肖像画の左目
そして、小学校を卒業するまでには50以上のコンクールに応募し、そのほぼ全てにおいて最高評価を獲得。すると、『神童』の次についた呼び名は『ファザコン天才少女』と好ましくないものに変わってしまっていた。
あげくネット上では、娘を利用して社会露出を目論 む狡猾な父親などと俺まで非難を浴びるようになっていた。原因は明確だ。テレビや雑誌の取材の時も、コンクールの受賞の時も、個展の時でさえ、その8割は俺の肖像画だったのだ。
妻や友人からの忠告はあった。だが、俺は舞い上がっていたし、世間もそれを持ち上げる素振りを見せていたから、娘という個人を守ることなどスッカリ頭から抜けてしまっていた。
しかしこの結果を受けて俺はようやく、独りよがりな自分に気付くことができたのだった。
以後は周囲の意見に倣い、とりあえずはほとぼりが冷めるまで娘の露出は避けることになった。
「調子はどうだ?」
「別に、変わらないよ。それより、あんまり動かないでね。」
「そうか。」
相変わらず描き始めると何時間もカンバス、版画紙、画用紙、パステル紙と向き合っている。画風も画力も日々精進しているようだし、娘の言っていることに少しの嘘もなかった。
今もまたイーゼルの向こうから、幾つ目になるかも分からない俺の肖像画の産声が聞こえてくる。
中学に進学し、世間でファザコン天才少女の名前をスッカリ聞かなくなった頃、知人友人から『go』サインが出始めた頃、我が家の『原石』は以前にも増して脚光を浴びることに対して非協力的になっていた。
「そうか。」
改心した俺は、本人の意見を尊重するふりをして待つことにした。しかし一年経っても、二年経っても、娘の気が変わる様子はなかった。
それどころか、娘はあらゆる面で日に日に意固地になっていくように感じられた。
「絢子、本当に止めるの?」
「止めるって言ってるじゃん。それに、私がいなくなって喜んでる奴らも多いんじゃない?」
来年は高校受験。俺は芸術科のある学校を勧め、娘はそれを拒んでいた。
「周りは周り。お前はお前だ。周りに合わせてお前の才能を腐らせる必要なんて少しもないんだぞ。」
娘が俺を見る目も日に日に鋭くなっていった。
「才能のために私は生きてない。それこそ、私は私。いちいち私のことで騒ぎ立てないでくんない?好きにさせてよ。」
たかだか10数年を生きただけの小娘、そんな思いが頭を過ると、知らずに頭に血が昇ってしまっていた。
「じゃあ、あの絵は全部捨ててもいいんだな?」
「何でそんなこと言うわけ?!」
俺は娘の弱点を知っている。けれど、性懲りもなく使ってしまったその言葉が、火に油だということも心得ているはずだった。
「もしそんなことしたら私、こんな家出ていくから!」
平凡な人生しか歩いてこなかった俺は、娘の非凡な将来がどうしても諦められないのだ。
友人たちとの付き合い方が分からなくなると俺の野望を拒む娘との口論は平行線。妻は口喧嘩がひどく弱く、早々に傍観者に回っている。
もちろん、俺がここまで食い下がるのには訳があった。
「止めるならキッパリ止めてくれ。俺たちを変に期待させないでくれ。」
「何遍も同じこと言わせないでよ。私の人生なんだから、どうしようと私の勝手でしょ!?」
そう。未だに描き続けているのだ。世間に見せびらかしたいまでに立派な絵の数々を。そんな娘の姿を見せられて親として黙っていられるはずがない。
人生は一度きりなのだ。
「未来のない画家のモデルほど辛いものはないんだよ。」
「アンタの意見なんか知ったこっちゃないわよ!」
家族会議は難航していた。というよりも、ほとんど機能していなかった。家の中の空気が悪くなるばかりで、正直俺は疲れてしまった。
「今日はもう止めよう。」
すると突然、娘は勝ち誇ったかのような顔になった。
「今日もなにも、私はもう普通科に進むって決めてるし、母さんもOK出してくれてんの。もうアンタが何言ったって変わんないのよ。」
寝耳に水。傍観者を決め込んでいた妻は、ばつの悪そうな顔で俯いている。
「母さんがどうしてもって言うから最後のチャンスをあげたの。それなのにいつまでも他人の夢にしがみついて、恥ずかしくないわけ?アンタ、私の親でしょ?」
とんだ茶番だった。
娘のためにガムシャラに働いたつもりだったのに、ひいては家族の明るい未来を目指して働いていたつもりだったのに、少し意見を尊重したところで俺の独りよがりが変わるわけではもなかったらしい。
結局、俺は自己中心的な自分を何一つ変えられなかったのだ。実の娘に『他人』と呼ばせてしまうくらいに全くもって――――。
「コンクールには二度と応募しない。でもアンタの絵は描き続ける。それ以上話すことは何もない。」
それが理解できない。できないが、二の句も次げられない俺は、立ち去る彼女の後ろ姿を呆然と見送った。
「大地さん、ごめんなさい。」
「…、お前が謝ることじゃないよ。……、悪かったな。」
そう、妻は悪くない。世間に出ることを拒んだ二年前辺りから、あの子が俺のことを「お父さん」と呼ばなくなった時点で気づくべきだったんだ。