肖像画の鼻
絢子は人混みに紛れることを好んだ。独りになること、自分を見詰めてしまうような状況に陥ることを嫌った。
人混みに背中を押され、流されるように勤め、人の目を引くような行動はすまいと心掛けている節があった。
しかし彼女の想いとは裏腹に、画力と、それに連なる諸々の感性は日々向上されている。それは隠しきれない事実。人は、自分を騙すことはできても、偽ることはできないのだと俺は自分の娘を観察して悟った。
手垢の付いたドアノブを捻れば、そこには500枚を下らない描き溜めた彼女の絵があった。
その8割ほどが俺の肖像画。初めはどれも同じように見えたそれも、100枚を越えた辺りから、それぞれに趣向の違う"主題"のようなものが込められているのだと気付けるようになった。
デッサンを含めれば一万枚以上も繰り返し描いた顔。もはや空でも描けるはずなのに、頑なにモデルを求めてくるのはそういう理由があってのことなのだろうが、ここまで高められた才能を人生に活かそうとしないという点が、俺にはどうしても理解できない。
そうなると、ここにある幾百の同一人物の画が、思い出を切り取ったアルバムではなく、いつ命を落とすかもしれない病人の遺影の山のように見えてしまい、気味が悪くなる。
俺は昔ほどこのドアノブに触れなくなった。
ヨーロッパ辺りに留学させるつもりだった。彼女なら外国の専門課程でも合格、飛び級は間違いないと俺たちは確信していたのだ。より早く、彼女を世界で活躍させてやることができればと思っていた。
しかし先日、彼女は俺たちの目論みの全てを否定した。彼女は自分から平凡の中へと埋没し、歴史に名を残すという限られたチャンスを放棄すると宣言したのだった。
彼女よりも長く生き、実際に何度となく無駄な時間を費やしてしまった経験のある俺たちから見ればそれは、子どもにありがちな思い付きの言動にしか見えない。
だとするならば、実の親がそれを黙って見ていられるはずがないだろう。
「あの子も、今は反抗したい時期なのかもしれないじゃない。もう少し、様子を見てあげましょうよ。」
何に対しても寛容な妻を見ていて、苛立つ時もある。しかし、俺は妻を愛しているし、その子どもも同じくらいに愛している。愛さなきゃならない。
だが、妻と娘で同じ愛し方は通用しないことを俺は知らなかった。それが、父子の間に『他人』の関係を生み出してしまうらしいことも。
「もう少し右を向いてくれる?」
週末、平日よりも早目に帰宅する俺は彼女のモデルになる。以前はそれが堪らなく幸福な時間であった。しかし今やそれは習慣を通り越し、強制的な行事になりつつあった。
「喉渇いた?」
「いいや、大丈夫だ。」
彼女は俺の顔色を懸命に伺っている。
普段、俺のことを毛嫌いする彼女も、この時間だけは俺を大切なモデルとして扱う。おそらくは無意識なのだろう。お互いの感情が、筆にもモデルにも影響するのだということを無意識に覚えたのだ。
「今日はもう止めとく?」
俺は催促するように首を振る。
彼女は困惑した表情を隠し、改めて筆を動かし始めた。
この才能を除外して客観的に見た彼女は、実に平々凡々とした女子だった。対して、実の子どもに過度な期待をする俺自身も充分に平凡な父親ではないのか?
俺は送られてきた推薦状を全てシュレッダーにかけた。
カンバスの前に座る彼女は、実に効果的に俺を誘惑しにかかってくる。だが一度カンバスから離れれば、彼女はまさに掌を返すように態度を一変させるのだ。それに慣れてしまった頃、俺は彼女に同じ感情を抱き始めていた。これで家族が成り立つというのだから、俺の努力がいかに虚しいものだったか再認識させられる。
15歳、もはや家族会議など開かれる余地もなく、娘は普通科しかない公立高校に進学した。