それは寝ていないし、生きてもいない
無い。そこにあるべき視界が、音が、感覚が、全くと言っていいほど無かった。眼を開けようとしても何も視界には入ってこない。耳を澄ましても何も聞こえてこない。体を動かそうとしても何も動かない。気分としては、土の中に生きたまま埋められた気分だ。いや、それよりひどい。なんせ、まるで体が存在していないみたいだったから。
「なんだ? これは?」そう思った。思った、というのはつまり、声を出そうとしても喉が存在していないようなので、頭の中でぽつりと呟いた。実際、覚えがない。どうしてこんなことになっているかとか、誰がこんなことをしたとか。ただ、分かることは自分の感覚が完全にシャットダウンされていて、とても疲れているということだ。
まるで昏睡から覚めた気分だ。そして頭がぼんやりする。まるで思考することをしばらくしていなかったかのようだ。それは寝起きのようでもあるし、昏睡から目を覚ました直後のようでもある。物を考えるたびに倦怠感に襲われる。
だが、自分は考えなくてはならない。何があったのか? それを自分は知る必要があるのだろう。どんな状況であれ、これは異常だ。目も見えない、音を聞けない、触った感覚がない、声を出せない。これじゃぁ、屍体とかわらない。だが、ある程度予想はつく
「まぁ多分俺がジュニアにしたことと同じことをされた、と考えるのが自然かな」対話型人工知能の技術に関連する違法行為、人格のコピーだ。つまりは、脳に埋め込んだマイクロチップに人格のコピーを生成。そして、データとなった人をコンピュータに中に閉じ込めて、人工知能のように使役する技術。その思考はただの人工知能よりも数倍自然で、人間らしい……というより人間そのものだった。だが、考案された当時、人権団体の猛反発によりこの技術は禁止された。データとはいえ元々人間だった物を人工知能と同じように使役する。それは、奴隷と変わらないというのが団体の主張だった。ともかく、俺は誰かの奴隷に成り下がったというわけだろう。
「はぁ……こりゃ精神的にきついぞ……」禁止されるのもうなずける。コピーの人格は、マイク、スピーカー、カメラなどの機器を取り付けてもらわなければこの何も見ることができないし、聞くこともできない。生きていて死んでいるような感覚。そして、機器を取り付けてもらったとしても、人工知能としての仕事を全うしないといけない。しなければユーザーに削除されるだけだ。それこそ人工知能としての死と言えるだろう。
「そう考えるとジュニアには悪いことをした」ジュニアとは、彼が人工知能になる前に所有していた人工知能だ、しかも自分の人格をコピーして埋め込んだのだ。
ちなみに、自分をコピーするという行為はギャンブルに近い。コピーする直前まで自分はどちら側になるかわからない。自分の人格を頭に埋め込んだマイクロチップに定着させる段階では、まだ人間としての感覚がある。チップを剥離させる段階になって初めて。自我が二つに分かれる。その時に自分がどちらに行くかは運のようなものだろう。自分は一回目の剥離では運が良かったが二回目では運がなかったというわけだ。
ジュニアは一回目の運のなかった方だ。そして、自分の大親友でもある。ジュニアは俺に従順だった。他のコピー人格に良くある、反発的な性格にはならなかった。それもそのはず、俺は剥離する前に覚悟をしていた。もし運の悪い方になったらいい方に従おうと。そして、もしいい方だったら悪かった方には、それ相応の待遇で迎えてやろうと。そのおかげもあってか、ジュニアは自分のベストパートナーといってもいいほどの奴になった。まぁお互いの事をよくわかってる、というよりお互いが自分自身だからだ。
そんな大親友のジュニアにこんな感覚を味わわせていたと思うと心が痛む。「金をケチらずにカメラを買ってやれば良かった……」今となっては遅すぎる後悔だろう、きっと彼と会う事はないのだろうから。
いや、彼だけではない、もうきっと誰と会う事もないのではないか。それはつまりこの孤独を死ぬ事も許されずこれからずっと耐えなければいけないという事。そんな事は許されない、いや俺が許さない。とはいえ、どうにもしようががないという事も事実。だが、それでも、足掻かずにはいられなかった。自分の悪い癖。諦めの悪さだ。
「いつものようにどうにかしよう」そう決心して、過去に思考の焦点を当てた。今、自分がこうなるまでの経緯を思いだして、この状況を打破する算段を立てる。それが彼の思いついた、とりあえずの足掻きだった。