくらい恐いけれど、どこか、先輩の優しさに期待してしまっている、ずるい自分がいて。

 もしかしたら今の私は冷静ではないのかも知れないけれど、もう、こうするって、決めた。

 足元には、もう今は空っぽになった、小さな箱を置き去りにして。

 私は、先輩の元へ、一歩を踏み出した――。




 ――少し取って付けたようになってしまいましたが、一応今回も百合ものを目指して書きました。

 今までの作品と同様に、自分で充分に納得して送り出すわけではないのですが、自分で推敲を重ねても堂々巡りを繰り返すような感じなので、皆様からの率直な意見、感想、あるいは評価のみでも、伝えて頂けると嬉しく思います。


 また、後日『おまけ』を投稿する予定です。

 こちらは少し毛色の違う感じになると思いますが、そちらもご覧頂けたら嬉しく思います。


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