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眠れる電車のキミ

作者: 綾稲ふじ子

 あっ、彼だ。よく眠ってる。

ほどほどに込み合った朝の通勤電車の中で彼をみつけた。それで最寄り駅が私のひとつ先の駅だったのを思い出した。


その人は以前に勤めていた会社の先輩で、営業部に所属していた。

私は経理部で、部署もフロアも違ったけど、休憩室などで顔を合わせると世間話をする程度の知り合いだった。少なくとも彼にとっては。

私は彼が好きだった。

一度告白したけど、本気と取ってもらえずに軽く流されて、それで終わった。

だけどきっとそれで良かったのだろう。私と付き合ったって、彼にとって、いいことなんてなにひとつない。

 そうわかっているのに、諦め切れなくて苦しかった。

ちょうどそんなとき、高校の先輩でずっと仲良くしてもらっているきよ香さんが、カフェを開くことになった。

それを手伝うために、私は会社を辞めた。

大学を卒業してから六年間働いた職場だったから、少し悩んだけど、今はこれで良かったんだって思ってる。

 

この四月で、カフェが開店して半年になる。名前はカフェ・オーロラ。

昔、きよ香さんは苦しい恋をしていて

“なにもかもが厭。どこか遠くに行きたい”って、口癖みたいに言ってる時期があった。

それからしばらく連絡が取れなくなって心配していたら、ある日ふらりと私の家に来た。なんでも有給休暇を使い切って、はるばるスウェーデンまでオーロラを見に行っていたそうだ。

もともと私たちは高校で天文学部に所属していて、きよ香さんは部長をつとめるくらい、天文学が好きだった。                     

 実際にオーロラを目前にしたとき、きよ香さんは達観したらしい。

「あんなに雄大な自然現象を前にすると自分がちっぽけに思えるし、悩んでいたこともどうでもよくなってくるの。なんかあったらカオちゃんも見てきなよ」

 と、真剣な面持ちで言っていた。

その時から彼女は、悩むくらいなら行動を起こせ、たとえ駄目でも、オーロラの前では失敗すら小さいものだ、という、わかるようなわからないようなモットーのもとで生きてきた。辛い恋の相手ともきれいに別れた。

 子どもの頃からの夢だったお菓子屋さんという職業に、本気で取り組み始めたのはそれからだ。

彼女の三十歳の誕生日に、カフェ・オーロラというかたちで、それは実現した。

店内に三名くらいしか座れないカウンター席と、テーブル席が三つ。喫煙するお客様のためにテラス席がひとつと出入口の外壁沿いに三人がけのベンチがひとつ。

本当に小さくて、ささやかなカフェだ。

 だけど今の季節だと、カフェに面した公園の桜が見事で、お茶とお花見をのんびりと楽しんでいかれるお客様も多い。

なんとなく落ち着くから、ここが好きって言って下さるお客様も、有難いことに何人かいる。

もちろん私たちも、ここが大好きだ。


ここで働き始めてからずっと、私は定休日の月曜日以外、毎朝八時十分の電車で通勤していた。

カフェに着くと、まず前日の売り上げの計算とか経理的な雑務、きよ香さんは料理の仕込みにはいる。

 それから一緒に掃除をしているうちに開店時間の十時半になる。十一時から二時までの 三時間はバイトの子も来る。今まで、そういう流れでやってきた。

だけど最近、仕事の流れも自分たちなりにできてきて余裕が出てきたので、今日から一本遅い電車に変えてみた。それで彼に気付いたのだった。

同じ職場に勤めている頃、私はこれよりも三十分は早い電車に乗っていた。

こんなギリギリの時間に乗ってたんだあ、よく間に合ってたなあって、私は彼の斜め前の席に座って、こっそりと寝顔を眺めながら感心した。

彼は会社の最寄り駅になると目を覚まして、さっさと電車を降りていった。私には全く気が付かなかった。

カフェの最寄り駅は、あと三つ先なので、私は目を閉じた。自然と、彼に恋していた頃のことが思い出された。


田中孝介さん。確か今は三十三歳のはず。

私が告白するちょっとまえに

「俺さぁ、仕事に没頭しすぎて彼女に捨てられちゃったんだけど。心の傷を癒すっていう名目で労災おりないかなあ」

 なんて嘆いていた。いまはもう、新しい彼女がいるのだろうか。

経理の業務のひとつに、出金伝票や交通費の明細書の回収があった。それがなくては、給与の計算ができない。それで毎月半ばに、各部署を回らなくてはならなかった。

そんなある日、気難しくて偏屈な営業部長から

「非生産部門の経理の人は、いつも暇そうでいいねえ。営業は色々と忙しくて、そんなの書いてる暇なんかないんだよ」

 なんて言われたことがあった。

そのとき、田中さんが

「そういう言い方はないでしょう、養田部長。どこの部署でも大変なのは一緒ですよ」

って諌めてくれた。それが話すようになったきっかけだった。

あとで休憩室でたまたま会ったときにも

「あんなふうに考えてる人はヨーダぐらいだから、気にすんなよ」

 と言ってくれた。

営業部長はその名字と外見が某SF映画のキャラクターを連想させるので、同僚のほとんどが、裏ではヨーダと呼んでいたのだ。私は心の中だけに留めておいたけど。

「ああいう言い方は失礼だよなあ」

「いえ…」

 私が曖昧に呟くと、田中さんがまっすぐに見た。

「お前さ、思ってることは我慢しないで、ちゃんと言ったほうがいいぜ。気持ちを溜め込みすぎると精神衛生上良くないし、状況も変わらない」

「そうでしょうか?」

「そりゃあなにもかもは変らないけど、たまには変ることもある。変らなくても現状維持だし、うまく好転すればラッキーじゃん」

 私が恋に落ちたのは、たぶんその時だった。

楽観的で明るくて、まっすぐで前向き。

そういうところを好きになった。

全て自分にはない要素を持っていたからこそ、彼に惹かれたのかもしれない。

                                        

 田中さんとは、それからほぼ毎朝、顔を合わせた。とは言っても、彼はいつも眠っていたので、私が一方的に寝顔を眺めているだけだったけれど。

 あるとき私は不意に、眠れる森の美女を思い出した。

眠っている彼は腕を組んで少し下を向いたままで微動だにしないので、まるで魔法に掛けられて、時が止まってしまった人のようだったから。

車内の人間のほとんどが眠っているのも、魔女に眠らされた城内の従者達を連想させた。

彼に口づけしたらどんなだろう、とぼんやり思って、慌ててその想像を打ち消した。


「あれぇ、佐藤さんじゃないですかぁ」

 カフェから駅へと続く道の途中で前の会社の後輩に声をかけられたのは、田中さんとの一方的な再会を果たした少しあとのことだ。

葉桜が鮮やかな季節の、気持ちの良い夜のことだった。どうやらデート中のようで、なかなか爽やかな男性と一緒だった。こっちは仕事を終えて一人でさみしく帰路に着く途中だというのに、全くうらやましい限りだ、と思いながらも微笑む。

「こんばんは。楠木さん。ひさしぶりだね。元気?」

「元気ですよ。佐藤さんは今、何してるんですか?」

「カフェで働いてるよ」

「カフェ? このそばですか?」

「そう。九時で閉店だから今日はもう閉まってるけど、良かったら彼と一緒に今度来て。ここからけっこう近いから」

 私はカフェの住所と電話番号、そして簡単な地図の載ったカードを数枚手渡した。

「ありがとうございます。会社のみんなにも渡しておきますね」

「ありがと。よろしくね」

 その翌週のことだった。田中さんが来た。


「経理の楠木がお前に会ったって言って、これくれた」

 彼はカードをかざしてにこりとした。

起きて動いている彼を前にすると緊張してしまう。頷くだけで精一杯だ。

きよ香さんがそつなく対応してくれた。

「あら、もしかしてカオちゃんが前にお勤めしてた会社のかたですか?」

 にこやかに話しかけられて、田中さんはちょっとぽかんとした。

きよ香さんは滅多にお目にかかれないような美女なので、初めて彼女に会った男性は、大体においてこういう反応をする。

「あ、はい。佐藤がお世話になってます」

 きよ香さんはふふっと笑った。そうすると、もともと下がりぎみの目尻が優しく下がって、もっとキレイだ。

「ご丁寧にどうも。こちらこそお世話になってます。あれ、カオちゃん、メニューは?」

 その言葉でようやく我に返った。

 急いでメニューを手渡すと、田中さんは怪訝そうに私を見た。               

「おいおい、だいじょぶかお前?」

 私はなんとか微笑みながら頷いた。

田中さんはメニューを見た。

「なにがお勧め?」

 そんな簡単な質問にも答えられないくらい、私は動揺していた。頭が真っ白で、何も答えられない。

「軽食でしたら、男性からはパニーニが人気ですね。甘いものがお好きなら、チーズケーキとラズベリーパイ、それからハニーパンケーキもありますが」

 きよ香さんがにっこりと答えた。

「じゃあパニーニ…とハイネケン」

「はい、かしこまりました」

 きよ香さんが下がると、田中さんは声を潜めて「あの人キレイだな」と言った。

「左手の薬指にリングをする前にお会いしたかったなあ」

大雑把そうに見えるのに、相変わらず目端の利く人だ。そんなことを考えて、少し冷静になった。ようやく言葉が出てきた。

「まだ結婚する気はないみたいですけどね。きよ香さん、カフェを始めたばっかりだし」

「あの人、きよ香さんって言うの」

「はい」

「カオちゃんって、ずいぶんかわいらしい呼ばれ方だなあ。そういえば下の名前、なんだったっけ?」

 だけど田中さんの言葉で容易く赤面してしまう。そんな自分がばれないように、全力で平静を装う。

「薫です」

「ふうん。初めて知った。わりと長く一緒に働いてたのにな」

「部署が違いましたからね。今日はわざわざここまでいらしてくれたんですか?」

 そう訊くと、田中さんはかぶりを振った。

「これから担当することになった取引先がここのそばでさ。ちょっと難しいところだから、ちょくちょく足を運ばないといけなくなっちゃった。今日はその帰り。直帰だから、これから家に帰るとこ」

 そういえば田中さんって、他の営業さんが敬遠するような難しい取引先ともうまくやってたな、と思いだす。きっと彼の人柄のせいなのだろう。

「そうだったんですね。お疲れさまでした」

「おう、ありがとな」

 にかっと笑う田中さんはなんだか可愛くて、また顔が熱くなる。赤い顔がばれないよう、少し俯いた

それから田中さんは、きよ香さんが作った、表面はこんがり、中はチーズがとろーりのパニーニをぺろりと食べて、少しお喋りしてから帰った。彼が最後のお客様だった。

私ときよ香さんはそのあとコーヒーを飲みながら、ちょっとした打ち合わせをした。

「じゃ、カオちゃん。バイトの子たちのお給料は、月曜日に準備しといてね」

「はい」

「ところでカオちゃん。田中さんのこと、好きでしょう?」

「はい。…えっ?」

田中さんがいなくなってホッとしていたせいか、きよ香さんの誘導尋問にまんまと引っ掛かってしまった。

たとえ否定したって、きよ香さんは田中さん以上に目端の利く人だし、女性特有の直感まで持ち合わせている。隠しきれるわけがない。諦めて素直に頷いた。

「やっぱりね。いつも冷静なカオちゃんが珍しく動揺してたし、ずっと彼ばっかり見てたから。すぐわかっちゃったよ」

 きよ香さんは朗らかに言った。

「田中さんにも、わかっちゃったでしょうか」

 不安になって尋ねると、彼女はちょっと笑った。

「たぶんばれてないんじゃない? あの人、女心には疎そうだから。また来るといいね」

 私はまた黙りこんだ。

来てほしいけど恐かった。この感情は、眠らせなくてはいけない。

彼とはなるべく距離を置こう。電車の時間も、明日からずらそう。二人きりになる可能性は、できる限り避けなければならない。これ以上、彼に惹かれたりしないように。


そんな私の気持ちとは裏腹に、彼はちょくちょく顔を見せるようになった。仕事の都合だろうか、閉店する少し前の時間帯に来ることが多かった。来るといつもカウンター席に座る。

「ふーん、それでカフェ・オーロラって名前にしたんですかぁ」

 田中さんは今日も来ていた。カウンター席できよ香さんの話を聞きながら、子供みたいに感心している。

「そうなんです。もともとオーロラに興味があったから、一度見てみたいってずっと思ってて。オーロラが発生すると、人間も含めて動物が狂うらしいんですけど、私の場合は行く前のほうが狂ってたから、逆に元に戻ったのかもしれませんね」

「狂ってたって?」

「恋に、ね」

「ははあ、なるほど」

 私もオーロラを見れば、この恋から覚めるのだろうか、などと思っていると、きよ香さんが時計を見て「あら、もうこんな時間」と、目を丸くした。

つられて時計を見ると、十時を回っていた。

「ついつい一時間もお喋りしちゃいましたね。カオちゃん、もう帰っていいよ。私も簡単に片づけしたら、すぐに帰るから」

「えっ、でも」

「田中さんと帰る方向同じでしょ。一緒に帰れば?」

「そうなんですか?」

「カオちゃんちって、田中さんのひとつ手前の駅なんですって」

「ふうん。じゃあ一緒に帰るか」

 その申し出を断る理由はなくて、とぼとぼと田中さんの後を歩いて家路に着いた。のんびりと歩く背の高い後姿を眺めながら、告白した時のことを思い出していた。


それは全部署合同の忘年会の時のことで、私はよりによってヨーダの傍に座ることになってしまった。当然のごとく絡まれて、飲めないお酒をほとんど無理やりに飲まされた。

私は、酔っぱらっても外見上はそれほど変わらない。ひっそりと気持ちが悪くなるタイプなのだ。そのせいで、ヨーダにどんどん勧められてしまった。

自分の限界量はビールをコップに二杯程度なのに、ワインを飲んでしまったのが決定打だった。一時間もしないうちに具合が悪くなった。

ヨーダに絡まれ続ける私を見かねた田中さんが、隙を見て、こっそりと外へ出してくれた。そしてそのまま駅まで送ってくれた。その時も私は、彼の少し後ろを歩いた。

きっと体内を満たしているアルコールのせいだったのだろう。気付くと、勝手に言葉がこぼれおちていた。

「好きです」

 彼が振り返った。

「なに? 今なんて言った?」

「あなたが好きなんです。田中さん」

 田中さんは吹き出した。

「なんだよ、駅まで送ってやるくらいで大げさな奴だな」

 そう言って笑った。

私も笑った。笑いながら、きちんと笑顔になっていることを祈った。

それから駅に着くまでずっと、黙って彼の背中を見ていた。


「なんだか思い出すな。いつだったかヨーダに飲まされて、お前がふらふらになってた時のこと」

 カフェと駅の中間くらいのところで、田中さんが唐突にそう言った。

同じことを考えてたと知って驚いた。ぴたりと足が止まった。

「あの時は驚いたぜ。まさか告白されるなんてな。飲ませるとけっこう面白いんだな。お前があんな冗談言うなんて思わなかった」

 振り返った田中さんは思い出し笑いをしていたけど、今日の私は笑えなかった。彼に構わずに歩き出す。

早く駅に着かなくちゃ。早くここから立ち去らないと、きっとまた言ってしまう。だから早く。

「おい、急にどうしたんだよ」

 無視して歩き出そうとして、右手を掴まれた。そのまま体の向きを変えられる。真正面に彼の顔が現れた。頭が真っ白になった。また口が暴走した。

「冗談なんかじゃありません。田中さんが好きなんです。あの時も、今だって、ずっと」

 彼は戸惑ったような顔をした。

「だってお前、男なのに」

 そう。私は男だ。少なくとも体だけは。


 悪い魔法使いに、呪いをかけられてしまう童話は、世の中にいくつもある。

 カエルに変えられた王子様や、白鳥に変えられた十一人の王子様。野獣に変えられた王子様もいた。眠れる森の美女も魔法にかけられて、百年も眠るはめになった。

 どれも、彼らの意志によってではない。魔法使いが、勝手に彼らを変えてしまった。

私はいつも、自分が呪いにかけられてしまったような気がしている。異性を愛することができず、家族が望むような男性としての生き方を選べない。そういう呪いだ。

同性愛者はここ最近、世間に認知されつつある。だけど私は、自分が自分として生きていくのに、いつもどこか葛藤がある。

大学生の頃に、付き合っていた人がいた。もちろん男性だ。私が恋人として求めるのは男性だけだ。

私は彼と付き合う以前にも恋人がいたけど、彼にとって男の恋人は私が初めてだった。

付き合い始めた当初はまだ良かった。付き合いを重ねていくうちに、彼はゲイとして生きていく重さに耐えられなくなった。家族や周囲の嫌悪や好奇の目が彼を傷つけた。

「こうなったのは全部、お前のせいだ」

 最後の言葉が今でも耳の奥に残っている。

わかってる。彼は正しい。全部私のせいだ。彼にとっては、私が悪い魔法使いだった。

私の両親は、自分たちの息子がゲイであることを受け入れられなかった。父親には殴られて、母親には泣かれた。

無理もない。同性と寝る人間なんて、理解できなくて気味が悪いのだろう。それが血の繋がった肉親であれば、なおさら受け入れ難いのかもしれない。家族とは何年間も会っていないし、これから先も、もう会うことはないだろう。

私はずっとゲイとして、そういういろんな痛みを抱えながら生きてきた。

だからこそ、田中さんに惹かれてはいけない。同じ相手に二回も振られるのが怖いからじゃない。万が一、間違って受け入れられてしまえば、彼にも同じ痛みを与えてしまうから。

そんな可能性がほとんどないのは、もちろん分かっている。

だけど一緒にいると、あらぬ期待をしてしまう。見てはいけない夢を見てしまう。私は無条件に恋を楽しんではいけないのに。

いままで、夜をともにした人も何人かいた。正直に告白すれば、恋人ではない、その場限りの人もいた。淋しかったから、一緒に過ごした。ただそれだけ。

彼らとの関係にはどんな未来もなく、なにかを生み出すこともなかった。それでもいいと思ってた。それなのに、どうして私は田中さんに恋をしてしまったんだろう。

 彼を振り切って、ひたすら走った。

いつのまにか、カフェの前の公園に辿り着いていた。

一回、思いっきり転んでしまって、両手のひらと右足の膝は盛大に擦りむけていた。

ベージュのハーフパンツの裾も、血と泥で汚れている。溜息をついて公園の水道で傷口を洗うと、驚くぐらいにしみた。


 翌朝目が覚めたとき体中が妙に熱くて、今までに無いような頭痛とだるさがあった。

久々に体温計を使ってみた。三十七.五度。知恵熱っていう言葉はあるけど、失恋熱っていうのもあるのだろうか。

枕もとの携帯に、ひりひりと痛む手を伸ばして、きよ香さんに欠勤の連絡を入れる。

「季節の変わり目って体調崩しやすいしね。お店は何とかするからだいじょうぶだよ。お大事にね」

「すみません」

 きよ香さんの優しい声に後ろめたさを感じながら、電話を切った。

今日一日だけ休ませてもらおう。そうしたら、明日には元気になる。元気になって、今度こそ本当に田中さんを諦めよう。

 わざわざ諦めなくたって、きっと気味悪がって、カフェ・オーロラには二度と来ないだろうけど。

そんなことを考えながら、シーツにくるまって目を閉じた。


 佐藤は今日も出勤しているんだろうか。

俺は仕事帰りにカフェ・オーロラに行った。例の取引先に行ったついでではなく、佐藤に会うために。普通に業務を終わらせてから来たから、今日はいつもよりも少し遅くなってしまった。

二日連続で来たら不自然だろうかと、出入口の傍で逡巡する。

会ってどうするんだ? 佐藤は俺を恋愛対象としてみている。その気持ちに、俺は応えられない。

「田中さんこんばんは。どうしてそこで立ち止まってるんですか?」

 いつの間にかドアが開いていて、きよ香さんが不思議そうに俺を見ていた。この人はいつ見てもきれいだ。そっと店内を見渡す。

「こんばんは。佐藤はいますか?」

 きよ香さんは何かを言いかけて、ちょっと口ごもった。

「あの?」

 そんなに変なことを訊いただろうか、と不安になった俺に、きよ香さんは微笑んだ。

「ごめんなさい。今日は体調が悪いみたいで、お休みなんです」

「…そうですか」

 いなくてほっとしたのか、それとも残念だったのか、自分でもよくわからない。俺は溜息をついた。

「あの、そろそろ閉店時間なんですけど」

「あ、すいません、そうですよね。もう行きます」

「いいえ、そうではなくて。もしお時間があれば、コーヒーでもいかがですか?」

 小首を傾げた美女からのお誘いに、俺は二つ返事で「ハイ」と答えた。


 入れ違いにカップルが二組出て行き、きよ香さんは出入口にCLOSEの札を掛けた。

「繁盛してますね」

 カウンター席に腰掛けながらそう言うと、きよ香さんは二人分のコーヒーを運びながら微笑んだ。

「ありがとうございます。おかげさまで、最近は夜もけっこう混むんです。明日は金曜日だから、きっともっと混むかも」

「じゃあ、今日はひとりで大変でしたね」

 何気なくそう言うと、きよ香さんはコーヒーを口元へ運ぶ手を一瞬とめた。

「ええ、まぁ」

 曖昧に微笑むと、彼女はコーヒーをひとくち飲み、それから俺をじっと見た。

「カオちゃんに、告白でもされましたか」

 いきなり言い当てられて、まじまじときよ香さんを見る。

「知ってたんですか」

佐藤が同性愛者なのも、俺を好きなのも。                      

「カオちゃんは自分からはなんにも言わないんです。いつも私が勝手に察してるだけ」

「俺はどうしたらいいんでしょう」

 思わず俺は訊いていた。きよ香さんは静かにコーヒーカップを置いた。

「それは、私にはわかりません」

「じゃあ、どう思っていますか。その…同性愛について」

 急に気恥ずかしくなって、声が尻すぼみに小さくなる。彼女は考え深げな視線を向けた。

「私は女で恋人は男性だから、本当はこんなことを言える立場にないのかもしれません。だけど、同性同士でも恋に落ちる可能性って、じつは誰にでもあるんだと思います」

「じゃあきよ香さんなら、女性から告白されて、あっさりと付き合えるんですか?」

きよ香さんは困ったように微笑んだ。

「それはその場になってみないとなんとも。でも大切なのは、性別よりも相手がどういう人間かじゃありませんか? 相手が男性でも、嫌いな人とは付き合えないし、同性でも、好きになったらお付き合いする可能性だってあります」

 俺は唸った。今までそんな風に考えたことなんかなかった。

「田中さんは? カオちゃんが男性だったらダメでも、女の子だったら?」

「わからないです。だってあいつは男だし」

 きよ香さんはにっこりした。

「もしかしたらおかしいのかもしれませんが、私はカオちゃんを、ひとりの女の子だと思っています」

                                   

それから、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。俺は佐藤のことを考えた。

 経理にいた頃の佐藤は大人しくて、どちらかと言えば地味だったけど、顔立ちが整っていたので、わりと目立っていた。物柔らかで穏やかな性格も手伝ってか、女子社員の間でひそかに人気があったようだ。

そのせいか、何人かの男性社員はあいつを目の敵にしていた。ヨーダがいい例だ。

俺は特別に関心は無かったけど、黙々と自分の仕事に励むあいつを見て、好感を持ったし、心配もした。

真面目だけど不器用で、どこか放っておけない雰囲気があいつにはあった。

取引先の会社から真っ直ぐ帰らず、わざわざここに立ち寄ったのも、心のどこかであいつがどうしているのか、ずっと気になっていたからだ。

足繁く通うようになったのも、このカフェの雰囲気が良かったからってだけじゃない。きよ香さんがきれいだからってだけでもない。佐藤の存在も大きかった。

あいつのいる空間はいつも穏やかで、居心地が良かった。

 世の中の半分は女性なのに、なんであえて男と付き合いたいのか、佐藤の気持ちはさっぱり理解できない。

ましてや俺みたいにむさくるしい男のどこがいいのだろう。抱きしめるのなら、ゴツゴツと骨ばった汗臭そうな男より、甘い香りのする、しなやかでやわらかい女性のほうが良いに決まってる。

だけどそういう性的嗜好はひとまず置いておいて、一人の人間として、俺は佐藤を好きだった。男に告白されて戸惑ったけど、決して不快ではなかったことに、今さらながら思い至った。

「相談に乗ってくれてありがとう。コーヒーごちそうさま。また来ます」

 コーヒーを飲み終えて、俺は立ち上がった。                          

「ええ、またいらしてください」

 きよ香さんも立ち上がった。ふと思いついて彼女に言う。

「今ずっと考えてたんですけど、もしかしたら俺、佐藤のこと、けっこう好きなのかも」

 俺がそう言うと、きよ香さんが目を瞠った。

およそ二秒後に、思わぬ人がキッチンから現れた。佐藤だった。


田中さんはなんて大馬鹿なんだろう。

なんでわざわざここまで来て、私のことを好きなのかも、なんて呑気なことを言ってるんだろう。なんだかもう、腹立たしいくらいだった。やっぱり今日は休めばよかった、と後悔した。

 あれからひと眠りしたら、だいぶ具合が良くなって、そうしたらカフェの様子が気になってきた。最近は夕方からけっこう混み始めるし、家にいて一人で寝ているよりも、なにかしているほうが気が紛れるだろう。

そう思って、シャワーをざっと浴びて、カフェに来た。働いているうちに、昨日のことは頭から遠ざかった。なのに窓の外を見たら田中さんがいるから、慌ててキッチンに隠れた。昨日の今日で、田中さんに合わせる顔なんてない。

キッチンの床に座り込んで田中さんが帰るのを待っていたら、一部始終を聞いてしまった。

「ごめんなさい、きよ香さん。ちょっと外してもらってもいいですか」

「いいよ。じゃ、お先にね」

 そう言ってきよ香さんが出て行ってから、私は田中さんに歩み寄った。

それからキスをした。

ほんの一瞬のことだったけど、少し乾いていて、あたたかく柔らかいその感触は、くちびるに焼きついた。田中さんは抵抗しなかった。驚きすぎて動けなかったのだろう。

くちびるを離して、彼の視線を捉えながら、ゆっくりと囁く。

「あなたの好きと、私の好きは、このぐらい違うんです。私はずっと、あなたにこうしたかったんです」

 田中さんは黙って私を見つめていた。

私は田中さんの手を取って、出口へ歩き出す。振りほどくことなく、彼はおとなしく着いてきた。少しだけほっとする。嫌われるためにキスしてしまったけど、手を撥ね退けられたら、やっぱり傷ついていただろうから。

 矛盾した気持ちを心の底に押し込めながら、扉を開けて、繋いでいた手を離す。

「さようなら、田中さん。こんな真似してごめんなさい。もう行ってください」

 離した手のひらで、彼の背中を押した。最後まで何も言わず、田中さんは出て行った。これで彼は目を覚ますだろう。悪い魔法にかかることもない。そう思った。

なんだかひどく疲れていた。私は大きく息をついた。

翌日、田中さんはカフェには来なかった。あたり前だ。彼はここには二度と来ない。

望みどおりになったはずのに、どうしようもなく胸が痛んだ。


 土曜日のランチタイムはけっこう忙しい。休憩時間の二時を過ぎてから、ようやく客足が途絶えた。

私は飲み物を片手に外のベンチに座った。昨日と一転して、今日は抜けるような青空だ。もうすぐ六月も終わるんだな、とふいに気付く。初夏の日差しが寝不足の目に沁みた。目を閉じたら眠くなった。

男にキスなんかされて、田中さん、不愉快だっただろうな。

そんなことをぐるぐる考えていて、この二日間、一睡もできていない。ベッドに横たわると、彼のことばかり思い出してしまう。

少しうとうとしていたら、目の前に誰かが立っている気配がした。目を開けるのも億劫で、寝た振りをしたけれど、次の瞬間、無遠慮に鼻をつままれて反射的に目を開けた。

「こら起きろ」

 ジーンズと薄いグレイのパーカーを着ているから、いつもより若く見える。スーツ以外の服装を見るのは初めてだ。目を開けたとき、まず最初にそう思った。

 だけど、注目すべきはそこではなくて。

「田中さん…」

 この人が、ここにいることだった。

「おっ、その膝どうしたんだ。そんなでっかいカサブタつけてる大人なんて、初めて見た」

 いつもどおりの口調で、普通に笑っている。意味がわからない。

「なにしに来たんですか」

間の抜けた質問をすると、彼は私の横を指差した。

「そこ座ってもいいか」

「どうぞ」

 田中さんにつられて、私も普通に喋っていた。田中さんはさりげなく言葉を続ける。

「まったく、おとといはびっくりしたぜ。まさかお前に襲われるなんてな」

「ごめんなさい」

 私は身を縮めた。覚悟はしていたけど、怒ってると思うと、やっぱりいたたまれない。

「これからは二度とああいうことするなよ。驚くからな」

 だけど田中さんはあっさりそう言っただけだった。それでこの話は終わりだった。

「佐藤と話したかったんだ」

「え?」

「なにしに来たかって聞いただろ」

「聞きましたけど…」

「お前、本当に俺が好きだったのか」

 あまりに直球な問いかけに唖然とする。何と答えるべきなのかわからない。

わからないので、素直に頷いた。

「お前は、なんていうんだ、その…」

 言葉を探す田中さんの爪先を眺めながら、小さな声で告白する。

「私は、ゲイです。昔から、たぶん生まれた時から、ずっと。恋する相手も、今までお付き合いした人たちも、男性だけです」

 あんなに知られたくないと恐れていたのに、言葉があふれだす。

怖くて顔が見られない。彼はいったいどんな表情をしているんだろう。

「俺は今まで、男に恋愛感情をもったことなんてない」

 しばらくして、田中さんが口を開いた。

「これから先もそうだと思う。だけど、それとは別に、お前のことは好きなんだ」

 思いがけない言葉に、顔を上げる。田中さんは少し困ったような、それでいて揺らがない表情をしていた。

「俺たち、友達になろう。それじゃ駄目か?」


そう訊いた直後の佐藤の表情の意味が、ずっとわからなかった。微笑んでいるようでもあり、強張っているようでもあった。

佐藤の気持ちがわかったのは、それからずっとあとのこと。

 俺はなんて浅はかで無神経で残酷だったのだろう。


 その日から俺は、もう少し頻繁にカフェ・オーロラに通うようになった。

三十路に入ったころから友人の多くが身を固めてしまって、前ほど頻繁に遊べなくなったし、今は彼女もいなくて退屈していたせいもある。

「いらっしゃいませ」

 お向かいの公園の、青々とした桜並木を通り抜けてカフェの扉を開けると、カウンター越しにきよ香さんが微笑んだ。

駅から十分ほどのところにあるとはいえ、じりじりした日光を浴びて歩いてきたから、ほどよくクーラーのかかった店内が、なによりもありがたい。

土曜日のランチタイムは混みあうと聞いてはいたけど、予想以上だった。テラス席まで埋まっている。

ポニーテールが似合うバイトの女の子が、くるくると料理を運んだり、接客をしたりしていた。なかなか可愛い子だ。

「すみません、合席でもいいですか?」

 その子に案内されたのは窓際のテーブル席で、佐藤はちょうどそこに座っている客と、何か話していた。よく聞くと英語のようだ。

うしろを向いていたからわからなかったけど、横から見てみると、その客は外国人だった。髪は黒いけど、肌の色は薄い。眼は薄い灰色だ。恰幅も血色もよい。年のころは四十から五十といったところか。彼がオーケィ、と答えたのだけはわかった。

自慢じゃないけど、俺は高校生のころに、英検三級に落ちた男だ。今でもハローとサンキュー、イエスとノーくらいしか分からない。よくぞ大学受験に受かったものだと、我ながら感心する。

「いらっしゃいませ」

 俺に気付いた佐藤が、ゆっくりと微笑んだ。

ふわりとやわらかい、甘い空気。まるで、花がほころぶ瞬間みたいだ。

「よう。お前、英語喋れるんだな」

「喋れるっていうほどでもないんですけど」

「ノー、カオルはずいぶん上達しました」

 外人さんが会話に割り込む。なんだ、日本語喋れるのか。よかった。

「ロバートさんは常連さんで、たまに英会話の練習相手になってくれているんです。ロバートさん、合席になってもよろしいですか」

「もちろん」

 言われてみれば、何度かここで見掛けたような気もする。一声かけてから腰を下ろす。

「でもなんで英会話なんて」

「外国のお客様が来たときのために、英語が喋れたほうがいいと思って。それに、もともと英語は好きだったので」

「へえ。お前って偉いんだな」

 佐藤は少し顔を赤らめた。かわいい。

あれから、こいつに接するたびに、今まで気付かなかったことの多さに驚く。

上気した顔のまま、佐藤はきよ香さんをちらりと見た。

「すみません、行かないと。注文が決まったころ、また来ます」

「あ、俺ランチセットでタコライス」

「はい。かしこまりました」

 さっきよりもいくぶん事務的な笑みを残して、佐藤は立ち去った。それからカウンター越しに、出来上がった料理をきよ香さんから受け取った。

顔を見合わせながら何か話しているところは、まるでお似合いのカップルみたいだ。

最初にここに来た時、てっきり二人は付き合っているものと思った。だから、きよ香さんに恋人がいると聞いたとき、ずいぶん寛容な相手なんだな、と少し驚いた。

決して広くはないこの空間で、自分の彼女が他の男と四六時中ふたりっきりになるなんて、あんまりいい気はしないだろうに、と。

だけど佐藤がゲイだから、彼氏もとやかく言わないのかもな、といま気が付いた。

「あなたは、カオルの恋人?」

 そんな埒もないことを考えながら、ほっそりとした佐藤の後ろ姿を眺めていたら、唐突に質問された。まじまじと相手を見る。

いたって真面目な表情だった。

「いえ、ただの友人ですけど」

「それは失敬」

 ロバートは頬杖をついた。なんて質問だ。

そういえば、前にここでこいつを見たときは男連れだった気がする。あの時はただの友達同士だと思ったけど、今にして思えば、ずいぶん親密そうだった。もしかするとこいつもゲイなのだろうか。

「あなたは、男女の間に友情は成立すると思いますか?」

 ロバートはまたしても唐突な質問をする。一体なんなんだ。

「え、えーと、場合によると思います」

「どういう場合?」

 いきなり質問攻めにされて困っていると、水戸黄門のテーマが流れた。携帯の着メロみたいだ。ロバートがポロシャツの胸ポケットから携帯を取り出した。

二言三言話して通話を終え、二センチくらい残っていた紅茶を飲み干す。

「もう行かなくては。ここにいると、ついついゆっくりしてしまう。君はどうぞごゆっくり」

「はあ」

 中途半端に終わった会話について、それ以上考えたりしなかった。これ以上おかしな質問をされなくて良かったと、ほっとしただけだった。

せっかくロバートがヒントをくれたのに。


「そうだ、花火を見に行かねえ?」

 今日ここに来た理由を思い出したのは、休憩時間の二時をすぎたころ。

ほかの客が帰ったし、俺もそろそろ行かなくちゃ、と腰を上げるときだった。バイトの子は用事があると言って、二時になると同時に帰っていた。

夏はやっぱり、でっかい花火を見ないとすっきりしない。彼女がいたころは一緒に行っていたけど、今年は特に誘う相手もいないし、一人で眺めるのも味気ない。

それで佐藤を誘ってみようと思ったのだ。

「花火?」

 まかないのサンドウィッチを片手に、佐藤が首を傾げた。

「おう。来月の第二日曜日に、このそばで花火大会があるだろ」

「ああ、そういえばそうでしたね。もうそんな時期でしたっけ」

 のんびりとアイスティーを淹れながら答えたのは、きよ香さんだった。

「カオちゃんは行ったことある?」

「いえ」

「せっかくだから行ってきたら? 来月の第二日曜日って、ここお休みでしょ」

 そう、このカフェはお盆シーズンのおよそ二週間、休みになるそうだ。前にここに来た時、きよ香さんがそう言っていた。うちの会社はたった二日しか夏季休暇がないから、心底うらやましい。

「きよ香さんも一緒に来ませんか?」

 少し間を置いて、佐藤が訊いた。

「私? その日は特に予定はないし、お邪魔じゃなければ行こうかな。彼と一緒に」

「ちっともお邪魔じゃありません」

 俺は答えた。きよ香さんの彼氏がどういう人なのか興味があったので、花火の他に、もうひとつ楽しみができた。


花火大会の日の午後五時、カフェの前に集合したとき、俺はアホみたいにぽかんと口を開いていた。

この男が、きよ香さんの恋人。

別におかしな男ではない。チノパンの上に着た深い紺色のポロシャツは、短めの銀髪によく映えた。そう、彼の髪はだいたい白かった。

「なあ、佐藤。あの人、きよ香さんのお父上じゃねえの?」

 こっそりとそう聞くと、佐藤も声を潜めた。

「いいえ、恋人です」

「確かに歳は親子ほど離れていますけどね」

 そう言葉を継いだのは、きよ香さんだった。残念ながら、俺達の会話は筒抜けだったようだ。

「すみません、不躾なことを」

 きよ香さんの恋人は笑いながら手を振る。

「いいんですよ。逆にそう思わない人のほうが稀なんです。杉村と申します」

俺はぎこちなくお辞儀をしながら、田中です、と名乗った。

「この間、一緒に旅行に行ったときも、旅館の女将さんに、お父様とご旅行なの? 親孝行なのねえ、なんて言われましたしね」

 そう言いながら自然な仕草で杉村さんと腕を組んだ。

意外にも、二人はなかなかお似合いのカップルだった。お互いを見る眼差しは、どこまでも優しい。

 花火が見える絶景ポイントがある、と杉村さんが言ったので、ぞろぞろ移動を始める。

駅前の商店街に出ると、花火を見に行くと思しき人たちが、楽しげに散策していた。

少し先を行くきよ香さんたちを見失わないように注意しながら、人波の中を進む。雑踏のなかを、浴衣姿の女の子たちが蝶々のようにひらひらと歩いていた。

俺はいつも少し離れた河原から花火を見ていたから、こっちも結構賑わってたんだなと、ひとりで感心する。

どこからか、ソースが香ばしく焦げるような匂いがした。きっと焼きそばとか、お好み焼きの屋台が出ているのだろう。だんだんたこ焼きが食べたくなってきた。匂いには強力な宣伝効果がある。

「あっ」

そんなことを考えていたら、斜め後ろを歩いていた佐藤が小さく叫んだ。何かにつまずいたみたいだ。反射的に手をつかむ。

「おいおい、だいじょぶか」

「すみません」

慌てて離れようとする華奢な手のひらを、ぎゅっと握った。

「なんだか危なっかしいから、しばらく手を貸してやる」

 そうでもしていないと、こいつはまた転んで、でっかいカサブタをこさえそうだ。そう思って、そのままでいた。特に反論することもなく、佐藤はおとなしく従った。そうやって、夕闇の迫る街並みを二人で歩いた。

佐藤はだいたい、少し後ろからついて来ていたから、並んで歩くのは初めてだ。

しばらく行くと、食べ物の屋台がいくつかあった。予想通りだ。

「なあ、なんか買わねえ?」

「いいですよ」

「よし、たこ焼きの屋台を探せ」

そんな会話を交わしながらも、きれいな女性とすれ違うたびに目を奪われる。浴衣を着ている女性は、どうしてあんなに色っぽいんだろう。

思いがけない人を見出したのは、そのときだった。元恋人の紗知が、女友達と一緒にいた。俺を見て目を丸くしている。淡い桃色の浴衣が、白い肌に映えていた。

別れてから一度も顔を合わせなかったのに、こんなところで出会うとは。およそ一年ぶりの再会だ。

立ち止まると、佐藤が怪訝そうに見た。それから俺の視線を辿って、手を振りほどいた。

そのまま他人のように、先に行ってしまう。きっと気を利かせたのだろう。

「紗知。ひさしぶり」

そう声をかけると、同じように立ち止まっていた紗知は、ぎこちなく微笑んだ。俺より二つ歳下だけど、童顔のせいか、もっと幼く見える。

「…ひさしぶり。元気そうだね。仕事は相変わらず忙しいの?」

 小さな声で、そう訊かれる。

「ん? いや、まあまあだな」

 紗知と別れたのは、入社してから一番忙しい時期だった。

通常の業務に加え、社内で使うシステムを新しいものに入れ替える作業があり、そのためのデータ整備に追われていた。

あの時期は毎日十時過ぎまで残業していて、家には寝に帰るだけだった。紗知にメールするのすら億劫な日々が続いた。

 関係が終わったのは、無事に新システムが作動し始める少し前。彼女はほかに、心の拠り所となる相手を見つけてしまった。

一方的に別れを告げられて、二人で積み上げてきた日々は、たったの五分で終わった。

「…あのときは、ごめんね」

 俯いて、紗知が言った。

「いいよ。俺も悪かった。今は幸せか?」

「うん。…あのね、来月結婚するの」

「そうか。おめでとう。幸せになれよ」

 自然とそんな言葉が出てきた。

一度は一番近くにいて、大切だった人だ。幸せでいてほしい。自然にそう思った。

彼女は驚いたように顔をあげて、にこっとした。

 女友達を振り返って、もう一度俺を見る。

「ありがとう。…もう行かなきゃ」

こうやって話すのは、きっとこれで最後だと、お互いにわかっていた。

「じゃあな」

「うん」

 それが紗知と交わした最後の会話だった。

 それから、それぞれの仲間のところへ向った。俺は振り向かなかったし、紗知もたぶんそうだったんだろう。

「わりぃ、おまたせ」

 少し先を歩いていた佐藤は、いえ、と答えただけだった。なにも聞かれなかったので、なにも言わなかった。


俺たちは屋台でたこ焼きとか、綿あめとか、瓶に入ったラムネとか、そういうものを買った。途中のコンビニでビールも買った。

着いた先は高校だった。杉村さんが、重たげな校門を、手慣れた様子で静かに開く。

「勝手に入っても大丈夫なんですか?」

 そう訊くと、杉村さんは悠然と微笑んだ。

「大丈夫です。ここ、私の職場なので」

「そして私とカオちゃんは卒業生」

 きよ香さんはいたずらっぽく笑い、佐藤は頷く。

杉村さんは社会科の教師で、二人が在籍していた天文学部の顧問だったそうだ。

 広々とした校庭を足早に突っ切りながら、ここに通っていたころの二人はどんな感じだったんだろうと、思いを馳せた。

きっと佐藤は女の子にもてていて(まあ、本人は嬉しくなかったのかもしれないけど)、きよ香さんは、さぞかし可憐だったのだろう。

「その頃から付き合っていたんですか?」

 思わずそう訊くと、杉村さんがいいえ、とかぶりを振った。

「付き合いだしたのは二年前からです」

 そう答えながら、職員用の通用口の鍵を開ける。

校舎内の空気は、じっとりと淀んでいた。薄暗く、静まり返っているのでちょっと不気味だ。履物を片手に持って素足で廊下を歩くと、ひんやりとして気持ちが良かった。

どこから花火を見るんだろう、と首を傾げていると、杉村さんがこっちです、と先導した。階段をどんどん上っていったら、空に辿り着いた。そこは屋上だった。

学園ドラマや小説ではよく登場する場所だけど、実際に屋上に立ち入る生徒はあんまりいないだろう。悩み多き年頃の青少年たちが、なにかに絶望して飛び降りるのを防ぐため、厳重に施錠されているから。少なくとも俺の高校はそうだった。

物珍しくてきょろきょろしてしまう。まだ六時すぎだから、空は明るかった。

佐藤が手すりにもたれかかるようにして、あたりを見渡していたので隣に並ぶ。さすがに見晴らしがいい。きよ香さんと杉村さんも、少し離れた場所で一緒に景色を眺めていた。

「駅はあっちだよな。カフェはどこだ」

 佐藤はちらりとこっちを見て、すぐに視線を戻す。なんとなく物憂げだ。

「たぶん、あのビルの陰ですね」

「そっか」

 それからしばらく、ゆっくりと紫に染まる街並みを見下ろしていた。

何気なく空を見上げると、ちいさく瞬く光がひとつ。

「一番星だ」

 そう言って指さすと、佐藤も空を仰いだ。

「不思議ですね」

「なにが?」

「一緒にいても、見えるものが違うから」

「そりゃそうだろ。違う人間なんだから」

「…そうですね」

 いつもより少し低い、囁きに近い声。隣を見ると目が合った。

ふいにキスされたときのことを思い出して、何を言えばいいのかわからなくなった。

さっき手をつかんだ時にはなんとも思わなかったのに、触れ合いそうな距離が、急に気になりだした。

「カオちゃん、田中さん。明るいうちに、さっきのたこ焼とか食べちゃいませんか」

 きよ香さんの声で、一気に緊張が解けた。

佐藤も、いつもどおりの捉えどころのない表情に戻た。

「そうしましょう。ビールもぬるくなるし」

 妙な空気を振り払おうと、俺は元気よく返事をして、きよ香さんたちの所に行った。佐藤も黙ってついてきた。


それから俺たちは、きよ香さんが持ってきたビニールシートを敷いて、その上に座った。真夏の太陽に一日中晒されていた屋上は、まだ温かい。

「なんだかお花見みたいですね」

 買ってきたものを並べながら、きよ香さんが笑う。

「眺めるのは花じゃなくて花火ですけどね」

 たこ焼きのパックを開けながら、杉村さんが応じる。

「でも、儚いところは、桜も花火も同じですね。どうして人は、一瞬で消えてしまうものに、無条件で惹かれてしまうんでしょう」

 佐藤が呟いた。

「それは、人間もほんの一瞬で消えてしまう、儚い生き物だからじゃないですか」

 杉村さんが静かに言う。

「綿々と続く長い長い歴史から考えると、人間の一生なんて、あっという間です。だから、生きているうちにするべきことは、悩むことや悲しむことじゃない。できる限り楽しく過ごすことです」

 さすがは教師。なんだか説得力がある。

「でた。杉村先生のお説教」

 佐藤は少し俯いて苦笑した。

「お説教じゃありませんよ。事実です」

 杉村さんは澄ました顔で、たこ焼きをひとつ食べた。

 その夜のことを、今でもたまに思い出す。

蒸し暑い闇の合間に咲き誇る、一瞬の花。

 俺たちは花火がひとつ上がるごとに、子供みたいにはしゃいだ。たくさん笑った。

花火が散るのと一緒に、楽しい時間もはじけて消えた。そして、夏が終わった。


 最後に佐藤に会ったのは、その冬初めて厚手のコートを着た日だった。

 日曜日の午後で、カフェは臨時休業だった。俺は店内の飾り付けを手伝っていた。

何の飾り付けかって? もちろんクリスマスのだ。

まだ一ヶ月くらい先だけど、こういうものを飾るのは早いほうがいい、ときよ香さんが言いだしたのだ。

去年は開店したばかりで満足いく飾り付けができなかったから今年こそ準備を万全にしたい。そのために今度の日曜日は臨時休業にするつもりだ、と力説していた。

 適当に相槌を打っていたら、いつのまにか俺も手伝うことになっていた。

ちょっと面倒だなあとは思ったけど、男手が必要そうだったし、体力は有り余っている。それで引き受けた。バイト代がわりに、あとでなんでも好きなものを食べていいと言われたのも、実に魅力的だったし。

日曜日の午後三時過ぎ、カフェに集まったのは、ここで働いている人全員と俺、それからロバートだった。こんなにたくさん集めて、一体どれだけ飾り付けるつもりなんだろう。

店内には、大きな段ボール箱がふたつあった。

ひとつは何に使うのかよくわからないものが整然と納まり、もうひとつには組み立て式のクリスマスツリーが丁寧にしまいこまれていた。全部きよ香さんの私物らしい。

杉村さんがここまで運んでくれたけど、用事があって俺が来るちょっと前に帰ったそうだ。

きよ香さんの指示のもと、俺たちはてきぱきと手を動かした。

「あ、そこの壁際に、このタペストリーを飾ってください」

「画鋲でとめちゃっていいんですか?」

「ええ。あ、カオちゃん、その大きいキャンドルはカウンターに置いて。小さいのはテーブル席ね」

「はい」

「ロビー、クリスマスツリーはレジの斜め前に置いてくれますか?」

「きよ香は人使いが荒いなあ」

「大好きなシナモンロール、死ぬほど食べていいですから」

「死因がシナモンロールなんて嫌です」

 ぶつぶつ言いながらも、ロバートは素直にツリーを運ぶ。そこに、ポニーテールの似合うバイトの女の子…弥生ちゃんと言うらしい…が、飾り付けを始めた。

ほかにももう二人、バイトの女の子がいた。彼女たちは、おもに平日のランチタイムに働いているそうだ。どうりで見覚えがないはずだ。

 ぴかぴか光る星、おもちゃの天使、キャンディみたいな色合いの小さなボール、雪を模した綿。

電飾のコードもツリーに巻きつけた。なんだか子供のころを思い出す。

 みんなでせっせと働いたので、作業は一時間で終わった。これなら、わざわざ休業にする必要はなかったんじゃないだろうか。

「みんな、お疲れさま。ロビー、田中さん、ありがとうございました」

 そう言って微笑むきよ香さんの手には、ケーキがあった。クリスマスの時期に見かける、切り株みたいな形のチョコレートケーキだ。

「うわあ、おいしそう。ブッシュ・ド・ノエルだ」

 弥生ちゃんが歓声を上げた。

「期間限定でメニューに加えようと思って。みなさん、試食してもらっていいですか」

「もちろんよろこんで」

「きよ香、コーヒーも飲みたいです」

「はい、わかりました」

 ケーキを食べる前に、クリスマスツリーの電飾を点けた。ついでに店内に飾ったキャンドルにも火をともした。

 間接照明の柔らかい光に包まれた室内を、キャンドルが暖かく照らす。ツリーの電飾が幻想的だった。

「なんだか、もうクリスマスみたいですね」

 素朴な感想を俺が漏らすと、きよ香さんが明るく答える。

「今日は少し早目のクリスマスパーティっていうことで」

ブッシュがなんとか、というケーキは甘さ控えめで大人の味だ。期間限定と言わず、定番メニューに加えればいいのに。

 お茶をしながらいろいろ喋っているうちに、クリスマスプレゼントの話題になった。

「なんか、特に欲しいものってないんですよねえ。子供のころと違って、今なら欲しいものって、だいたいは自分で買えるし」

 弥生ちゃんが言った。

「ほんとですかぁ。あたしは欲しいものたくさんありますよぉ。クリスマスは彼に指輪を買ってもらうんです」

 他のバイトの子が嬉しそうに答える。

「いいなあ、佳奈ちゃん。そうだ、私も欲しいものあったんだ。彼氏を下さいってサンタさんにお願いしとかなきゃ」

「あ、じゃあ俺も彼女が欲しいってお願いしておこう」

 頷き合う弥生ちゃんと俺をみて、きよ香さんが難しい顔をする。

「それはサンタさんも困るでしょうねえ。靴下には収まりきらないし…」

 ロバートも会話に加わる。

「好みのタイプじゃなかったらどうするの。きっとクーリングオフはきかないですよ」

 みんな好き勝手なことを言っているのに、佐藤は黙ってにこにこしていた。

そういえば、今日はずっと口数が少なかった。調子でも悪いのだろうか。

「佐藤はなにか欲しいものあるのか?」

 話を振ると、佐藤はゆっくりと俺を見た。

「はい」

「へえ。なにが欲しいんだ?」

「…秘密です」

 それでその話は終わってしまった。

なにが欲しいのかは、けっきょくわからないままだった。

 そのあと、カフェの店員チームはミーティングがあると言って残った。俺とロバートはカフェを出た。

何となく振り返って、窓越しに佐藤を見た。いつもと同じ、ほっそりした後ろ姿だった。


 それから仕事が忙しくなって、しばらくカフェ・オーロラに行けなかった。

イルミネーションやクリスマスツリーで飾られた街中を通り過ぎてカフェに行ったのは、あれからおよそ二週間後の木曜日の夜だ。

そろそろ閉店時間だというのに、店内は混み合っていた。

「いらっしゃいませ」

 振り返ってそう言ったのは弥生ちゃんだった。この時間帯にいるのは初めてだ。

「田中さん、こんばんは。この間はありがとうございました」

 きよ香さんがカウンター越しに微笑む。

佐藤はいない。休みだろうか。いつもどおり、カウンター席に腰を下ろす。

「ハイネケンとパニーニ。今日は佐藤は?」

 きよ香さんはカウンターを拭く手を一瞬だけ止めた。

「カオちゃんは、しばらく来ないんです」

「体調でも崩したんですか?」

「そういうわけではないんですけど」

 常の彼女らしからぬ、歯切れの悪い返事だ。

「いつから来るんですか」

「田中さん。今日、お時間はありますか?」

明日も仕事だけど、帰るのが少しくらい遅くなっても構わない。どうせ気楽なひとり暮らしだ。俺は頷いた。

「店を閉めたあと、ちょっとお話があるんです。カオちゃんから預かったものもあるし。…ああ、そうだ。ロビーを呼ばなきゃ」

 最後の言葉は、独り言のようだった。どうしてロバートを呼ぶのだろう?

 それに佐藤も、どうして俺に直接渡さないで、きよ香さんに預けたりするのだろう。わからないことだらけだ。

 考えてもわからなさそうなので、とりあえずハイネケンを飲んでみた。


「それで、佐藤はどうしたんですか?」

 閉店を待ってそう尋ねる俺に、きよ香さんは湯気の立つコーヒーカップを差し出した。もちろんロバートにも。

「カオちゃんは、しばらくここをお休みして、遠くへ行くことになったんです」

「遠くって、どこへ」

「スウェーデンです」

 あまりに思いがけない返答で、コーヒーを吹き出しそうになった。

「しばらく、ロビーのお母様のおうちに住むそうです」

「ちょっと待ってください。なんでスウェーデンなんて」

「オーロラを見に」

 ロバートがぼそっと答えた。

「オーロラ? なんでまた?」

「まえに一度訊きました。男女の友情が成立するのはどんな場合か、と。お互いに恋愛感情がないことが最低条件です」

 俺の質問に、ロバートは噛み合わない言葉で応じる。

「それと佐藤と、いったい何の関係があるんです」

「好きな相手がそばにいるのに、ずっと振り向いてもらえない。それ以前に、恋愛の対象にもなれない。恋する相手が、やがて自分以外の相手と結ばれるのを見ていなくてはならない。それがどれほど辛いことか、わかりませんか」

「それって…」

 質問を重ねようとして、ふいにあの日を思い出す。佐藤にキスされた後の、あの日だ。俺はあのとき、あいつになんて言った?

 お前に恋はしない。だから友達になろう。

 そういえば俺も高校生の頃、告白した女の子に言われたことがある。

『田中くんのこと、恋愛対象として見られないの。いいお友達でいましょ』

 そんなの無理に決まってる。友達のままでいられるくらいなら、そもそも告白なんかしていない。

 それからは、彼女の姿を見るたびに、胸がちくちくした。隣のクラスの子だったのが、せめてもの救いだった。

そんなことを久々に思い出して、ようやくわかった気がした。

ロバートの言っていることも、俺がなにもわかっていなかったことも。

ということは、まさか。

「まさか佐藤は、俺に振られたショックで、そんな遠くまで高跳びすることにしたって言うんですか」

 あまりに荒唐無稽だけど、今の話の流れからはそういう理由しか考え付けない。

「そういうわけではありません。そもそもカオルは、君と付き合うつもりなんかなかった。だけど、田中さんはああいう人だし、一時の同情心から間違って自分を受け入れてしまうかもしれない。そうなったら自分は拒めない。それが怖い。そう言っていました。君から普通の生活を奪いたくなかったんです」

「普通の生活?」

「祝福される幸せな結婚。堂々と紹介できる妻。かわいい子供。同性をパートナーに選ぶというのは、そういうもの全てを諦めるということです。少なくとも日本にいる限りは」

 一瞬言葉を失った。自分自身でもちゃんと考えたこともないのに、佐藤は俺の未来を案じていたのか。

「それじゃあやっぱり俺のせいじゃないですか」

 そう言うと、ロバートは首を振った。

「あなただけのせいではありません。カオルは昔付き合っていたボーイフレンドから、お前さえいなければこんなことにはならなかった、と言われたことがあるそうです」

 佐藤を理解しようと、俺はじっと聞き入った。ロバートは少しだけ口調を強めた。

「その彼にとって、カオルは初めてのボーイフレンドでした。自分がゲイになったのは、お前のせいだ。そう言ったそうです。バカバカしい。カオルから告白されても、拒むことだってできたのに。カオルを選んだ自分自身を棚に上げて責めるなんて、理不尽です。そんな責任転嫁を、真に受ける必要なんてない。だけどカオルはずっとそれを気に病んでいた。ご家族ともうまくいっていなくて、悩んでもいました」

 こんな状況だというのに、ロバートは日本語がうまいな、とぼんやり思った。

だけど話をうまく理解できない。脳が情報を処理しきれていないみたいだ。

「いろいろなことが積み重なって、カオちゃんはかなり参っていました。自分で自分を殺すくらいなら、いっそ逃げるべきだと、私は思います」

 二人が言っていることがよくわからない。だけど、何を訊けばいいのかもわからない。

 黙り込んだ俺に、きよ香さんは一通の手紙を差し出した。

「これを預かったんです」

 なにも考えずに受け取って、その場で薄い封筒を開ける。一枚きりの便せんは、綺麗な文字で埋められていた。


『こんなふうに黙って消えることになって、ごめんなさい。


きよ香さんの話を覚えていますか?

 オーロラを見ると、人間を含め、動物が狂ってしまうという、あの話です。

(狂うというよりも、方向感覚を失うというのが正確なところのようですが)

 私はずっとあなたを見つめていました。

 行き先を見失った渡り鳥のように。

このままではどこにも辿りつけないばかりか、あなたまで巻き込んでしまうかもしれません。

そんなことを、望んでなどいないのに。


あなたの友情はとても嬉しかったけれど、それに応えることはできません。

なぜなら私は弱い人間で、まだあなたに恋をしているから。

この恋から覚めることを期待し、きよ香さんに倣って、オーロラを見てきます。

この機会に、しばらく日本を離れます。

いままで色々とありがとうございました。

さようなら』


「佐藤、いつ出発するんですか?」

 ともかく会わなくちゃいけない。

会ってどうするとか、何を言うとか、そういうことはそれから考えればいい。

きよ香さんは首を横に振った。

「もういません。この間ここに集まったのは、実はカオちゃんのお別れ会だったんです。あの翌日に出発しました」

 もう一度、手紙を読み返す。それは熱烈な恋文であると同時に、決然とした別れの手紙だった。

 ようやく全てを理解できた日に、俺は佐藤を失ったことを知った。


 十二月のスウェーデンは、凍えるばかりに寒い。

とくにここルレオはスウェーデン北部に位置し、この時期は平気で氷点下二十度を下回る。三十度を下回ることも、珍しくないという。だけど屋内は暖かく保たれていて、半袖でも平気なくらいだ。

暖かいのは気温だけではない。間近に迫っているクリスマスも、暖かな雰囲気を作り出している。

この家の窓際にも、アドベントのキャンドルを模したランプの灯りが飾られていて、玄関には手作りのクリスマス・リースが掛っている。

もちろんクリスマスツリーも飾ってある。本物の木を使っているのがいかにも本場らしい。さすが、サンタクロースは我が国に住んでいると主張している国の人だ。

もっとも隣国のフィンランドでは、サンタクロースが住んでいるのはフィンランドのロバニエミだと主張している。残念ながら今のところ、そちらの説のほうが有力みたいだ。

「カオル。いま大丈夫かしら?」

 キッチンから声がした。

リビングでテレビを眺めながらアイロンをかけていたけれど、電源を切って声のするほうへ向かう。

「ジンジャークッキーを焼くのを手伝ってもらえる?」

 薄いグレイの目を優しく細めて、アンキがエプロンを差し出した。彼女はロバートの母親で、スウェーデンに来てからずっとお世話になっている。

 同じなのは瞳の色だけではない。優しくて面倒見の良いところも一緒だ。

 スウェーデンの公用語はスウェーデン語だけど、アンキは大抵のスウェーデン人がそうであるように、英語が堪能なので、会話は英語で交わされる。

今はリタイアしたとはいえ、もともと小学校の先生だったせいだろうか。アンキは話を聞きとるのもうまい。おかげで私の拙い英語でも、なんとかなっている。言語の違いはあっても結局のところは人間同士だし、意思は通じるのだ。

「もちろん。どうすればいいですか?」

「まず生地を伸ばして。薄くね。それから型で抜くの。これをたくさん食べると、親切な人になれるのよ。でもカオルはじゅうぶん親切だから、もう必要ないかしらね」

 ころころと笑いながらも、手はてきぱきと動いている。

 ここに住むきっかけは、ロバートの一言だった。

「ねえ、カオル。しばらくスウェーデンに住んでみないかい?」

あるときロバートが、急にそんなことを言いだした。

彼はいつも私を気にかけてくれていた。彼には長く付き合っているパートナーがいるので、恋愛感情からではなく、仲間として。

ロバートのパートナーは、彼が講師をしている大学の建築科に在籍していた元学生で、今では売れっ子のインテリアコーディネーターだ。たまに一緒にカフェに来る。物静かで品のいい男性だ。

「スウェーデン? 急になんですか?」

突拍子もない言葉に困惑する私に、ロバートは微笑んだ。

「実は私の母がこのまえ倒れてね。血圧が上がり過ぎて、ひどいめまいがしたらしい。それで念のために入院していたんだ」

「入院? ロバートさん、スウェーデンに帰らなくていいんですか」

「もう退院したんだ。後遺症もとくにない。だけど一人で暮らしているから、やっぱり心配でね。あいにく仕事の都合でしばらく帰れないし、もしカオルが良ければ、私の代わりに、しばらく母の面倒を見てくれないか」

「面倒をみる?」

「べつにカオルをお手伝いさん扱いする気はないよ。ただ、一緒にいてほしいんだ。友人として、助けてもらえないだろうか」

「私でいいんですか? 体調が悪いときに見知らぬ外国人がいきなり押しかけたら、よけいに具合が悪くなりそうですけど」

「いまはだいぶ良くなった。だけど病み上がりには違いないから、誰かにそばにいてほしいんだ。母は英語も喋れるし、何度か留学生のホストファミリーになったこともある。どうだろう?」

「お母さまの具合が悪くなったとき、病院に電話して詳しく症状を説明できるほどの英語力はありません」

「大丈夫。近所に妹夫婦が住んでいるから、何かあったら彼らに電話すれば、すぐに来てくれるはずだ。彼らが留守中なら近所の人に電話してくれればいい。誰かしら来てくれる。みんなには、前もって私から連絡しておく」

「でも…」

「難しく考えなくてもいい。なにも一生そこにいるわけじゃない。いつもと違う環境に身を置いて、ゆっくりと過ごすのも、たまにはいいじゃないか」

「カオちゃんが良ければ、カフェの仕事は休職扱いにして、帰ってきたらいつでもまた働けるようにしておくけど…」

 黙って話を聞いていたきよ香さんが、初めて口をはさんだ。

「そうしてもらえるとありがたい。どうだい、カオル。今の生活を捨てるわけじゃない。ちょっとした休暇だ」

交互にそう言われて、少し心が動いた。

それに、今の生活を捨てることになったとしたって、問題なんてなにもない。むしろ、何もかも捨て去ってしまえれば、どれほど楽になれるだろう。

ふいに思い出した。きよ香さんと田中さんが、この店名の由来について話していたときのことだ。あのとき私は、スウェーデンに行ってオーロラを見れば、この恋心もなくなるのかな、なんて他愛なく思った。それを試してみるのも悪くない。

「まあ、急には決められないだろうし、気が向いたら言ってくれるかい」

「行きます」

「え?」

「ほんとに?」

 あまりの即答ぶりに、ロバートときよ香さんは、同時に目を丸くした。

「ええ。本当に御迷惑でないのなら、しばらくお邪魔してもいいですか?」

スウェーデンなんて、当時の自分からしたら最果ての地だったし、そこに住むなんて現実逃避以外の何物でもなかった。だけどそれが必要な気がした。

行くと決めてから実際に出発するまでは、たったの一ヶ月だった。パスポートは既に持っていたので、なるべく早めに出発することにしたのだ。

 出発する日に合わせて、アパートは解約することにした。

隣の住人のくしゃみが普通に聞こえる薄い壁には辟易していたけど、家具つきで手軽に借りたり解約できるのは、確かに便利だ。

航空券を買ったり、私の代わりに働いてもらう弥生ちゃんに仕事の引継ぎをしたりしていたら、一ヶ月はあっという間に過ぎた。


「あとはオーブンで五分くらい焼くだけね」

 アンキの声で我に返る。

二人でせっせと手を動かしていた甲斐あって、生地は整然とオーブンプレートに納まっていた。天使や星やハート、それからジンジャーマン。可愛い形にくりぬかれていて、なかなかいい感じだ。

「たったの五分?」

「ええ。薄いからすぐに焼けるの。あと一時間くらいしたらグスタフが来るはずだから、一緒にお茶にしましょう」

「いいですね。あ、洗いものやります。少し休んだらどうですか」

「そうね、そうしようかしら。ありがとう、カオル。あ、そうそう。クッキーが焼けたらオーブンから出して、冷ましておいてね」

 アンキはふくよかな体を揺らしながら寝室へ向かった。元気そうに振舞っているけど、病み上がりだし、疲れやすいのだろう。

洗い物を終えて時計を見ると、三時を少し回ったところだった。

ということは、グスタフは…ロバートの幼馴染で、よくここに顔を見せるご近所さんは、四時ごろここに来るだろう。十五分前ぐらいにアンキを起こしてあげよう。

そう思いながらも、時計を見るとつい、日本との時差を計算してしまう。

今ごろあっちは夜の十一時くらいだ。田中さんは仕事を終えて、家に着くころだろうか。

もしかしたら、そばに恋人がいるのかもしれない。たとえば花火大会のとき、親しげに話していた女の子とか。

そこまで考えてぶるんと首を振る。それからリビングのソファに腰をおろした。

ふとした瞬間に、田中さんのもとへと意識が飛んでしまう。

私も彼と同じように、女性を好きになれたら良かった。もしもそうだったなら、田中さんの望むとおり、私たちはきっと友達になれただろうに。

だけど田中さんが私に恋をしないように、私も女性に恋はできない。私は私以外にはなれない。

きれいな女性やかわいい女の子がいると、田中さんはいつも素直に見とれていた。きよ香さんや弥生ちゃん、それから雑踏の中を行きかう女の子たちのことも。

私と彼とでは、目に入るものが違う。田中さんが女性に目をひかれるように、私も田中さんばかりを見ていたから、わかってしまった。

見えるものが違うからこそ、田中さんは私に小さな星を教えてくれた。地面ばかりを眺めていた私は、その存在に気付けなかった。

今でも田中さんが好きだ。だけどこの気持ちを伝えることは二度とない。彼の為にできることはたった一つ、諦めることだけだだから。


 途中になっていたアイロンかけを終えたころ、誰かが玄関へ向かうのが窓越しに見えた。あの大きな体は、きっとグスタフだ。玄関に回って扉をあける。

凍てついた空気とともに、予想通りの人が入ってきた。スーパーのビニール袋をぶら下げている。

毛糸の帽子の下にある顔はひげもじゃでいかつい。防寒用の分厚いコートに包まれた体は見上げるほど大きくがっしりとしている。職業は大工さんだそうだけど、この人の作る家は確かにしっかりしてそうだ。

「やあカオル。開けてくれてありがとう。ご機嫌はいかがかな」

にっこりしながらグスタフが訊いた。一見おっかなそうだけど、実際は親切で気さくな人だ。笑うと意外に可愛い。私もつられて微笑んだ。

「元気です。あなたは? 外は寒かったでしょう?」

「そうだね。とても寒い」

 グスタフは頑丈そうな革のブーツを脱いだ。

「だけどカオルにとって、今日は素晴らしい一日になるんじゃないかな」

「今日? これからですか?」

「そう。ようやく君の念願がかなうよ」

「もしかしてオーロラですか」

「そのとおり」

 私はもう一度窓の外を見た。三時半なのに、外はもう真っ暗だ。

「残念ながら、ここからは見えない」

 グスタフが笑う。

 この付近ではオーロラはたいして珍しいものではないらしい。普通に帰宅する途中に、なんとなく見えたりするものだそうだ。

 にもかかわらず、私はまだ一回も見ていない。天候に恵まれなかったせいだ。

 ここに来た翌日から、これでもか、と言わんばかりに雪が降った。厚い雪雲に覆われてしまったら、オーロラは見えない。

ようやく雪がやんだら、今度は見事な満月がオーロラを阻んだ。

 月が出ていてもオーロラは見えるけど、私が見たいのは、闇夜にひらめく鮮やかな光のカーテンだ。それでずっと待っていた。

「今日は雲ひとつない良い天気だし、新月の時期だ。きっとカオルの望み通りのオーロラが見えるだろう」

 勝手知ったる我が家のように、グスタフは冷蔵庫に食料品をしまいながら言った。

 アンキの体調はまだ万全じゃないし、私も免許を持ってないので、車の運転ができない。それでご近所さんのグスタフが代わりに買い物をしてきてくれるのだ。

「いい匂いがすると思ったら、これか」

 ジンジャークッキーに気付いたグスタフがにんまりした。甘いものが大好きなのだ。

「アンキと焼いたんです」

 コーヒーメーカーをセットしながらそう言うと、グスタフが三名分のカップを並べはじめた。大きな体に見合わず、マメな人だ。

「カオルが来てくれて、アンキはずいぶん元気になった。こんなに暗くて長い冬に一人きりでいると気が滅入るからね。僕もそうだからよくわかる」

 グスタフは数年間同棲していた恋人のパトリックと、最近別れたばかりだそうだ。

「私も長いこと一人暮らしだったから、なんとなくわかります」

「じゃあ一緒に住む?」

 人懐っこくグスタフが訊く。私は苦笑した。

「すみません。お断りします」

「日本人はノーと言えないんじゃないの? 古い恋を忘れるには新しい恋が一番だよ」

「どうしてそんなにラテン系なノリなんですか。あなた本当にスウェーデン人ですか?」

「そうだよ。ただ、一度きりの人生を楽しもうとしてるだけさ」

 その言葉で、あの夏の日がよみがえる。

 蒸し暑い薄闇と、夜空に舞い散る花。杉村先生と、きよ香さん。そして田中さん。

 先生はあのとき、生きている限りは楽しく過ごすべきだと言った。

 みんなが私のお別れ会をしてくれたとき、一瞬だけ顔を出した杉村先生はこうも言った。

「佐藤くん。目の前の問題から距離を置くのも時には必要です。たまになら、逃げるのもいい。だけど、本当に逃げきってはいけない。みんなが悲しむ。わかりますか?」

 その言葉に、少しだけ驚いた。誰にも言ったことはないけれど、死んでしまいたいと思う瞬間が、たまにあるから。

 生まれてくることを選べないのなら、せめて死ぬことぐらいは自分の意思で選びたい。それが性別も性的志向も家族も選べなかった自分にとって、選べる唯一のものだ。

杉村先生は私のそんな気持ちを、薄々察していたのだ。

きよ香さんやロバートもそれを感じ取っていたからこそ、あんな提案をしたのだと、そのとき初めてわかった。なんだか涙が出そうになった。

黙り込んだ私の手を、先生は握った。

「必ずまたお会いしましょう。いいですね」

 その手のひらは、田中さんよりもずっと小さくて、柔らかくしなびていた。だけどとてもあたたかく、込められた力は意外なほど強かった。


「あら、グスタフ。いつ来たの?」

 アンキが起きてきた。目元はとろんとしているけど、きれいに身仕舞している。

「やあ、アンキ。美味しそうなクッキーだ」

「そうでしょ。カオルと焼いたのよ」

 二人とも私のために、スウェーデン語を使わず、簡単な英語でしゃべってくれる。

だけど最近、スウェーデン語の美しさに惹かれる。せっかくだから、この機会に勉強してみるのもいいかもしれない。もしも、まだこの先があるのなら、だけど。

「何を考えているの? カオル」

 アンティークなカップにコーヒーを注ぎながら、アンキが微笑む。淡い青で薔薇の描かれた上品なカップは、彼女に似合っている。

「きっとオーロラのことじゃないですか」

 クッキーをつまみながらグスタフが言った。沈んだ気持ちを知られないように、私は笑った。

「ええ。今日、ようやく見られそうなので」

「そうなの。あったかくして行くのよ」

「カオルは細すぎるから、よけい寒そうだ」

「私の肉を分けてあげたいわ」

「僕の分も」

「すみません。お断りします」

 暖かく居心地の良いキッチンでこうやってお茶をしていると、カフェ・オーロラを思い出す。この先どうするのか、まだ決めかねているけれど、杉村先生にはもう一度会いたい。きよ香さんやロバートとも。

できれば暖かくて明るい季節がいい。

大好きなカフェオーロラで、みんな笑顔で。


「そろそろ行こうか」

 三人でジンジャークッキーとコーヒーを楽しんだあと、グスタフがそう言った。

オーロラを見るのに適した分厚い服に着替えてから、彼の車に乗る。体が本調子ではないアンキは留守番だ。

アンキの家は郊外にあるので、明かりはほとんどない。ヘッドライトだけが頼りだ。

深い闇の中、点在する家の明かりだけが、時たまぼんやりと浮かび上がる。車道は除雪されているけれど、両脇には雪の壁がそびえていた。

「それにしても、どうしてわざわざ日本から、オーロラなんて見に来たんだい?」

 雪道を危なげなく運転しながら、グスタフが訊いた。そういえば理由はまだ言っていなかった。

「オーロラを見ると、恋を終わらせられると聞いたので」

「へえ? 日本ではそう信じられているの」

「いいえ。ただ、友達がそう言っていて」

 車は森に入っていく。人はおろか、生き物の姿は皆無だ。静まり返った暗い道を少し行って、ようやく止まった。

「少し歩こう。それほど遠くない」

 車を降りて、グスタフの背中を頼りに暗い雪道を歩く。

スウェーデンに来て初めて、鼻毛が凍るという斬新な体験をした。息を吸い込むたびに凍り、吐きだすと溶ける。その繰り返しだ。今も凍ったり溶けたりしている。

空気は冷たいのを通り越して、ひりひり痛い。車中も少し寒いような気がしたけれど、こうして歩くとあそこが暖かかったことが、実感としてわかる。

それでも歩いているうちに、だんだん体が温まってきた。凍てつく暗い森を、二人で黙々と歩く。やがてグスタフが立ち止った。

「カオル、見て」

 グスタフの背から目を離し、顔を上げる。

 いつの間にか森を抜けて、開けた所にいた。目の前には湖が広がっている。

そこで見たのは冷たく燃える炎だった。

 天と地にひらめく鮮やかな光は、ゆらゆらと形を変えて、一瞬も同じ姿でとどまらない。生き物の存在を感じさせない森の中でゆったりとゆらめくひかりは、呼吸を思わせた。そして、目の前の湖水がそれを映している。生きているのは、空と自分達だけみたいだ。

それはどこまでも幻想的な景色で、違う世界に迷い込んでしまった気がした。

闇に広がる星空を背景にしたオーロラは、ただただ美しい。

 きよ香さんの言っていたことがわかった。こんなに美しいものを見たら、たしかに人生観だって変わるはずだ。

無数に散らばる星から見たら、人間の一生は、なんとあっけなく短いものだろう。

「綿々と続く長い長い歴史から考えると、人間の一生なんて、あっという間です。だから、生きているうちにするべきことは、悩むことや悲しむことじゃない。できる限り楽しく過ごすことです」

あの夏の夜に聞いた杉村先生の言葉が、脳裏で鮮明に弾けた。

一瞬だけ与えられた生を、悩んだり悲しんだりして過ごすのはあまりに惜しい。素直にそう思った。先生の言葉が、今になってようやく理解できた。

呆然と立ち尽くす私に、グスタフが白い息を吐きながら言った。

「世界には、美しいものや素晴らしいものがたくさんある。恋をひとつ終わらせれば、その次には新しい恋が待っている。そう考えると、生きるのは素晴らしいことだ。そう思わないかい?」

 私は言葉もなく、ただ頷いていた。

 隣にいるこの人が生涯の伴侶になるなんて、夢にも思わずに。


 私がグスタフと一緒に暮らし始めたのは、それから二ヶ月後のことだった。

 田中さんを忘れたわけではない。新しい生活の中で、彼の存在は心の中で少しずつ変化していき、いつの間にか思い出になった。

やがてグスタフへの穏やかな愛情が、ゆっくりと心を満たしていった。

 アンキの紹介で、仕事も始めた。新しい職場は、彼女の知り合いのカフェだ。

移民や難民の受け入れに寛容なお国柄のせいか、人種差別を感じたことは、今のところない。

たとえこれから差別されるのだとしても、同性愛者であることが周囲にばれてしまったら、日本にいたって差別を受けるのだ。だったら、あるがままの自分でいられる環境のほうがいい。

ここに住むということは、外国人として生きていくということだ。言葉の壁や、文化の違いで悩むことも少なくない。グスタフとの間でも、価値観の違いに戸惑うこともある。日本に住んでいればしなくてもいい苦労もあったし、これから先も、きっと色々なことがあるだろう。

そういう全てを踏まえたうえで、私はここで生きていくことを選んだ。

愛する人を愛せる環境を手放さないために、もう二度と逃げないと決めた。

グスタフと住み始めて二年経った頃、彼にプロポーズされた。スウェーデンでは、同性同士でも結婚できる。

私はグスタフのプロポーズを自然に受け入れた。


 あっ、佐藤だ。よく眠ってる。

こんなところで会うなんて思ってなかった。それ以前に、二度と会えないと思ってた。


それは三月の最初の日曜日。春先に着るコートがくたびれていたので、新しいのを買いに行く途中のことだった。

ゆるやかに振動する電車の中に、佐藤はいた。最後に会ってから何年もたっているのに、すぐにわかった。何かを考えるよりも先に手が出た。

 眠っている佐藤の前に立って鼻をつまむと、驚いたようにぱっちりと目をひらく。それから俺を見て固まった。

「よう、佐藤。ひさしぶり」

「……ご無沙汰してます」

 数年ぶりの再会なのに、お互いにあっさりしすぎた挨拶を交わす。

次に止まるのは、ちょうどカフェ・オーロラの最寄駅だ。佐藤のいないにあの場所に慣れることができなくて足が遠のいていたけど、気にはなっていた。

「カフェに行くのか?」

「ええ」

「俺も一緒に行ってもいいか?」

「…ええ」

 佐藤は目を細めた。


俺たちはゆっくりとカフェへ向かった。空気はまだ冷たいけれど、どこからか花の香りがする。そういえばそろそろ桜の季節だ。

「黙って消えてすみませんでした。だけど、あの時はああするしかなかったんです」

 佐藤はやっぱり俺の少し後ろを歩く。立ち止まって、俺は振り返った。

「お前が行ったあと、ロバートからいろいろ聞いた。俺、お前のこと、なんにもわかってなかったんだな」

 佐藤も立ち止まった。

「ロバートが何を言ったか知りませんが、田中さんには感謝してます」

「俺、なんにもしてないけど」

「それでよかったんです」

 佐藤は微笑んだ。やわらかな、本当に優しい顔だった。

「避けないでくれて、普通に友人として接してもらえて、本当に嬉しかった。逃げ出したのは、完全に自分の弱さのせいです」

 そう言い切った佐藤は、以前より強くなったように見えた。まっすぐ俺を見る視線に、迷いは感じられない。

「いつこっちに戻ってきたんだ?」

「三日前です。…恋人と一緒に」

 左手の薬指に光る細い金の指輪には、さっきから気がついていた。

「そうか。幸せか?」

 やわらかい表情のまま、佐藤が頷く。

「今度、結婚することになったんです。今回帰国したのは、彼が両親に挨拶したいって言いだしたので、それで…」

「結婚?」

「ええ。スウェーデンでは、同性同士でも結婚できるので」

「…おめでとう、佐藤」

 お前はようやく、自分の居場所を見つけたんだな。俺は意識して微笑んだ。

 佐藤が去ってから気づいたことがある。

 冷静に考えれば、佐藤はただの友人だった。

それなのに、どうして俺は佐藤のことをあんなに気にしていたんだろう。

それに男にキスなんかされたら、普通ならもっと引いていたはずだ。あるとき、ふいにそう思った。

それで気が付いた。あのころ、俺も少しだけ佐藤に惹かれていたことに。

べつに同性愛に目覚めたわけではない。現に今、俺にも恋人がいる。もちろん彼氏ではなく彼女だ。

それでも、あのころ佐藤に感じていたのは、限りなく恋に近い感情だった。

そういう気持ちになったことを、恥じるつもりも否定するつもりもない。

誰かに言うつもりもない。佐藤に打ち明けることもないだろう。佐藤からもらった手紙のように、この気持ちも、どこかに大切にしまっておこう。

俺と佐藤の道は交わることはなく、これからずっと、それぞれの居場所で生きていく。それでいい。

だけど俺は忘れない。佐藤のことも、あの夏の日の花火も。


 いつもの癖でつい、彼の少し後ろを歩いてしまう。人間の習性というものは、時間が経って歳を重ねても、なかなか変わらない。

田中さんと一緒にカフェへの道を辿りながら、彼の背中を見ていた。だけど昔と違って、ときめいたりはしなかった。

 ひとりで電車に乗ったのは偶然だった。

この滞在中、私たちはロバートの家にお世話になっている。本当ならグスタフとロバートと一緒にカフェに行くはずだったのに、忘れ物をして、ひとりだけ戻ったのだ。

こんなふうに、田中さんとふたりっきりで会うつもりはなかった。吹っ切れたつもりではいたけれど、会ったら気持ちが変わってしまうかもしれない。それが怖かった。

だけど実際に会ったときに胸を占めたのは、懐かしさだけだった。そこに恋愛感情はなかった。

日本を発つ前にみんながしてくれたお別れパーティで、田中さんに聞かれた。お前は何が欲しいのかと。

あの時の私は、田中さんと一緒の人生か、たった一人での死を望んでいた。

だけど、生きているといろんなものが変わる。気持ちや望みや生活環境、それから好きな人も。

変わるのは自分だけではない。周りの人間だって変わる。

結婚してこれからずっとスウェーデンに住むと決めたとき、両親に電話で連絡した。連絡を取るのは数年ぶりで、きっとこれが最後になるだろうと思った。

同性愛を恥じる彼らにとって、男性と結婚する息子なんて許せるはずもない。確実に絶縁されるだろうと覚悟していた。

だけど実際は違った。母は、電話口で泣きながら祝福してくれた。何年間も連絡がなかったから、父と心配していたとも言ってくれた。素直に嬉しかった。それで会いに行くことを決めた。

そうやって人は変わっていく。それは素晴らしいことだ。私たちには、たくさんの可能性があるということだから。

 そんなことを考えているうちに、カフェ・オーロラに着いた。暖かな光に包まれている。ここで、きよ香さんとロバート、それからこの先の未来をともにする人が待っている。

 少しだけ深呼吸をする。春の匂いがした。 


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