白い世界で
三度目の感覚。
どうやら今回も無事、座敷の夢に入れたようだ。
場所はいつものように、あのお屋敷のリビング。目の前には座敷と同じくらいの背丈、格好の少女がいて、前回、前々回と同じようにまたあの台詞を言う。
「私、もうダメみたい」
この少女は消える。
これが現実に起きた事で、尚且つ、妖怪が現実に起きた事しか夢に見られないというのなら、この先の展開が変わる事はなく、変える事は出来ない。
「なんで? なんでそんな事を言うの?」
自然と体が少女に詰め寄る。
三度目ともなると、この体が勝手に動く感覚にも最早慣れつつあった。
さて、どうしたものか。
モモに言われるまま寝てみたものの、当然ながら夢に変化はなく、今のところその兆しすら見えない。
やはり、無理にでも、もう少し詳しく聞いておくんだった。
「自分の事だから、私には分かるの」
そうこうしている内に、夢は進み、否が応にも終わりへと近づく。
「……ボウ……えるか」
変わるはずのない夢に、突如変化が生まれる。
ノイズ。いや、声が聞こえた。
「……か。意識を……て」
聞き覚えのある声。男性の。強く、大きな声。
「――ッ」
返事をしようとしたが、声は出なかった。
当たり前だ。今の俺は座敷であり、×××××ではないのだから。
×××××?
名前? 俺の? 名前……。
「……さんは誰や? 名前は? 意識の奥底にあるそれを、強く頭に思い浮かべるんや」
俺の名前は――
一瞬、目の前が真っ白になった。
徐々に戻る視界。
辺りを無数の映像が覆っていた。まるで奥行の一切ない小さなディスプレイが、大量に宙に浮いているような、そんな感じだった。
よく目をこらすと、映像のいくつかには見覚えがあった。
俺の部屋。学校。住宅街。遊園地。
そのどれもが俺の見た光景であり、つまりは座敷の記憶……。
「おう。ようやっと来たか」
声に振り向くと、そこにはついさっき別れたばかりの獏の伸の姿が……。
「って、でかっ」
彼の姿を見た瞬間、まずその大きさに驚かされた。
寝る前に見た彼の大きさは精々が百二・三十センチほど。それが今はどうだ。俺の身長はおろか、二メートルすらゆうに超えていそうな風貌・体格である。
「驚いたか、ボウズ。これがわし本来の大きさ、姿や」
そう笑顔で言う獏の伸はどこか自慢気で、その様子に俺は、少し呆れを覚えた。
と、そんな事より――
「ここは?」
「夢が集まる場所。所謂、夢の心臓部みたいなもんや」
「夢の心臓部?」
なるほど。だから、こんなにも無数の記憶が、ここには集まっているのか。
「まぁ、とゆうても、本当にこれがユキの夢の心臓部かは、はっきりせへん所やけどな」
「は? いや、今、自分でここが夢の心臓部だって……」
「わしは妖怪の夢の中には入られへん」
「?」
もう訳が分からなかった。
妖怪の夢の中に入られないのなら、今こうしてここにいる事実はどう説明を付けるというのだろうか。
「ここは、この空間は厳密にゆうと、ボウズ、あんさんの夢の中や」
「えーっと……」
うん。何となく言いたい事は分かる。分かるけど、後一歩、理解に手が届きそうにない。
「あんさんは、ユキの見ている夢を同時進行で見る事が出来る。やから、あんさんの夢の中に入れば、イコール、ユキの夢の中に入ったのと同じ結果になるわけや」
「あー。うん。それで?」
聞きながら俺は、微かにし始めた頭痛を少しでも和らげようと、指先でこめかみを軽く押さえる。
「けど、そうはゆうても、今現在あんさんの見ている夢は、あくまでもあんさんの見ている夢であって、ユキの見ている夢ではあらへん」
「こだわるとこなのか、そこ」
俺からしてみれば最早、獏の伸の言う事は言葉遊びか何かのようで、ここまで来るともう、そもそも理解させる気がないのではないかという疑心すら湧いてくる。
「何ゆうてんねん。ここにこだわらなくて、どこにこだわるんやちゅうくらい、この問題は重要かつ、最大の注目点やないか」
「はー……」
獏の伸の勢いに圧され、俺は思わず後退りそうになる。
「せやなー。例えるなら、今のあんさんの状態は、映画館でユキの見ている夢ちゅう映画を見ている感じ、やろか」
「なるほど」
つまり、考えるより感じろと、そういう事だな、これは。
「ちゅうわけで、わしが案内出来るのはここまでや」
「え? いやいや、冗談だろ?」
「こない大事な時に、そんな冗談ゆうかいな」
そう言って、獏の伸が苦笑する。
「簡単な話や。ここはまだあんさんの夢の中で、ユキの夢の中やない。やから、ユキの意識にはここからやと介入出来へん。なら、どうするか。ユキの意識に介入出来るとこまで、あんさんが出向く。それしかあらへんやろ」
「だったら、アンタも一緒に」
「アホ。さっきゆうたやろ。わしは妖怪の夢の中には入られへん」
「あ……」
そう言えば、そうだった。
「今、もしユキの夢の中に入れる奴がおるとしたら、それはあんさんだけや。なんでか知らんが、あんさんとユキは心の奥の方で、霊的に繋がっとる。よっぽど波長が合ったのか、はたまた他の理由かは分からんが、これを利用しない手はない。阿坂遼一」
俺のフルネームを呼び、獏の伸が急に雰囲気を変える。
「頼む。ユキを救ってやってくれ」
「アンタもあいつの知り合いなのか?」
「あぁ。それに、子供が困っとったら、手を差し伸べる。それが年長者の務めやろ」
子供……。いや、妖怪の基準は色々とおかしいから、子供と言っても人間のそれと同じかどうかは分からないし、座敷の実年齢を聞いて俺が得する事は何もなさそうなので、ここは敢えて聞かないでおこう。
「それで、俺はどうしたらいい?」
「まずは目を瞑り」
言われるまま、俺は目を瞑る。
「ユキの気配を探るんや」
夢の中にいるためか、やけに感覚が鋭敏で、座敷の気配は探すまでもなくすぐに見つかった。
「見つけた」
「ほな、その気配に意識を集中しぃ。そんで、近付くんや。近付き方は何でもえぇ。磁石に引き寄せられる感覚でも、何かに吸い寄せられる感覚でも、あんさんのイメージしやすいもんで構へん」
座敷の気配に意識を集中させ、イメージをする。
イメージするのは、光。
全てを包み込み、全てを覆う温かい光。
そして、俺の意識は次第に、光の中に吸い込まれていった。
目を開けるとそこは、白かった。
辺り一面、見渡す限りの白。
壁も天井も床さえも定かでない空間の中に、俺は一人、ぽつねんと立っていた。
「ここは……」
座敷の夢の中、なのか……。
少なくとも、近くに獏の伸の姿はなく、そういう意味では俺の予想を否定する要素は見当たらないわけだが……。
「にしても――」
本当に何もない空間だな、ここは。
あまりにも何も無さ過ぎて、いるだけで少しずつ、不安や物寂しさが心の中に蓄積していくような気持ちになる。
とりあえず、歩こう。
遭難した時、無闇矢鱈に歩くのは良くないとされているが、何もせずここにいては、その内、頭がおかしくなってしまう。
それならばいっそ、宛ても無く歩いて気を紛らわした方が、精神面においてはダメージが少なくて済みそうである。
というわけで俺は、足を前に進める事にした。
しかし、歩けども歩けども、周りの風景は一向に変わらず、次第に俺は、時間的な感覚さえも失っていった。
どのくらい歩いたのだろう。
一キロ? 五百メートル? もしかして、数メートル?
とにかく、疲れた。
夢の中とはいえ、疲労は確実に俺の体へと溜まっており、ついに俺の足が止まる。
膝に手を付き、前方を睨む。
「何だって言うんだ、ここは」
「他人の心の中に、許可なく入り込んだのですから、これくらいの仕打ちは当然だと思うのですが」
声に驚き、振り向くと、そこには黒い着物を着た小柄な少女が立っていた。
髪は黒く長い。
年は小学生低学年くらいだろうか。
身長は百二十センチから百三十センチの間といったところ。
顔は無表情ながら、座敷によく似ていた。
しかし――
「誰だ、アンタは?」
「私は私です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「真面目に答える気はないって事か」
現状、目の前の少女が敵なのか、はたまた味方なのかは分からないが、何も進展のなかった世界に突如生まれた変化だ。これを活かさない手はない。
「いいえ。その認識は間違っています。私はただ、事実を正確にあなたに伝えただけです」
「意味がよく分からないのだが」
「意味など分からなくても良いのです。私の言葉に意味などないのですから」
うむ。これは思ったよりも厄介だぞ。
会話が成立しているようで成立していない。これでは暖簾に腕押し、糠に釘を打っているような感覚だ。
「アンタはその、アメなのか?」
座敷によく似た容姿と風貌、それが俺の頭の中に、一人の少女の名前を自然と想起させた。
「その質問に対する答えは、イエスでありノーでもあります」
「またそれか」
まともな答えが返ってくると思った俺が馬鹿だった。
「別に、からかっているわけではありません。私はアメであってアメではない存在。いわば、アメの残り香みたいなものでしょうか」
「つまり、アンタはアメ本人ではないと、そういう事なのか?」
「はい。私はアメが消滅し、ユキに彼女の力が還った時にこの空間に生まれました。そして、彼女の力が完全にユキのものとなったその時に、私はその役目を終えるのです。パソコンのダウンロード中によくウィンドウや砂時計が出ますよね? アレのようなもの、だと思って頂ければ、おおよそ間違ってないかと」
妖怪の口から、パソコンやらダウンロードやらというワードが連発するのには違和感を覚えないでもないが、何となく言わんとする事のニュアンスは伝わった。
「で、その砂時計さんが俺に何の用だ?」
いきなり姿を現したという事は、俺に何らかの用があると考える方が自然だろう。
「ユキの元に案内します」
「へ?」
いや、それは俺にとっては渡りに船で大いに助かるのだが、あまりにこちらに都合よく話が進み過ぎると、疑いたくなるのが人の業というか何というか……。
「付いて来て下さい」
言うが早いか、俺の返事を待たずに、少女はどこかへと歩き出してしまう。
「え? ちょっと……」
呼び止めるものの、少女の足は止まりそうにない。
仕方ない、付いていくか。
抗う事を諦め、俺は置いて行かれまいと、足早に少女の後を追った。
「なぁ」
「なんでしょう?」
先程の呼び止めとは違い、今度は普通に反応が返ってきた。
どうやら少女に、無視する意図はないらしい。
「アメはなんで、疫病神から逃げなかったんだ?」
それは、端から答えを期待した質問ではなかった。
彼女はアメの残り香でありアメそのものではない。答えが返ってくる可能性は、五分五分かそれ以下だろう。
けれど、答えが返ってくる可能性は確かにあったし、何より、会話もなく黙々と歩く状況というのは存外辛いものがある。しかも相手は、初対面の気が置ける少女。これで気まずさを感じないと言ったらさすがに嘘になる。
「妖怪屋敷と周りから呼ばれていたあのお屋敷には、実際にたくさんの妖怪が住んでいました」
視線は前方に向けたまま、少女は俺の質問への答えを、ぽつりぽつりと語り出した。
「あのお屋敷の主人は、所謂、視える人で、自分の元に集まった妖怪達をまるで我が子のように可愛がっていました。そして、妖怪の方も、そんな主人を親のように慕っていました。両者は相思相愛。本当にいい関係をずっと築いていたのです」
その中に、双子の座敷わらしもいたと、そういう事か。
「アメは守りたかったのでしょう。主人を、妖怪達を、あの場所を。そして、その代償として彼女は支払ったのです。自らの命を」
これで話はお仕舞いとばかりに、少女が立ち止まり、振り返る。
「着きました」
「着いたって、何もないじゃないか」
少女の言葉に辺りを見渡すものの、相変わらず周囲にはただ白い空間が広がるだけで、特に気になるものや変わったものは何もなかった。
「遼一さん、あの子の事をお願いします」
「え?」
その瞬間、少女の顔が今までとは打って変わって、優しげな微笑へと変わる。
「甘えん坊で寂しがり屋な困った子ですが、決して悪い子ではないので、出来るだけ長く一緒にいてあげて下さい」
「何を言って――」
突如、視界が歪む。
少女の姿が、世界が、ぐにゃりと形を変えた。
「最後にあなたに会えて良かった。これで安心して消えて――」
いける。そう最後まで言い終えるより先に、世界がその色を変える。
黒。見渡す限りの黒い世界。
一変したその世界の片隅に、少女は一人で存在していた。
体育座りで、こちらに背を向けて座る少女に俺は、近付きながら優しく声を掛ける。
「座敷」
少女の背中がびくりと震えた。




