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45話 朝食

 なにもかもが壊れていく。


 俺は、かつて、そんな経験をした。


 失われていく。深い暗闇に引きずり込まれていく。誰もいない、空虚な空間で、押しつぶされるように沈んでいく。


 世界は色あせる。墨汁が何度も擦り切れていくのと同じ。剥がれ、薄まり、空白を汚す。心がただれ、感情が枯れ、気持ちが塗りつぶされる。


 俺のなかで、その経験は今なお深く傷として残っている。


 膝を抱えて、部屋の中にこもっていたとき。俺はずっと、カーペットの毛先の一本一本をじっと見つめていた。なにもできなかった。失われたものの大きさに、頭が追い付かず、熱で浮かされたように瞼の奥がじんとしていた。


 後悔なんて言葉では形容できない。言葉なんかでは決して表現できない。ぽっかりと空いた穴のなかで、俺は、ひたすらにあがくことしかできなかった。


 誰も、俺を責めなかった。俺のせいではないと、優しい声をかけられた。そのふんわりとした思いは、しかし、俺には重くのしかかった。


 いっそ、誰か俺を殺してくれ。

 いっそ、誰か俺の首を絞めてくれ。

 いっそ、俺を土の中に埋めてくれ。


 心の中で自分を責めても、俺は自分を苦しめることができない。苦しみたくないという人間の本性が邪魔をしてくる。


 頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 自分の気持ちを整理することなどできない。ひとつひとつを拾い集めようとするたびに雑音が入り混じる。


 このまま、ずっと俺は苦しみつづけるんだろう。

 いつまでも、逃れることはできないんだろう。


 そう思った。


 ある日、俺の部屋の扉が開いた。


 そこには、妹の紗香と親父の姿。


 俺を心配し、様子を見に来たらしい。


 俺はぼんやりと二人を見ていた。


 二人は、なにごとか俺に話しかけている。けれど、返事ができない。何を言っているのか理解ができない。はるか遠くから、声をかけられているような気がする。


(*******)


 紗香が言う。


(+++++++)


 親父も言う。


 言葉は、俺の中で音として処理される。


 音は、それでも繰り返し、耳に響いている。必死に必死に、俺に語りかけられている。


(……あ)


 何か言わないと。そう思って、口を開ける。


 でも、それはやはり音にしかならない。中空に消えてなくなる。


 二人はあきらめなかった。親父も、紗香も、毎日のように俺の部屋を訪れ、ときに肩を抱き、ときに手を握りながら、何度も何度も語りかけた。


 しだいに、音は言葉に変わっていく。


(**にぃ、らしくない)

(おまえは++++子だ。***わかっている)


 ゆっくりと、ゆっくりと。


 雑音が晴れていく。ぐちゃぐちゃに歪んだ世界が、秩序を取り戻していく。


 俺は、ずっと探していた。


 失った俺が、できること。


 俺には、まだやらなければならないことがある。


 そのことに、少しずつ気づいていく。


 気づくと同時に、心が軽くなるのを感じていた。


 世界が色を取り戻す。深い闇の底から、浮き上がっていく。


 親父と紗香を見て、思う。


 俺は、俺は――


* * *


 目が覚める。


 夢から脱する。


 日曜日の朝。


 まだ日が昇ったばかりのようで、鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。


 閉め切られたカーテンの底から、光が漏れていた。少しだけベッドにも侵入し、俺の顔の一部を覆っている。


 まばたきする。目が冴えてしまっている。もう、寝られそうになかった。


 体を起こすと、足が痛むことに気づいた。昨日、無理に紗香を運んだからだろう。筋肉痛になってしまっている。


 ちらりと、机の上を見ると、勉強道具が散らかったままだった。あのあとも勉強をつづけていたが、徐々に眠気に負けてしまい、ベッドに倒れこんだのだ。


 目覚まし時計が指しているのは、午前7時半。親父も紗香もまだ寝ていることだろう。


 俺は、足音を立てないように部屋から外に出る。そして、一階に降り、リビングルームに入った。


 起きるのが遅いとはいえ、紗香は朝ごはんを食べる。ハムエッグでも作ろうと思い、キッチンに立ち、準備を始めた。




 紗香は、9時くらいに起きてきた。


 寝ぼけ眼で食卓に向かい、俺の作った料理を口に運ぶ。ぼけーっとテレビの朝番組を眺めながら、繰り返しあくびをしている。それから俺を見て、訊いてきた。


「あたし、いつの間に寝たんだっけ」


 どうやら、俺と話したところまでは覚えているらしい。しかし、そのあとどうなったのか記憶にないという。


「おいおい。俺が寝室まで運んでやったんだろ」

「え? そうなの?」


 きょとんとした顔をしている。


「大変だったんだぞ。それに、寝かせてからも俺の服の裾をつかんで『お兄ちゃん』って」

「いや、それはないわ」


 まぁ、お兄ちゃんなんて呼んでいたのは、小学生のときまでだ。いつのまにか不名誉な呼び名が定着してしまった。


「でも、俺の服の裾をつかんだのはほんとだぞ」

「へー」


 ジト目で見られる。信用していないようだ。


「とりあえず、あたしの部屋に勝手に入らないでよね」


 自分から頼んだくせに何を言ってるんだ。しかし、そう言っても信じてもらえなさそうなので、諦めた。


 紗香は、淡々と朝食を食べつづける。

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