お帰り
一歩二歩と座敷に近付く。
やつとの距離は、目測でおよそ五メートル。後十度、俺が足を前に出せば、その距離はほとんどゼロになる。
一、二、三、四、五、六、七……。
「なんで来たんですか」
距離が詰まり、もうほんの少しで手が届きそうという所で、背中をこちらに向けたままの座敷から俺に対して声が掛かる。
足を止め、考える。
なんで? 改めて考えると、俺はなぜここに来たのだろう?
そもそもここがどういう所なのか俺が知ったのは、本当についさっきで、そういう意味では俺はここに来ようと思ってきたわけではない。
では、なぜ俺は、今ここにいるのだろう?
「座敷を助けたかったから? かな」
「私は別に! ……そんな事望んでいません」
「あぁ。だからこれは、俺の自己満足で、座敷にとってはただのお節介なのかもしれない。けど俺は、それでも、お前が困ってると思ったら手を差し伸べるし、悩み事があるならお前が話したくなるまで隣でずっと待ち続ける」
「なんでそこまで構うんですか」
「言っただろ。俺の自己満足だって。俺がそうしないと気持ち悪いからそうする。ただそれだけだ」
「なっ……」
驚きの声を挙げ、座敷が振り返る。
「やっとこっち向いたな」
「まさか、そのために?」
「さぁー。どうだろうな。どちらにしろ、今俺が言った事に嘘は一つもないし、これからもそのスタンスは変えないし、変えるつもりもない」
「……遼一さんは、本当の私を知らないからそんな事が言えるんですよ」
「じゃあ、お前の言う本当のお前って、なんなの? 一体」
俺の問い掛けに対し、座敷は一度呼吸を整え、口を開いた。
「私は日高さんが嫌いです」
「え……?」
桜子が嫌い? なんで?
「日高さんは優しくて、可愛くて、いい人で、その上、責任感が強く、真っ直ぐした芯が一本通っている人で……」
「えーっと、それは……」
褒め言葉だよな、全部。
「はい。だから、私は日高さんが嫌いです。そんな素敵過ぎる女性に、私なんかが勝てるはずありませんから」
勝てる?
「お前、一体、なんの話をして……」
ジジ……。
どこからかまるで、小さな羽虫が電灯に当たって熱せられたような異質で嫌な音が聞こえた。
「――っ」
右目を瞑り、微かに痛む頭を押さえる。
ジジジ……。
なんだ、この音。それに視界が……。
揺れる。霞む。ぶれる。滲む。
目の前の景色が、電波障害に合うテレビのように歪み、座敷の姿が二つ重なって見える。
「言いましたよね、さっき、私。遼一さんは本当の私を知らないって」
「なに?」
「私は座敷わらしのくせに、遼一さんを独り占めにしたくて、それを邪魔する日高さんを妬み、憎み、嫌い、排除しようとした」
くそ。なんだ、これは。
頭の痛みと視界の歪みに引きずられて、思考がうまく纏まらない。
このままではまずい。それだけは分かる。だけど、どうすれば……。
「日高さんさえいなければ、遼一さんは私を見てくれる。日高さんさえいなければ、遼一さんの隣は私のものになる。日高さんさえいなければ……」
ジジジジ……。
あぁ。ダメだ。意識が黒い靄のような何かに飲み込まれていく。抗う事はおろか、考える事すら許さないそれは、おそらく座敷の負の感情だろう。
ダメだ。視界が。ダメだ。思考が。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。
ダメだ。
――遼一さん、あの子の事をお願いします。
光があった。
暗くて黒い暗闇の中、微かな光が確かにそこにあった。
――甘えん坊で寂しがり屋な困った子ですが、決して悪い子ではないので、出来るだけ長く一緒にいてあげて下さい。
そうだ。俺は任されたのだ。彼女に。目の前の少女の事を。だから――
「それはお前の言葉か?」
「え?」
俺の質問が座敷の不意を突いたのか、黒い靄の拘束が僅かに緩む。
「本当に、お前が考えて口にした言葉かって聞いてんだよ!」
叫ぶ。
今にも飲み込まれそうな意識を保つためにも、懸命に声を張り上げる。
「確かにな。俺はお前の事を、本当は何も知らないのかもしれない。けどな。それでも俺は、お前が本気で誰かの不幸を望むようなやつだとはどうしても思えないし、やっぱり思いたくないんだよ」
「遼一さんが私の事をどう思おうが関係ありません。現に私は、本当に思ったんです。日高さんさえいなければって……」
「そんな事ぐらい誰だって思うだろ。俺だって思うし、もしかしたら桜子だって」
「でも私は実際に――」
「桜子が怪我すればいいと思ったって言うのか?」
「それは……」
周囲の空気が、座敷の勢いと共に更に幾分か弛緩する。
「だったら、お前のせいじゃないだろ。今回の桜子の件は」
「それでも私のせいなんです。私が醜い感情を日高さんに対して持ったから、だから……」
「疫病神にその心の隙を突かれた、と」
「知って、いたんですか? 知っていて、ここに……」
座敷が目を見開く。それほど俺の行動は、彼女にとって有り得ないものだったらしい。
「この空間は私の精神世界そのもの、そこに精神体として足を踏み入れるなんて、生身で獅子のいる檻に入るのと同じくらい危険な事なんですよ! 分かっているんですか!」
「まぁ、何となく、雰囲気としては? けど、諸々全てを解決するためには、これしかなかったというか……」
「馬鹿です。遼一さんは」
震える声でそう告げた座敷の目尻には、薄ら涙のようなものが浮かんでいた。
辺りを包んでいた靄が薄くなり、それに伴い、音とプレッシャーも徐々に弱まっていく。
これで一件落着――とはいかないものの、当面の危機はこれで……。
……ならぬ。
「え?」
声が聞こえた。
どこからか、地の底から響くような低い、しゃがれた老爺の声が。
それを合図にするように、一度は収まり掛けていた靄が、音が、プレッシャーが、再びその勢いを増した。
飲み込まれる。
そう思った時にはもう遅かった。
座敷を中心に無尽蔵に広がり続ける黒靄は、瞬く間に俺の足元まで到達し、と同時に、蛇のように俺の足へと絡みつき、上へ上へと、まるで木の上の鳥を狙うそれのように這い上がっていく。
抵抗は無意味で、猶予は一瞬だった。
そうなった時に、すでに俺の膝から下は棒のように固く固定されており、逃げる事はおろか、動く事すら出来ない状態に最早なっていた。
「飛んで火にいる何とやら。お前さえいなくなれば、この娘の心は拠り所を無くし、壊れ、完全に肉体の所有権を放棄し、ワシの新たな肉体として再利用される事となる」
座敷の口から発せられるその声は、完全に座敷の物ながら、内容や口調は明らかに彼女のそれとは違い、違和感と同時に俺は何だか無性に腹立たしさを覚えた。
「あー。リョウイチとやら、お主には礼の言葉しかない。よくぞ、この娘と出会ってくれた。よくぞ、この娘の心を開いてくれた。そして、よくぞ、ワシの手の届く所までやってきてくれた。感謝を。無知で、無能で、無力なお主に、心の底からワシは感謝の意を表する」
「――せぇ」
「何?」
「うるせぇ。何が感謝だ。くそじじい。てめぇに感謝なんて言われても、こっちとら、これっぽっちも嬉しくねぇんだ、馬鹿野郎」
俺の予想外の反応に気圧されたのか、座敷の動きが止まり、きょとんとした表情をその顔に浮かべる。
「おい座敷、聞こえてるんだろ。いつまでその耄碌したくそじじいに、妄言じみた戯言をぺらぺらと語らせてるつもりだ。まだ俺とお前の話は終わってねぇし、まだ俺はお前に聞きたい事が山ほどあるんだ」
「だ、黙れ、小童。今際の際と思い、少し優しくしてやれば付け上がりおって。今更、何を喚こうとこの娘にはもう何も届かんし、お主の運命も何も変わらぬわ。そのガラス玉のような瞳でよう見てみい。自身の置かれた現状を」
確かに黒靄は、もうすでに俺の胸元までせり上がってきており、こうなってしまうと身動きすらもうままならない。しかし――
「だからどうした。体は動かなくても、まだ俺の口は自由に動く。最後の一瞬まで俺はまだ諦めねぇし、吠え続けるぞ。座敷、てめぇ。このまま逃げられるなんて思うなよ。本当に悪いと思ってるなら、桜子に会ってちゃんと謝れよ。まずはそれからだろ。何もかも」
吠える。力の限り。
声が届くか分からない相手に対して、声が届いていると信じて。
座敷からの反応はなかった。しかし、確かに変化はあった。
「なに?」
その変化を見て、座敷の顔が歪む。
それまで辺りに広がり、俺に登り続けていた靄の動きがふいに止まり、むしろ弱まり始めた気さえする。
「馬鹿な。この期に及んで、まだ抵抗するというのか……。だがもう遅い。すでにこやつの精神世界の大半はワシの力によって浸食され、後はこの僅かな空間を残すのみ。なのに、最後の最後で……」
ぱき。
どこかでそんな音が聞こえた。
ぱき。
その音は次第に増え、
ぱき。
至る所からいくつも同じ音が聞こえ始めるようになった。
「なんじゃ、この音は」
言いながら、座敷が訝しげに辺りを見渡す。
どうやら、この音の正体は、座敷の中にいる疫病神にも分からないらしい。
ぱき。
しかしこの音、
ぱき。
どこかで聞いた事があるような。
ぱき。
あー。
ぱき。
分かった。
ぱき。
あの音だ。
ぱき。
鳥が卵から生まれる際、
ぱき。
その殻を内側から突いて割る
ぱき。
あの時の音によく似て――
ぱき。ぱき。ぱき。
まるで何かに耐え切れなくなったかのように、一斉にあらゆる場所から音が同時進行で発生をし、そして――
突如、天から光が差した。
ひび割れた隙間から、黒靄を引き裂いて、一筋の光が地上に大きな円を作る。
そこから先は、まさにドミノ倒しのようだった。
一つのひびが割れると、また次のひびが割れ、更に次のひびが割れ……気が付くと、辺りは四方八方から降り注ぐ光に満ち溢れていた。
「一体、これは……」
焦る様を微塵も隠さず、座敷が視線をあちらこちらに向ける。
そんな彼女(?)とは対照的に、俺の心はむしろ平常時よりもいっそう深く落ち着いていた。
「そうか。終えたんだな、役目を」
ふいに口を突いたその呟きに、俺は自分自身に目の前の光景の意味を教えられる。
「なぜ……」
そう呟く座敷の瞳からは、一筋の涙が零れ、困惑の表情がその顔に浮かぶ。
一歩二歩と座敷に近付く。
俺の体に纏わりついていた靄は、いつの間にかきれいさっぱり、跡形もなく消えていた。
「時間切れだ」
座敷の目前に立ち、俺は終戦を中にいる何者かに告げる。
「時間切れ、だと……。どういう? お主は何を知っておる」
「座敷が持ち合わせてなくて、だけど、座敷わらしなら本来持ち合わせてないといけない能力。それが今、座敷の中に還された。つまりはそういう事だ」
「双子の座敷わらしは、二人で一人前。片一方に出来る事はもう片一方には出来ないと思うて、すっかり油断しておったわ」
そう言うと座敷は、その顔に苦笑を浮かべ、視線を天へと向けた。
「まったく。一度ならず二度までも、座敷わらしにしてやられるとは……。まっこと、腹立たしい限りよのぉ」
まるでそれが合図だったかのように、座敷の頭が突如、ガクンと垂れ、そしてすぐに、
「う……」
微かな呻き声と共に、ゆったりとした動作で持ち上がる。
「りょう、いちさん?」
おぼろげな瞳が俺を捉え、その名を呼ぶ。
聞き慣れたいつもの声。
だけど今はそれが、とても懐かしいもののように思えた。
「おはよう、座敷。そして――」




