赤ん坊の生んだ屍体
朦朧とする頭がクリアになる感覚を楽しんでいた自分は、体の感覚がおかしいことに気がついた。いや、感覚がないわけじゃないしましてや埋まっているわけでもない、ただ妙に鈍い。まるで錆びた球関節の人形を動かすような感覚だ。まぶたも重たく、開けることができない。だが、それについては開けることができたとしてもそうはしなかっただろう。誰かが自分の体にはお湯をかけていて、顔にもかかっていたから。
赤ん坊として生まれてくる感覚とはこういうものか、貴重な体験をしたものだ。少しずつ鋭くなっていく五感に安心感を覚えながらぼやけていた聴覚が戻り始めていることに気がついた。飛行機が降下して、耳のぼやける感覚が戻る様な、そんな感覚だ。もっとも、飛行機には一度しか乗ったことはないし、二度目は捜査局に連行されて乗り損ねたが。
「フォルア、ナリンド!」
「ダ、ナリアニ」
聞こえてくるのは規則性があるようで不規則な、いや、やはり規則的な言葉だった。思いもしなかったが、この世界の言葉は地球のとは違うようだ。そうするとつまりは自分はこの世界の言葉を覚えなければいけないこととなり、学校の英語の授業では大抵最低評価を受けていた自分は不安になった。
目の感覚もはっきりとしてきた自分は目をゆっくりと開けれるまで開けると、写り込んだのは、こちらを心配そうに見る二十後半ではあろう若い温厚そうな細身の男と、五十は降らないであろう顔にシワが目立つ、自分を抱えたおばあさんだった。目を開くところを見ると男のほうは安心した顔をして、婆さんは驚いたように目を見開いた、とはいっても半目だが。
「シャー?」だが、おばあさんは顔に笑みを浮かべ、得意げに男のほうへ振り返った。心配そうな声をあげていた男は優しい眼差しで自分の頭を撫でた。きっとこの男が自分の父親なのだろう。頭を撫でられる感覚なんて、大人になってからは経験することがなかったが、やはりというか安心するものだ。
窓から光は差し込んでこないし、ロウソクが部屋をぼんやりと照らしていることから夜なのだろう。その部屋は、簡素な作りで置いてあるものも少なかった。そして、床はまるでたった今掃除したかのように水で濡れていた。だが、よく見ると床は掃除をした時に濡れたというわけではなく、自分のいる桶のなかにある温かい水がこぼれたものだとわかった。
何はともあれ、自分は生まれてくることができた。どの時代に生まれるかわからなかった自分はそれが気になっていた。出産における死亡率が極端に低かった現代では想像もできないが、七割の新生児が死亡していた時代もあった。だからこそ、自分が正しく健康に生まれてくるかは心配だった。父親のほっとした顔を見るに、自分は異形ということもない、いたって普通の赤ん坊なのだろう。現に父親の安心しきった顔はだらしないものになっていた。
「ダーチャ!」若い男の子の声が部屋に鳴り響くと男は声のするほうに振り返った、顔を青くしながら。
自分も振り返ると、そこには出産後と思われる若い女性と、それを見る小さな男の子が父親を呼んでいた。若い女性は息を荒げて苦しそうな、今にも嘔吐しそうな顔でぐったりとしていた。その綺麗な顔には汗が浮かんでいて、長い金髪は乱れていた。右の男の子はその女性、つまりは自分の母親の手をしっかりと子供にしては大きいごつごつとした両手で握って、心配そうな目でオロオロしていた。
ばあさんは自分を父親に預け、その太った体からは想像もできない速さで母親にかけよった。自分を任せられた父は男の子のようにオロオロとしながらも、同じように駆け寄った。もちろん赤ん坊を揺らさないように。
ばあさんが母親に何かを聞いたり、胸に耳を当てたりして、無事を確かめているようだったが、一通り確認が終わると、もともとシワのある眉間にさらにシワを寄せた。父親は困惑したように何か聞いているが、ばあさんは答えない。
ふと、母親が目を開くと、か細い声で一言、「スーライ」とつぶやいた。それに気がついた一同は、自分を母親の元へと手渡した。小さな赤ん坊を手に抱いたその女性は、自分を見つめてもう一度、「スーライ」とか細い声を出した。瞳には涙を浮かべて、何かを繰り返し、つぶやいていた。なんとなくだが、それが「ごめんね、ごめんね」と言っていることがわかった。そんな女性に微笑みをかけると、その人は満足したように目を閉じた。
騒々しかった部屋には一時の沈黙が訪れた。古ぼけたような部屋には自分、婆さん、父親、母親、男の子の五人が身動きをするのもはばかれるような、雰囲気の中、息を飲んでいた。
沈黙を破ったのは、男の子。母親の片手を握っていた彼は一言「マーチャ」とつぶやくと、瞳に涙を浮かべ、大きな声で泣き出した。その泣き声につられて、父親も瞳に大粒の涙を流した。「マリアン……」とつぶやいた彼はそのまま床に崩れ落ちて、泣き出してしまった。婆さんは悲しそうな顔で母親の顔と自分の顔を見つめていた。
自分といえば母親に微笑みかけているぐらいしかすることもなかった。悲しい空気のなか、場違いな行動かもしれないが、いきなり赤ん坊のように泣き出すことはできなかった。なんでかはわからないが、この場で泣いたふりをするのは、家族に対する冒涜で、自分を産んでくれたものに対する冒涜で、死者への冒涜に感じられたからだ。
その日、自分は生を受けた。そして、その世界での始めての感情は罪悪感だった。自分は、間接的でありながら、生みの親を殺したも等しいのではないか、そう思ってしまったのだ。
出産騒ぎの終わった家族には一時の平穏が訪れた。だが、あれから家族の雰囲気というのは最悪だ。父親は自分をよくしてくれているが、男の子、この場合自分の兄にあたるだろう彼は、どうにも自分のことをにらみつけたりしてくる。きっと自分のことを母の仇だと思っているのだろう。自分も対してそれを否定するつもりもない。妊娠していなかったらだったり、運が良かったらだったり、言い訳は色々できるが、実際に自分は生まれてきており、生まれた結果自分の母が死んだなら、それはある程度は自分の罪であり、贖罪にあたいする罪なのかもしれない。
時々家にきて掃除をしにくるあの自分の出産を手伝ってくれたばあさんは自分に大した思いもないようで、気にせず自分の世話を慣れた手つきでしてくれる。もっとも、全く泣かない自分に気味悪さを感じているようだが。だが、わざわざ泣くのも疲れるし、何よりそんなことをすると父親に悪い。なにせ、母親がいない今、彼が家事を担当しているようで、大変そうにしている。わざわざ仕事を増やすこともないだろう。
さて、生を受けてから三ヶ月、大体、言葉がわかってきた。普通ならだいぶ早い言語取得なのだろうが、三ヶ月も言葉を聞くことに集中すれば、大体何を言いたいのかわかってくる。父を喜ばせるためにパパとでも言ってあげようかと思ったが、やめた。三ヶ月での言語の取得というのは乳児にしては早すぎる。普通なら一年から二年かかる中、その四分の一の時間で話し始めたとなるとそれは、神童でも、天才でもなく、化け物を見るような目で見られるだろう。それに、喉もまだ完全に発達していないようで、誰もいない中話そうとしたが、ある程度片言になってしまった。
さて、この世界についてもっと知りたいと思っていた。みたところ中世ヨーロッパのようだが、聞いたこともない言語を話しているところをみると、常識なんかも違うと見ていいだろう。そうすると自分が寝ている寝室にある本棚の本を読めばいいのだろうが、なにせ筋力が足りてない、はいはいをしようにも体が思うように動かない。できたとしても本のある高さに届かないのだから意味はないのだが。
ジュニアはどこにいるのだろうか、てっきり頭の中で話しかけてくるものと思っていたが。頭の中で話すようにしても反応はないあたり、ジュニアもこっちの世界に体を持っているというのが正解だろう。だとすれば向こうからのコンタクトを待つのがいいだろう。
さて、そんなわけで、することもなく暇を持て余していたある日、いつものごとく兄が睨みつけてきた、名前はガンダ。十二歳でありながら、がっしりした体格をしており、童顔とミスマッチしていてとてもアンバランスな印象をうける。剣を母から習っていたらしく、剣術はお得意のもののようだ。だがその母、マリアンは出産時に亡くなった。敬愛した人の死はまだガンダには受け入れられないようだ。
そんなガンダだが、今日は睨みつけるだけではなかった。珍しくも、自分に話しかけてきた。
「お前は気楽でいいよね、今、お父さんは研究だけじゃなくて家事もしなきゃいけないんだ。そんな忙しい中お前にも構わなきゃいけない」その声は皮肉に満ちていた。顔も眉間にシワが寄っていて、視線だけで普通の赤ん坊なら泣き出してしまうだろう。
「昔はご飯も美味しかったんだ、お母さんのご飯はあたたかくて、美味しくて……今は俺が作ってるから……」そう言い終わる前にガンダの目には涙が浮かんでいた。ひつ粒の小さな涙が彼の右頬をつたってベッドに落ちる。こちらを見下げる顔は悔しそうで、くしゃくしゃになってしまいそうだ。
「なんで……なんでお前が生まれてこなきゃいけなかったんだ……お前さえ生まれてこなければ!」そう言い終わるなり、ガンダはゆっくりとその硬い、冷たい両手を自分に向けた。その両手は確実に自分の首を捉えていた。どうすればいい、何もしなければ確実に両手が首回りに張り付き、圧力をかけるだろう。ジュニアが言っていた通り、死んだとしてもまた生まれ変わるんだろうが、だとしても、死を経験したくはない。声を出すべきか、そう考えていると彼の手が首に張り付いた。もうだめか、と思い目をぎゅっとつむると、首の圧迫感は消えた。
「お前、泣かないんだ……」そう言うとガンダは体の力を抜くように自分の隣に腰掛けた。
「わかってるんだよ、お母さんの死は誰のせいでもないって。でも、なんで死んじゃう必要があったのか考えるとお前のことを考えちゃうんだ」そう言って涙を流すガンダは辛そうで、自分が赤ん坊に八つ当たりした罪悪感か、それとも行き場のない怒りかに押しつぶされてしまいそうだった。自分はそんなガンダの右手を小さな手でぎゅっと、力の限り弱々しく握ることしかできなかった。
「ガンダ?なにをしているんだ」そういって部屋に入ってきたのは自分とガンダの父親、気弱そうな細身の男、サイエルだった。
「なんでもない」そういってガンダはベッドを立つと足早に部屋から出て行ってしまった。そして、ガンダに変わりサイエルがベッドに腰掛けた。
「すまないねスーライ」スーライ、それがこの世界での新しい名前、マリアンとサイエルの二人からもらった二つ目の名前。
「まだガンダも整理がつかないみたいだ。きっとまだ母のことを諦めきれないんだろう。それにあいつに構ってやれてなかったしな。嫉妬でもあるんだろう」そういうとサイエルは自分の頭を撫でた。
「もう日も暮れる、一つおとぎ話をしてやろう」窓を見ると、日も落ちて差し込む光がオレンジ色をしている。そんな中、サイエルのしたおとぎ話は悲しいお話だった。とある魔法使いの男が剣士の女に恋をしたという物、気の合った二人は一緒に旅に出て世界を冒険する。冒険中に訪れた小さな町に定住して二人だけの家を買い、子供を作った。だが、二人目の出産の際に女は死んでしまった。その町に残された大きな家に残ったのは父親と男の子と小さな赤ん坊の三人だけ、そんな悲しくてリアリスティックな、冒険談。その話をするサイエルの顔は悲しげだった。
さて、それからという物の、ガンダは自分を睨みつけてくることもなくなった。自分なりに母の死を受け入れようとしているのだろう。一度は首に向けられた手は、時折頭を撫でるようになったし、いままでサイエルに言われても、しようともしなかった赤ん坊の自分の世話をある程度するようになった。語りかけるように聞かせてくれたが、ガンダは自分のことを母親の残した物と思うようにしたらしい。十二歳という若さでありながら精神的にこれほどまで成長できるのは大した物だろう。
それから月日は流れて、自分は一歳を迎えた。サイエルも、ガンダもまるで自分のことのように祝ってくれた。食事もその日は豪勢で、食卓にはいつもの味の薄いスープだけじゃなく、大きな鳥丸焼きが並んだ、もちろん自分は全部食べられるわけではないが、一口だけ、小さく切り分けられた物をたべさせてもらった。味付けは薄く塩がふってあって、パサパサとしていたが、美味しい物だった。
「もう一歳か、時が経つのは早いな」サイエルは自慢げである
「そうだね、随分と大きくなったよね、昔はこんなにちっちゃかったのに」
「うん、成長が早いのはいいことだ」
「よく食べるよね、好き嫌いしないし」
「ああ、そのうちお前のような背格好になるかもな、ガンダ」
「そうすると僕が剣を教えることになるのかな?」
「それもいいんじゃないかな、だがちゃんと頭の方も育って欲しいな」うぐ、といった音が聞こえてくるような顔をしたガンダはサイエルから目を逸らした。「体を動かすのはいいことだけど、ちゃんと頭も使わないとダメだよ」
「わかってるよ、お父さん」そういうガンダは勉強が苦手なようだ。いつもサイエルが教えようとしているが、いつも眠たそうにしている。
「まぁ、とりあえず食べようじゃないか」
「うん!」
祝い事ともあって、兄も父も二人とも嬉しそうにしていた。いつもより食べるのが早い。そして食事をし終わったサイエルは真面目な顔つきをした。それに気がついたガンダも、思い出したよう何かを取りに地下の方へむかった。
「さて、今日はスーライの誕生日であり、そして神への祈りを捧げる日でもある。君の安全を祈ってもらうんだ……といってもまだわからないか」そういって、苦笑いを貼り付けたような顔はいつものように気弱には見えなかった。
「取ってきたよ、お父さん」そういってガンダは戻って来た、手にトロフィーにも似たようなオブジェを持って。台は木でできており、古めかしくて、いかにもというような感じだった。だが、台の上に乗っているオブジェはアルファベットのOの字をかたどっている。金属でできているそのオブジェは所々錆びていてアンティークさを、かもし出していた。
そのオブジェをガンダから受け取ったサイエルは、それをテーブルの中央に置くと、その目の前に、自分を座らせた。そういって椅子に座るとガンダにも座るように促した。ガンダは自分の父親の隣に座る。
「全知全能の神よ、我が子に親愛なるご加護を」そういうとサイエルは考え込むように下を向いた。神への祈りを捧げているのだろう。それを見たガンダも同じように下を向いた。しばらくそうしている二人を見つめていると。サイエルが、「これでよし、神は君を守ってくれるだろう、スーライ」といってオブジェを片付け始めた。
「よかったなスーライ」だがガンダは、満足げなサイエルと違って、疑問のあるような顔をしていた。「でもお父さん、全知全能の神なんているのかな?」
「ガンダ、そういうのは思っても口にするものじゃないぞ」
「でも、もし全知全能なら神はお母さんを生かすこともできたんじゃないかな?」
「もう一年たっているんだぞ、ガンダ」
「でも……そうじゃないかな?全知全能ならなんだってできるんじゃないの?」はぁ、とため息をついたサイエルは諭すように語り始めた
「いいか?全知全能の神はその名との通り全知全能なんだ。だが、それは力があるというだけで、その力をいつも我々のために使ってくださるわけじゃない。我々は自分の問題は自分で解決しなければならない」
「だったら、なんで祈るの?」
「……自分たちでなんともならない問題、そんな問題を解決してくださるようにだよ」
「お母さんの死は……自分たちで解決できたことだっていうの?」
「……人の死はそう簡単に捻じ曲げていい運命じゃないんだ、神であってもね」そういったサイエルは真面目な顔を少し崩して少しばかりうつ向いた。そのままオブジェを地下に仕舞いにいって、ガンダをその場に残した。残されたガンダは納得してない様で、憂鬱な顔を自分に向けていた。
「捻じ曲げてほしかったな」そう呟いて自分をテーブルから下ろした。抱きかかえられたまま寝室へと向かうガンダは悲しさともどかしさの混じったようなため息をついた。
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