肖像画の唇
「お帰り。」
会社から帰った俺を出迎えてくれるのは妻だけになってしまった。広くはないが、妻と、もう一人誰かがいて丁度良い玄関だと思った。
別に寂しくはない。だが、物悲しくはある。
「なあ、犬、でも飼おうか。」
シャワーでスッキリさせた頭でもう一度考え直して選んだ言葉だった。
平子、妻は動物好きで、絢子が小学生の頃から何か飼おうとせがんできた。だからこれもまた相談というつもりで言った言葉でもなかった。
「どうしたの、いきなり。…そりゃあ、私だって嬉しいけど。」
平子は彼女を見ると、「別に、いいんじゃない?」とどっち付かずの答えが返ってきた。まあ、予想した通りで腹立たしいと思うこともなかった。
それにいざ飼ったところで、最終的には俺よりも二人に懐いてしまうことも分かっていた。それでもこれは、俺なりのちょっとした意趣返しのつもりだった。
とりあえずは、それで納得させることにしたのだ。そうして週末に新しい『家族』が増えることになった。
この件で一番喜んだのはやはり妻だった。パソコンで大きいペットショップを探しながら嬉々とする姿は、オモチャを買ってもらえる子どものようだ。
結婚する前は決まって動物園にデートに行っていたし、今も時々、出張の多い友人のペットを進んで預かろうとするくらいだ。
「大地さん、ありがとう!」
別の意図があったにせよ、ここまで喜ぶ妻の顔を見るのは気分が良かった。
「そのうち、デートにでもいこうか?」
妻は固まり、俺の顔を覗き込んだ。
「…浮気、じゃないよね?」
思わず口走ってしまったとはいえ、想像だにしていなかった答えが返ってきて笑ってしまった。
「違うよ。散歩がてらどこかに遠出してもいいんじゃないかと思っただけだ。」
妻は思ったことをすぐ顔に出すタイプで、俺の言葉に心底ホッとしたと同時に頬を赤く染め、今さら気恥ずかしいという顔をつくった。それが改めて可愛いと思えた。
下調べのない覚悟はないに等しいと痛感した。10万以上の値札を見た時は思わず「やっぱり止めよう。」と溢してしまいそうになったが、それで家計がどうこうなるような環境でもないと、なんとか思い止まった。
自分から提案したことであり、何よりそれで傷つくのは妻なのだから。
だが、謙虚な妻は上目遣いになり、「今さらだけど、本当にいいの?」と許可を求めてくる。
「その仕草は反則だろう。」俺はいつか使うであろう皮肉の一つとしてこの言葉を大事にしまっておくことにした。
最終的に、首輪やら餌やらで25万が飛んでいった。もし病気になってしまったら、数十万かかるかもしれないことも覚悟するように警告された。
これを手痛い出費と捉えるかどうかは、今後の俺にかかっている。俺は改めて『家族』を増やす決意を固めた。
「か、カワイイじゃん。」
リビングの中央に置いたキャリーから、おずおずと出てきた小さな『家族』の顔を見て彼女は思わず漏らした。その顔は久しく見ていなかった『娘』の顔をしていた。
湧き上がる感情を噛み殺し、『家族』と彼女のファーストコンタクトは妻に託すことにした。
「でも、どうしてハスキーなの?大型だし、大変なんじゃない?」
まだ手の平にも乗ってしまいそうな仔犬に、シベリアンハスキーという犬種の威厳は見当たらない。あどけなく、産まれたばかりの娘を見ているような感覚になった。
「天使みたいだな。」と求められて返した感想は妻を失笑させ、恥ずかしい思いをした。だが、口から出任せでもなかった。ケージの中のつぶらな蒼い瞳を見た時、家に迎え入れるなら「この子がいい。」と思ったのだ。
だが一応、大型犬というハンデを加味できるよう、衝動的な妻にブレーキをかけるよう仕向けた。結果は変わらなかったわけだが。
「私が無理を言って頼んだの。昔から好きだったから。」
「へえ、知らなかった。で、どの辺が?」
「もともと狼が好きだったの。普段は表に出さない危なっかしさを持っていそうなところが。」
「あ、でもそれは私も分かるかも。刃物を無駄にチラつかせないヤクザみたいな。乱暴なところを隠してるのが逆に凛々しく見えるっていうか、なんていうか。」
おいおい、なんて危ない願望なんだ。
二人はおおいに盛り上がり、新しい『家族』は誰からの反対を受けることもなく迎え入れられた。