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それは誰に向けた言葉だったのか、最後までセラン本人にもわからなかった。
ただ、それ以上そこにはいられなくて走り出す。
婚礼衣装のまま、どこでもない場所へ。
(私に翼があったら、こんな場所から飛んで行けたのに!)
セランの頬は、水を浴びたかと思うほど濡れていた。
次から次へと涙がこぼれて止まらない。
見てしまったもの、聞いてしまったものがひどく心を傷付けていた。
ラシードはともかくとして、サリサのことは信じていたのに。
二人でいるときはセランのことをああして言っていたのだ。
(翼なんかなくても、飛んで行ってやるんだから……!)
もう集落に戻るつもりは毛ほどもない。
花嫁であるセランがいなくなれば大騒ぎになるだろう。むしろ大騒ぎになってしまえと心から願う。
大して思い入れのない一族のことなど、もはやどうでもよかった。
セランがいなくてもタタン族の族長息子はアズィム族の娘を気に入っているではないか。族長が結婚を早めたいと言っているなら、この際セランでなくとも要求を呑むに決まっている。
最初からセランでなければならない理由などどこにも、そして誰にもなかったのだ。
それなのにセランは手ひどく傷付けられることになってしまった。
婚約などなかったことになればいいと思い続けていたが、こんな形での破棄は望んでいなかったというのに。
セランは望んだ結果を手に入れたがために、友情も住む家も結婚相手まで失うことになる。
(もう、いい)
悲しい思いは涙にして全部砂に落としてしまう。
一族の住む集落とは別方向に足を進め、誰の顔も見ずにすむところへと逃げ出した。
――そして、今に至る。
(このまま死んじゃったりとか……ない、よね……?)
ぜえぜえと息をして、ひりつく喉を押さえる。
自分がここで命を落とす可能性を考えはしても、いざその瞬間となると思いつかない。
死、という言葉はあまりにも現実味がなかった。
「――っ、ふあっ!」
足がもつれたせいで、砂の上に転んでしまう。
「あっつ、あち、あちっ……」
熱せられた砂は焼きたての肉よりも熱かった。
すぐに立ち上がろうとしたが、そうする力がもう入らない。
(ああ、もう)
しかもそんな状況で空に影が差した。
太陽を背に、鳥とは思えぬ巨大な生き物が翼を広げてこちらへ向かってくる。
(干からびて死ぬくらいなら、餌になってなにかの命を繋ぐ方がまだいいかも。……あ、でもやだな。絶対痛いし、せめて意識がなくなってから食べられたい。……うーんうーん、痛い死に方も苦しい死に方も嫌だよう……)
すっかり心が萎えてしまい、生きる気力もなくなっていく。
(もし生まれ変わったら、絶対復讐する)
そう心に誓い、セランは目を閉じた。
そのまますとんと意識を失ってしまう――。