タイヤ
昼休み。教室で日高と一緒に昼食を取り終えた後、俺はトイレと称し、教室を一人で抜け出した。そしてそのまま、人気のない場所に移動する。
場所はあまり使われない方の階段。学食や昇降口との位置関係が絶妙に悪く、こちら側の階段を使う物好きはほとんどいなかった。
実際、今も付近に俺以外の人間の気配は一切なく、辺りはシーンと静まり返っていた。
「座敷、いるか?」
小声で、虚空に呼び掛ける。
程なくして、座敷が俺の前に姿を現す。顔色はやはり、あまり良くないように思えた。
「なんでしょう?」
「調子はどうだ?」
「良くはないですね。とはいえ、凄く悪いというわけでもありません」
「そうか」
座敷の言葉と雰囲気から察するに、今のところ、とりあえずは安心しても良さそうだ。
「それより私は、遼一さんと日高さんのイチャつく様子を見て、テンションが上がりっぱなしで困っています」
「うるさいよ」
両の拳を体の前で握り、途端に鼻息を荒くする座敷を、そう短く切り捨てる。
まぁ、そんなジョークが言える内は、まだまだ大丈夫だろう。
「あっちの方はどうなんだ?」
「そっちも現状維持、朝から良くも悪くもなってないといったところですね」
あっちそっちとは、もちろん〝幸福力〟の話である。
もしかしたら座敷は、現在、穴の空いたタイヤのような状態なのかもしれない。
タイヤに穴が空いていれば、そこから空気が漏れるので幾ら空気を入れても満タンにはならず、とはいえ穴がそれほど大きくなければ、大事に至らない。無理をすれば、そのまま使用し続ける事も可能だろう。しかし、そんなタイヤを使用し続ければ、いつかはガタが来るし、タイヤ自身の寿命も想定されたものよりも早くなくなるはずだ。だとしたら、そんなタイヤはすぐにでも修理に出すべきだろう。
「そういえば、妖怪には医者、みたいなのはいないのか?」
ふいに浮かんだ疑問を、早速、座敷にぶつけてみる。
「さぁー。もしかしたら、この世界のどこかにはいるのかもしれませんが、少なくとも私は、会った事も聞いた事もありません」
「そっか……」
もし医者のような存在が妖怪にもいるのなら、そいつに座敷を診てもらえば、少しは問題解決の助けになると思ったのだが、そう上手くはいかないか。
「遼一さんが私の事を心配して下さるのはとても嬉しいですが、それより今は、日高さんの方に気を割いてあげて下さいね。釣った魚に餌をやらない殿方は、女性の敵、ですから」
女性の敵……。そこまでなのか。
「まぁ俺も、お前の意見には概ね賛成だが、拾った猫に餌をやらない飼い主も、俺は同じくらい最低だと思うんだ」
正確には、その猫は俺が自ら拾ってきたのではなく、勝手に人ン家の押し入れに潜り込んでいただけなのだが。
「私は猫ですか? 猫は魚を食べますよ?」
「ウチの猫は、行儀がいいんだ」
「それは暗に、行儀良くしておけというお達しのようなものですか?」
「いや、事実を口にしただけだよ」
まるで、馬鹿し合いだな。それに付き合う俺も大概だが。
「はぁー。分かりました。精々、首輪を付けられないよう、気を付けます」
座敷は溜息混じりにそう言うと、俺の目の前から姿を消した。
体調が悪いからだろうか、座敷は大分ナイーブになっているようだ。彼女の扱いには、これからよりいっそうの注意が必要だな。
「行くか」
一人呟き、教室へ向かう。
教室に戻ると、日高が自分の席で女子数人に囲まれ、質問責めにあっていた。その内容は、おそらく俺との事だろう。
一瞬の躊躇の後、俺はゆっくりとそこに近付いていく。
「あっ、阿坂君」
近くにやってきた俺を見て日高が、安堵の表情をその顔に浮かべる。
まぁ、そりゃ、一人で複数人から集中砲火を受けたら、誰でも困るし戸惑うだろう。
「どうしたの?」
聞くまでもなく現在の状況は把握済みだったが、周りへの牽制の意味も込めて、敢えてそう尋ねる。
「もう、阿坂君でいいや」
そんな俺の思惑とは裏腹に、女子達の追及は止む様子がなかった。
「ねぇ、桜子とはどういう経緯で付き合うようになったの? 桜子は煙に巻くばっかで、全然答えてくれようとしなくてさ」
「で、俺?」
「そう。彼女がダメなら、彼氏にってね」
日高に視線を向ける。無言の頷きが返ってきた。俺に任せるという事だろう。
「うわぁ。今、アイコンタクトしたよ」
「凄い。恋人っぽい」
「そこ、騒がないの。話してくれる事も、話してくれなくなっちゃうでしょ」
興奮する二人を、中央に立つ飯田さんが落ち着いて制する。
どうやら彼女が、この三人の中では、まとめ役のポジションを担っているらしい。
「俺から告白して、日高にオッケーもらった感じかな」
本当は、もっと色々な遣り取りがあったのだが、この場でそこまで詳しく説明する必要はないだろう。
「え? なんて? なんて?」
「普通に、好きです、付き合って下さいって」
「「「きゃー」」」
もう、何が何だか……。
「場所は? 場所はどこ? どこで告白したの?」
「遊園地。遊園地の観覧車の中」
「え? でも、付き合ってないのに遊園地って、誘いにくくない?」
「それは――」
「はいはい」
女子達の質問に答えようとした俺の言葉を、手を叩きながらやってきた但馬が遮る。
「何よ、美穂。ここからがいいとこなのに」
「もう、ある程度聞きたい事は聞いたでしょ。後は、そっとしておいてあげなさい」
「うーん……。じゃあ、今日はこの辺で撤収するか」
「二人共、邪魔してごめんね」
「お幸せにー」
三者三様の言葉を残し、女子三人組が俺達の元を離れていく。
「美穂、ありがとう」
「助かったよ」
「どういたしまして」
俺達が礼の言葉を次々と告げる中、それをクールに受け止め、去って行く但馬。
その姿は、こう言っては何だか、凄い男前だった。




