02『馨しき薔薇と古き本、宇宙の果てを知る想い』
「……異世界『ユグド』」
「そ、ユグド。あの蜘蛛女はそこから来た、この世界の者では無い来訪者だ」
本来の待ち合わせ予定場所だった喫茶店の席に着くなり、目の前の女から語られた話はどれも気が遠くなるほどデタラメのような話で、しかしそのどれもが今しがた見て来た現実と辻褄が合ってしまい頭がどうにかなってしまいそうだった。
遠い遠い宇宙の彼方にありながら、あらゆる世界と繋がり、その全てが流れ着き異様なカオスを構築している不滅の異空間。このド田舎である地球に住まう私達地球人にはまるで理解出来ない無数の倫理観を持つ多種多様な種族が入り乱れる、全ての自由が約束された世界……。
こんな場所で紅茶を啜ってる私には、そんな話到底理解出来うるハズもなく、しかしそんな話を聞いているとどれだけ自分がちっぽけなのかを否が応でも五感に刻み込まれ、手が震える。
「ま、そんなに身構える必要は無いさ。なにせこの惑星でユグドの存在を認識しているのはほんの一握り……君もその一握りに含まれただけに過ぎないのさ、リコ」
「それって大分問題なんじゃ……」
「でもさっき蜘蛛人間に食われかけた現実を理解するにも、君の信条に準ずるなら真実を知って理解するしかないんだろう」
「そうですけど……」
そんな事を言われたって、こんなこと急に言われてもそれは少し気が違ってしまった作家の妄言としか思えない……最も、辻褄が合い過ぎている為に否定もしようが無いが。
それでいて当の異世界からやって来たという作家の女、イルはこちらの困惑を尻目にブラックコーヒー……では無くコーラのような黒い炭酸飲料を啜り私の顔色とカウンターの向こうに立つ店員の女性の顔を見比べてばかりだ。
今更こちらから否定してやれる根拠も無いが、しかしこの受け止めきれない現実を何とかして否定して目の前の黒服の作家に跳ね返してやりたい。
反撃の糸口を探し出そうと話の矛盾点を脳裏で血眼で探り続ける私を、イルはグラスを机に置きなおしながら口を開いた。
「この店は相変わらず良いなぁ、静かで、飲み物もメシも旨くて、おまけに古本と薔薇の香りが良いつまみになる。本の虫である僕らにはこれ以上に適した憩いの場なんて無いな」
「このお店、よく訪れるんですか?地図にも載ってなくてメールにここの行き方だけ記されてて探すの大変なくらいだったんですが……」
「そうだね、よく来るよ。常連だからね」
何気ないはずのイルの発言。しかしその言葉に私はハッとする。
地図に無い喫茶店『ロゼット・ネビュラ』は豊富なドリンクと軽食、そして何より決して広いとは言えない店内の壁の棚に並べられた書物が特徴的な場所だ。
夜は酒類も取り扱うバーとなるこの店は、事前にリサーチした情報によると本当にごく一部の近隣住人やマニアのみが存在を知る隠れ家のような場所らしい。
店内にはほのかに薔薇のような優しい香りが漂い、柔らかな木造を主体とした内装はどこか心落ち着き心地が良い。
本棚に並べられた書物は最近のヒット作から、一度は学生時代に国語の教科書などで目にしたような気がする名作達のくたびれた古本まで取り揃えられており、いつでも手に取って読んでも良いそれら書物からは甘い古本の香りも感じられる。
何処までもしっかりと丁寧に手入れが施されたこの喫茶店は、一部の人間からこよなく愛されているのも納得がいく……が。
何より問題はそこではない。この目の前の異世界から来たはずの女は堂々と『よく来る』などと言ったのだ……!
「察しが良いね、君はもう既に別世界のほんの一端に片足どころか全身踏み込んでいたのさ」
「……それじゃ……」
「チラチラ見てないでそろ出てきたらどうだ?オーナー。自分のメイドにばっか任せてないでさ」
「やれやれ……君が異世界の人間をユグドに巻き込もうとするとは珍しい」
店員さんがグラスを拭いていたカウンターの向こうから聞こえる少し古臭い喋り方をする女の声。
それに続いて「よいしょっと」という声と共にカウンターの向こうから現れる、小さな手。
店員に手伝ってもらって姿を現したその人は……人は……!?
「にっ、人形!?!?」
「そうとも。私は人形だ、死体を繋ぎ合わせて作った……な」
「ヒッ……」
「おいおいストレンジ、あんま田舎者を脅かすモンじゃないぜ。今日初めて色々とヤベーもん見て来たんだからな」
イルの隣にちょこんと腰かけたソレは、どこをどう見ても可愛らしいフランス人形そのものだ。そのもののハズなのに、あろう事か私やイルと流暢に会話もするし、それどころか誰に操られるでもなく自由に行動して薔薇の香りがする紅茶まで飲み始めたではないか!
古風な衣装の上から焦げ茶色の革製のようなポンチョを羽織り、薔薇のように美しい赤髪の上にそっと気品漂う中折れ帽子を載せている私の腰ほどの背丈も無い彼女の指や関節部分には、確かに人形の特徴に見られる独特な球体関節を形成している。
何よりその無機質で冷たい白い肌と紅い瞳は、否が応でも彼女が生きている人形なのだと脳に刷り込まれ、好き勝手に喋り紅茶を啜るその光景に思考回路がエラーを吐き出しそうになる。
「リコくん、こちらがこのお店のオーナー、ストレンジだ」
「ど、どうも……」
「あぁそんな人形風情に頭なんて下げなくていい。それより、今日はいろいろあって大変だっただろう」
「は、はい……それはもう……」
思っていたよりも気遣いと優しさを感じられる口調……ではなく!目の前にいるのは『死体を繋ぎ合わせた』という悍ましい喋る人形だったのでは!?という思考が渦巻き頭がぐらぐらする。
「イルが無関係な誰かに干渉するどころか、こっちに引き込もうなんてそんな滅多な事なかなか無いんだがな。どんな風の吹き回しなのやら」
「オーナー、僕は別に引き込もうなんて考えてないさ。でも彼女も巻き込まれてしまった以上、放ってはおけなくてね。それに、もし僕らが干渉しなかったとして、彼女がユグドのこと探ろうとしないとは思えないし、そんな事してヤバい連中に眼を着けられでもしたら僕は助けてやれない。いくら僕らでも一度刻み込まれた記憶をどうにかするのは至難の業だしね」
「そんな事言って、どうせ居なくなったアイツの代わり……さしずめアシスタントとして彼女をスカウトしようとしているんじゃないか?」
「あ、バレちゃった?でもそれはちょっと語弊があるかな。僕が求めてるのは相方であって……」
「え、ちょっとなんですかその話!?」
頭の処理が追い付いていないにも関わらず、目の前で繰り広げられていた会話は更なる急展開を迎えていた。
相方?アシスタント?つまりはその……異世界であるユグドとやらに私を連れ込もうとしているという事でいいのだろうか?いや、会話の内容からしてそうに違いない。それはつまり……。
「そうは言ってもだ、イル。今日初めてこんな事実を突きつけられてまだ理解もしきれてない状態の彼女がそんな事……」
「いきます……」
「……え?」
「行かせてください!私も!その宇宙の彼方の世界に!」
私の答えは、ただひとつという事だった。
「ほら、な?」
「……まいったな。彼女も君と似たような人間性なのか」
「私、確かめてみたいんです。あらゆる世界が流れ着き、無数の文明が混在していて、科学と魔法が共存して人は死んでも生き返る……そんなデタラメな世界が本当にあるのかを……この私自身の『目』で見て確かめてみたいんです!」
「いいかい、リコくん。あの彼方の世界は一度踏み込めばそれまで、たった一度の人生は無くなり、生きるという概念すら失われる代わりに、カオスだからこそ構築される果てしない自由な世界から出られなくなる。手続きを踏めば出られない事も無いが、それは肉体の話であって魂は別だ。ユグドという宇宙の吹き溜まりに踏み込んだ時点で、もう後戻りは出来ない。手荷物で持って入れる物以外、全ての大切なモノはこの世界に置き去りにしなければならないんだ」
「私は……」
今日は本来、インタビュー目的でここに訪れていた。
その為、持っているのは1セットのメモ帳と携帯電話、そして姉の形見である旧式のカメラのみだった。
しかし……。
「私の大事なモノは、このカメラだけですから。これさえあれば、十分です」
「家族は……君の家族はどうするんだ」
「姉は数年前に死にました。両親は……居ないようなものです。だから良いんです、この世界に未練なんて……それよりも、知りたいこと、見たいものが沢山ありますから!」
「な、オーナー。あの世界を始めて見た時の僕たちのように、彼女もまた引き返せないところまで踏み込んじまってたんだよ。あの蜘蛛人間に襲われた時から……いや、本当はもっと昔からかも知れないな」
「……」
イルとストレンジは静かに私の手に持たれたカメラを見つめていた。
なんの変哲もない、ちょっとだけ高級だけど、旧式で古臭いカメラ。
仕事とは何の関係も無く、ただ私の見たお気に入りの景色を切り取る為だけに持っている、懐かしい姉の置き土産。
「……なるほどな。確かに、アイツとはちょっと違うが、お前さんのパートナーとしては十分すぎる『目』を持っている」
「オーナーのお墨付きもアリって所だな。リコ、本当に着いてきてくれるんだね?」
「はい……行きたい、行って、確かめて、その世界で生きてみたいです」
「これはもう止めても無駄だな……ただ、ひとつ忘れないように」
ストレンジはそう言うと、一口紅茶を啜り、何処からか出現させたのか、一輪の薔薇の華をこちらに差し出した。
恐らくイルの言っていた『魔法』、というシロモノで形作ったのだろう。
「あの世界は自由だ。何故ならこの世界と違って『やってはならない』という事が無い。法律というモノが無い訳では無いが、ただそれ以上に、不滅となった故に暴落した命の価値は、それだけ狂気と混沌を何処までも助長させ、増幅させている。だから、忘れないことだ。この世界で生きた人間としてのルール。そして本来の君はただ一人、ここで私の淹れた美味しい紅茶を飲んだ、『リコ』という『人間』だったという真実を、な」
「……はい。忘れないようにします」
「上出来だ……これはまだまだぼんなお前さんには贅沢すぎる良い相方さんになるかもな」
ほのかに気品を感じる香りを漂わせるその薔薇を、私は受け取った。
「それじゃあ、行ってみようか、リコ。この宇宙の最果てに」
「はい!」
席を立ちあがったイルは、薔薇を握った私の手を確かに繋ぎ、そして外の世界へと引っ張り出した。
古本と薔薇の香りに包まれた店内から飛び出し、何度も嗅いだ初めての外の香りは、何処か苦くて、爽やかな味がした。
「うむうむ……ってお勘定がまだではないか!待て!」
「え!?ちょ、これって食い逃げじゃ!?」
「はっはっは!折角の門出だ、今日くらいは奢ってもらうぜオーナー!」
「くっ……向こうで会ったら覚えておけよ!食い逃げのツケは高く付くからな!……ったく」
初めて来た場所とは言え、いつもの地球上を走り抜ける私達。
食い逃げに対する罪悪感さえなければ、きっとこの上ないほど爽快感に満ちた旅立ちだっただろう。
「……ま、今日くらいはチャラにしてやってもいいか。まだまだ純粋な少女よ、多くを見て、嗅ぎ、触り、感じると良い。きっとそれこそが、他でも無いただ一人の君自身を生み出すだろう。勘定は、その時の『出生払い』でよしとしよう」
「ストレンジ様、私達もそろそろ向こうに戻りましょうか」
「そうだな、私達も、『観なければ』、な」
折角心残りは無いと言った傍からこんな事をしてしまってはまた後ろ髪を引かれるような思いだが、私の手を笑いながら引いて走るイルの姿に、後戻りが出来ない道だと割り切って踏み出せた。
片手に抱えた姉のカメラは、いつもと変わらず日差しを浴びて黒く煌めく。
その透き通るようなレンズを通して、何よりも自らの足で未知の世界へ踏み出す決意をした私を、何処からか姉が見守ってくれているような気がした。
最期に感じたほろ苦い空気と薔薇の香り。
旅立ちのこの日を、私は永遠に忘れる事は無いだろう。