お前の溜め込んだドロドロ全部 ②
「我が手に来たれ、揺るぎなき守護……」
弥鳥さんの詠唱が、俺の心に心地よい波紋をつくる。
その言葉が廃墟の街に響くと、漆黒のカラスじみた怪物が俺達を待ち受けるように体を震わせた。
リンと鈴の音がして、弥鳥さんの振り下ろした右手に光り輝く長剣が現れる。
一瞬、彼女の顔が近付いて囁き、俺はその顔を見返して頷く。何も怖くなかった。
「……久凪くんは殺させない」
そのひと言の後、弥鳥さんが金色の光を発して怪物へ飛びかかる。
すでに黒衣の女の身体は大鴉の体躯に溶けていたが、顔はそのまま胴に張り付き、黒髪をなびかせながら思惑ありげな笑みを浮かべていた。
俺はその胸を弥鳥さんの長剣が貫くのを見て、絵に描いたような怪物退治だと思った。
「……世界山の来訪者……こんなものか」
少女に串刺しにされた怪物は、数メートルもの翼を広げながら芝居がかった言葉を連ねる。こいつは本当にファンタジーから抜け出してきたのかも知れない。
「確かに……ドグマを司る漆黒の羽根で顕現した俺と違い……お前はまだこの世界で力を発揮できないんだろう……だが、そもそもお前の心は空っぽだ」
「……解説役だなんて余裕だね? 確かにそうかも知れない、だって主人公はボクじゃないもの。だから……」
弥鳥さんが目を閉じると、かざした左手から光り輝くロープが現れ大鴉の体を縛り付ける。それがそのときだ。
「……倒すのは俺なんや」
背後から大鴉に剣を突き立て、俺は叫んでいた。とどめを刺すのは俺の役割なんだ。
「……おお……おお……おお……お前のは悪くないぜ、少年。世界の果てへの逃避行……シンプルな物語じゃねえか」
大鴉に張り付いた女の顔が異様な角度で曲がり、俺を見つめる。黒いシルエットに、紅く輝く両目と吊り上がった口だけが見えた。まったく絵本の怪物じみてる。
そのとき、真っ黒な胴体に突き通した勇者の剣がゆっくり捻れ、吸収されるようにひしゃげていくのに気付いた。こいつの体は妙だ。粘性の渦に巻き込まれるようだ。
弥鳥さんのロープも大鴉の体内に溶けていく。身体に満ちていた怒りや苛立ちすら吸い取られるようで気が遠くなる。
「自分を傷つける世界への復讐……こうか?」
大鴉が体を震わせた瞬間、視界が黒く染まり、俺は貫かれたような衝撃を受けて吹き飛んでいた。
攻撃が跳ね返された……? 辺りの建物が軋み、瓦礫が砕ける。
「久凪くん!」
地面に叩き付けられる前に身体を抱きとめられるのが分かった。
身体の痛みが和らいでいく。
廃屋のような建物の中で、弥鳥さんが俺の胸に両手を当てていた。
「はい、大丈夫!」
「ありがとう……」
あの爪に貫かれた傷もすっかり消えていた。そう、大丈夫なんだ。真夜の司る現実では、治ったと思えばそうなるはず。
窓から外を窺うと、さっきの戦闘で舞い上がった砂煙が見えた。
「弥鳥さん、あいつは……何者なんやろう」
「虚海船……て言ってね。現実の層の移動はもちろん、世界から世界へも自由に移動できる技術なんだ。あいつはそれで、初めっからこの世界の住人として活動できるし、ほら」
薄暗い廊下で、弥鳥さんの指差す中空に奇妙な構造体が現れる。常に形状を変化させる立体パズルが、目の錯覚のように浮かんでは消える。
「……ボク達のレイヤーを固定することもできる。やっかいだね。このままじゃ表層へ戻れない」
「異世界からの来訪者って言ってたで……?」
「そう……ボク達と同じ……」
そう言う弥鳥さんの姿をあらためて眺める。表層では制服姿の女子中学生だが、ここでは古代の王族のような装身具を纏い、瞳を金色に輝かせる戦闘少女――。何て妄想じみた現実。
「弥鳥さん……俺いままで気にせんかった……理由なんていらんかったからな。でも……聞きたい。弥鳥さんはどこにいたん? 何で俺のとこへ来たん?」
弥鳥さんの瞳がしばし遠くを眺め、そして俺を見た。その目を一瞬よぎった感情……あれは懐かしさだろうか。それとも哀しみ?
「……ボクはね、とても静かなところにいたんだ。ずっと遠く……だけどすぐ傍にある世界さ。あんまり静かだから、感情が揺れることもなく、時間すら流れなかった」
弥鳥さんの瞳に、その静謐の世界が見えるようだった。いや、彼女の言葉がヴィジョンとして目の前にあった。
星灯りが静かに照らす無限の空間――鏡のように空を映す地面が地平線まで続いている。
その世界に彼女がひとりいた。
「……でもそうじゃない、時間は流れるんだ。それもあっという間にね。感情がなければ100年さえ一睡の夢さ。ボクにとって時間は幻だった。存在することそのものが幻になるんだ」
「そんなん……」
これだけの体験の後で、荒唐無稽とは思えなかった。ただ、彼女のヴィジョンはとても寂しそうだった。
「そう、寂しい……そう思うこともなかったよ、それまで……キミの声を聞くまでは」
「俺の……?」
「うん、キミの声だった。さっきあの大鴉が言ってたね、生きることに絶望した魂って。でもそうじゃなかった。キミの声は希望そのものだったよ」
「……俺は何て言ってたん?」
「ここから連れ出して、って」
弥鳥さんが微笑んだ。少し顔を傾けると、その前髪が揺れる。
「ひとりじゃない、救いがあるって知ってる、それが希望だよ。ひとは誰でも、自分だけの命綱にしがみついてるんだ。それを手放せるってこと。手放して、その空っぽの手で誰かに手を差し出すってことだよ。もしかするとそれは、全部を諦めるってことかも知れない。諦めた先に救いがあるんだ。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ……ってね」
大きな地鳴りがして、一瞬後に建物が揺らいだ。
遠くからあの女の声がする――そろそろいいか? そう言っているのが分かった。
「あはは、のんびりさせちゃくれないね」
「……うん」
「久凪くん、生き延びるにはボクとキミの力を合わせなきゃ」
「うん……分かってる」
「大丈夫。忘れないで、キミの……ボク達の最初の気持ちを。出会ったときから、ボク達はもう勝ってるんだ」
空を駆ける弥鳥さんの手を離し、俺は瓦礫の散らばる地面へなんとか着地する。
弥鳥さんがその前に身軽に降り立ち、正面の怪物に向き合った。
「決戦前の休息か……覚悟は決まったか? そんなことができるのも物語の座標系あればこそだな」
黒髪の女が、紅い瞳を輝かせて嬉しそうに笑う。こいつの言葉が俺の心にさざ波を立てる。
鉤爪の生えた趾が地面を擦り、乾いた音を立てた。
「あは、キミも面白いよね。虚海船を持ってるってことは、漂流学園から来たの?」
「ああ……昔のことだよ」
女が一瞬見せた遠い視線に、彼女の人間らしさを感じて俺はどきりとした。それはこいつの背後にある物語の奥行きだった。
「……いまはこのジャガナートに絡む物語に会いにきた、ただの漂流者だぜ」
「ふぅん。じゃあお互い自己紹介からかな?」
弥鳥さんは優雅なそぶりで両手を空へ舞わせる。金色の光の粒子がその身体を取り巻き、頭上に寄り集まっていく。これまでにない力を集めていることがすぐ分かる。
「我が前にその大いなる力を示せ……三神気の霊槍」
集まった光が巨大な三つ叉の槍を形成する。いや、柱とでも言うべき巨大さだ。
「確かにボクの力は1割も届かないかも……でも元の出力が大きければそれで充分でしょ?」
「……宇宙則を書き換えてるのか? そうかお前……」
三つ叉の間に青白い火花が飛び交い、周囲の空間が奇妙に歪んで見えて、その力の凄まじさに俺はたじろいた。
弥鳥さんの姿も瞬き、いまにも消えそうに見える。
「……み、弥鳥さん、無茶しちゃ」
俺は思わず声をかけたが、彼女が一瞬振り返ったので我に返る。いまは相手に集中するんだ。
俺は大鴉の趾を見つめて叫んだ。
「……石化……!」
奴に向き合った瞬間から発動させていた俺の真夜……石化の魔法。そのイメージを強化するため最後に術名を唱える。
「……これは意外だ」
大鴉が灰色に硬直した両趾を面白そうに眺める。鈍い音がして、そこに大きな亀裂が走った。そうだ、石化させ、硬直した肉体を砕く、思い描いたとおりの魔法。そのまま弥鳥さんの一撃を味わえばいい。
「まず相手の攻撃を受けるのがキミの戦い方でしょ? これも試してよ」
弥鳥さんの言葉に、大鴉が笑いを凍り付かせる。
「穿て!」
槍から凄まじいエネルギーが放たれる。落雷のような凄まじい閃光と轟音。正面から建物が崩れる音が聞こえる。
「おお……おお……おお……素晴らしいじゃないか」
直撃を浴びながら、怯む様子もなく大鴉が呟いている。
「ここまで力を制限されながら……大鴉の賢慮を貫通しそうだぜ」
「じゃあこれで貫通できるな」
大鴉の胸を、無数の刃を逆立てた大剣が正面から貫いている。その柄を両手で掴んでいるのは俺だ。とどめを刺すのは俺だから。
「……おお……攻撃圏に自ら飛び込んでくるとは……」
「守護防膜……弥鳥さんの攻撃が1割しか届かへんのやったら、俺にも耐えられる……!」
俺の全身を青い光の膜が覆っていた。――防御魔法。
槍の光は収まり、焼け焦げた周囲から黒煙が立ち上っていた。大鴉の体表と同時に俺の背中も焼き焦げたが、それもイメージに過ぎない。この現実では何とでもなる。
「……見直したぜ少年」
女が心底嬉しそうに笑う。
胸に突き刺さった大剣が、またもひしゃげ、肉体に取り込まれていく。さっきと同じだ。攻撃が吸収されていく。そう、それも分かってる。
「……あ?」
女の表情が硬直する。
大剣に無数の亀裂が走り、同時に俺の全身にも裂け目が走る。
「これは……諸刃の剣……攻撃すれば自分にもダメージが跳ね返る呪具……」
俺の身体中から赤い液体が溢れるのが分かる。その痛みを俺は歓迎する。
すぐに大鴉の全身にも、俺と同じだけの亀裂が走る。
「お前は相手の攻撃を受け止めてから跳ね返すんやろ? じゃあ一緒に行こう」
「……素晴らしい」
自らの身体が崩れることを喜ぶように、女が笑みを湛えたまま俺に顔を寄せた。俺は避けない。こいつは俺の世界の果てなんだ。
女の頭部から滴り落ちる赤い液体が俺の顔を染めていく。皮膚が焼けるほどの熱が、耳元から胸元へ流れる。
ああ悪くない。こんな終わり方ができるなんて。
俺は力を振り絞って、相手の体内深く大剣を突き刺していた。
「久凪くん、ボクも一緒だ」
傍に立った弥鳥さんが、剣を握る俺に両手を重ねていた。その柔らかさ、温かさが俺には信じられない幸せだ。
瞬く間に弥鳥さんの身体からも赤い液体が流れる。これで一緒だ。
金属の柱が折れるような音がして、大鴉の身体が傾ぎ、剣の刺さった胸から肩にかけて大きな裂け目を作った。
「……そうか……賢者の石……この少年で精製していたのか」
引き裂かれた半身を傾けながら、大鴉が弥鳥さんを見つめて呟いた。
その言葉の意味も分からないまま、俺の意識は薄れ始める。たとえ息絶えたっていいよね、弥鳥さんはそう言った。俺も同じ思いだ。ふたりで行けるなら。
「……ごめん」
すぐ傍で弥鳥さんの声がする。
直後、俺は後ろへ突き飛ばされていた。一瞬、俺は何が起こったのか理解できない。
剣から手が離れ、大鴉から遠ざかっていく自分が、ゆっくり現実からずれていくのが分かる。失われる。あの一瞬にもう届かない……。
「ごめんね、このまま一緒でもよかったけど……もうちょっと先を見たくなったんだ」
「み……とり……さん」
レイヤーがずれていく。弥鳥さんの姿が薄れる。大鴉も、紫色の空に静止するジャガナートも。すべてが灰色へ溶けていく。
「また会えるよ。もしキミの心が望めば。純粋にそう願えば……」
最後の意識が、その彼女の声だけを捉えていた。
俺は見慣れた通りにいた。
すぐ傍に神社があった。
誰もいない路上を街灯が照らし、信号が静かに光っていた。静かで、冷たく、暗い……俺のよく知る時間。都市の曖昧な夜空はそれでも、東から白み始めていた。
「……夜明け?」
夕暮れにレイヤーを移って、さほど経っていないはずなのに。
傷は跡形もなかったが、大切な何かを忘れたような喪失感が胸を貫いていた。
俺は思わずあやのの姿を探していた。ここであやのに声をかけられた朝は半月ほど前……だが半年も前だと感じる。
呼ばれたように神社の敷地へ入ると、社の灯りが誰かの姿を照らしていて俺はぎょっとした。
小さな女の子だ。
10歳くらいか。真っ直ぐ前を向くぱっちりした目。ショートにした髪からちょこんと逆立つ毛を揺らしている。
紺のブレザーにチェックのスカートは、どこかの私立小学校の制服だろうか。
「深く潜ると時間もずれるからね」
無邪気な声。それが俺への言葉だとしばらく分からなかった。
ビルの隙間から溢れた陽光が赤い鳥居の天辺を照らした。街が目を覚ます瞬間。
「……ほら、世界は美しい」
そう笑いかけなら歩み寄ってきたその子が、突然俺の胸に飛び込んできた。
尻餅をついた俺に覆い被さるように顔を突きつける。幼さの残る顔が真剣な表情をぶつけてくる。
「この世界を君は……捨てるっていうの? なんて……」
「え……何……?」
胸ぐらを掴まれて俺は戸惑っていた。
「なんてひとりよがり……」
怒ったような泣いているような顔で、女の子がじっと俺の目を覗き込んでいた。
近くの通りを、車が走り過ぎていった。
「だ……誰なん……?」
「マイトリーが無茶をしたから……僕が幕を引きにきたんだ」
「マイトリー……?」
気を取り直したように数歩下がって、女の子が話し始める。
「彼女は……明弥鳥空子って名乗ってたね。救世の英雄神ミトラ。50億年を閲する者……それとも弥勒菩薩って呼んだ方が君にはしっくりくるかな」
「弥鳥さん……」
その名が奔流となって頭を叩いた。そうだ、さっきまで弥鳥さんといた。あの深いレイヤーで……一瞬そのことを忘れていた。
「僕はカルナー……マイトリーと同じく世界山から来たんだ。最後に君を……君の現実へ送り届けるために」
ぼんやりとその女の子を眺めながら、俺は決して忘れないよう念じていた。現実に戻っておしまい……そんな物語は求めないよ弥鳥さん。俺はまた、絶対に君に会いに行く。
これにて第1章「始まりの物語/静謐の少女と破壊神」は終幕。主人公も作者も訳も分からず駆け抜けた章でしたが、次章はもう少し明確なゴールを目指して語られる予定です。出番の少なかったあの人やこの人も色々動くはずです。