獣人にとって霊より恐いもの。
木々の間を縫い、凸凹した道を突き進む。
森の中だから、当たり前にそこは獣道である。
身体を沈め、人間では持ち得ない脚力を使って跳ぶように駆け抜けた。
その間、枝や葉が細かな傷を筋肉に覆われた大きな身体に刻むが、男は気に留めることもない。
脇目も振らず駆けていた男だったが、拓けた場所に着いたとき、やっとその足を止めた。
ハッハッハッ
足を止めた途端、男の身体から汗が吹き出し、荒く早い呼吸を繰り返す。
男は獣人である。
本来であれば、未曾有な体力を持つ獣人族なのだが、さすがにずっと走り続ければ息も切らす。
普通の獣人族では、座り込みかねないほどの道のりを強行してきたのだが、獣人の男はうつむくこともしない。
息を整えつつ、ひたすら周囲の気配を探る。
……はぁ。
森に住む獣たちの気配しか感じないのを確認して、獣人はゆっくりと息を吐く。
安堵の溜め息だ。
獣人の男は、見た目だけではわからないだろうが、後に勇者とも英雄とも呼ばれることになる男と親友と呼べる間柄であり、魔王を倒す旅に同行もした、年だけではなく実力も重ねた存在であった。
そんな彼だがしかし、世の中には恐ろしい存在があることを知っている。
魔王も確かに恐ろしかった。
ただただ戦うことに喜びを見出だし、膨大な魔力を有し、世界を破壊出来るだけの力を持った魔族の王。
それを倒すために尽力した弓遣いや神官、実際に止めを刺した親友も世間では恐ろしいのだろうが、実感はまったくないから脇に避ける。
神官に至っては生真面目なのが玉に瑕だが、見ているだけで癒される存在だったから完全に除外した。
それより、もっと恐ろしい存在。
獣人はアレを、恐ろしくて名前で呼んだことがない。
誰が傍にいても、その存在を示すために『あの女』と呼ぶ。
理由は畏れ多いのではなく、恐ろしいから。
どこに好きな男と一緒にいたいがため、男を魔王討伐のメンバーにする?
親友から話を聞いたとき、メンバーはたったのふたりだった。
親友とあの女の二人で魔王に挑むなど、どこをどうトチ狂えばそうなる!
当時は人権などないに等しかった獣人族でありながら、必死でメンバーに立候補した。
あの女の盾にするつもりだったのか、それとも戦力の足しにするためなのか、はたまた鬼気迫る雰囲気に呑まれたのか、人間族の王はあっさりと承諾しメンバーに入ることが出来た。
他のメンバーは幼い弓遣いの少年に、神に仕える若い神官…つまりはあの女以外は全員が男。
弓遣いが女で、しかも影で牽制されていたのはずっと後で知ったのだが、どこまで親友に女を近付けたくないか、非常にわかりやすい。
男共の中で、危機感がないと思っていたのは旅立った直後だけだ。
軽口と共に肩に触れようと手が、魔法によってへし折られた。
親友にすがり付いた女は、怯えた顔をしていたが心中は別だったと獣人は思っている。
以降、親友含めたメンバーの監視の目が痛かった。
戦闘において自身の拳や足が武器である獣人は、接近戦を余儀なくされる。
剣を使う親友もまた接近戦タイプではあるが、獣人に比べたら危険度は半分以下だ。
何せ、獣人がいようがいまいが構わず敵に向けて魔法をブッ放す危険な奴が居る。
親友に魔法による怪我が一切ないところを見れば、対敵用追尾型魔法なのだろう。
学のない獣人であるが、相手を固定して、当たるまで追い掛ける魔法はかなり魔力と精神力と経験、何よりセンスが必要であることくらいわかるし、大変なのは知ってるのだが。
…あれ、もしかして自分も敵認定されてる?
旅の途中、そんな不吉な考えを何度振り払ったかはもう、覚えていない。
魔王戦で、獣人のHPを大幅に削ったのは仲間の魔法攻撃だったとは、どこの歴史書にも載っていない、隠匿された事実である。
ニンゲンって、汚い。
そんなことを考えていれば、荒かった息遣いは正常に戻り、獣人は額に浮かんだ汗を拭う。
そのとき、獣人は完全に油断していた。
追って来る、恐ろしいあの女のことを思い出していたのにも関わらず。
「つ、か、ま、え、た」
絶望を与える声が誰の気配もなかった背後から聞こえ、逞しい獣人の両肩に冷たい手が置かれる。
ぞわっ
獣人の背筋に、戦慄が走る。
悪寒の原因は拭っていない汗ではなく、身体全体から血の気が引いたせいだ。
背後に、恐ろしい者がいる。
わかってはいるが、振り払って逃げることは出来ないともう、十分理解した。
それでも、嫌なものは嫌だ。
油を差していないブリキの玩具のように、獣人はゆっくり、ゆっくり後ろを振り返った。
「ねぇ、なんで逃げるのですか?」
息を切らし、汗を流すことも、服装の乱れひとつない、完璧な姿でそこに立っていたのは若い男。
獣人の頭には、転移魔法という言葉はないため、鉢合わせたときと何ら変わらない姿に恐怖が増す。
「やっぱり、あの噂は本当なのですか?…“私”が死んだ後に旦那さまを慰めて下さったというのは」
至近距離で見る森の色をした瞳は、笑っていない。
「あっ、あっ…」
「あら、どんなとこに行って慰めて下さったか教えて頂けないのですか?ぜひ、参考までに教えてもらいたいのですけど」
肩を掴んでいた手は離されたが、動くことは出来ない。
例え、その手に見覚えのある杖を見たとしても。
「転生前に、一緒に魔王討伐した仲ではありませんか。教えて下さいな」
その後、森に獣人の絶叫が響いた。
娼館に無理矢理連れて行ったのが、まずかったらしい。




