ripple 9
広樹が足音を忍ばせて、階段を降りてくると、椅子に座って黙りこんでいた巧と美紗は、静かに立ち上がった。
「なぎさは?」
美紗より早く、巧が口を開いた。
「大丈夫、ぐっすり眠っているようだ」
胸をなでおろした巧と美紗は、椅子に座り直す。広樹も座った。
すると、美紗が口を開いた。
「私、新月の晩までここにいます。東京には帰れない。なぎさちゃんをほおっておいたら、研究室でゆっくり試験管を眺めてなんかいられないもの」
美紗の決心は固そうだった。今さらどうこう言っても彼女の心を変えることはできないだろう。
「ありがとう。はっきり言って助かるよ」
広樹が快く美紗の申し出を受けたのは、そこまで計算してのことだった。
「それにしても、わからないことが多すぎるな」
広樹が首を傾げ、腕組みをした。3人は思い思いに口を開く。それが、一人ずつ順番に声を出すので、はたからみると、会話しているように見えた。
「少なくても、人間ではないらしいしね」
「私達のことを<原の民>って呼んでいたみたいだったけれど」
「彼ら<海の民>から見た私達の呼び方だろうね、<原の民>とやらは」
3人は考えこんでしまった。
開け放った窓から涼しい夜風が入ってきて、唯一の光源であるランタンを揺らす。この小屋にも一応は電気は通っている。が、広樹の考えで極力、電力使用を避けているのだ。だから、蛍光灯があってもよっぽどのことがない限り使わないし、太陽が沈んだらできるだけ早く寝るように心がけているのだ。
ランタンが揺れ、3人の影も揺れた。
と、玄関の方で物音がした。3人は顔を見合わせた。その音は、誰かがこの小屋に入るためのノックのように聞こえるのだ。
こんな夜遅くに、誰が何故? と、いう思いが胸に渦巻く。
広樹が意を決して立った。巧と美紗は見守ることにし、椅子に座っていた。
「何かご用ですか……」
言いながら扉を開けた広樹の体が硬直するのが見えた。巧と美紗も慌てて玄関に出る。
そこに立っていたのは、一人の青年と、少女だった。
青年の背は広樹よりは低いが、それでも長身という部類に入るだろう。切れ長の、見る人によってはきつい印象を与える澄んだ瞳は、理知的な輝きをたたえていた。年は美紗よりは若いが、巧より上と言ったところだろう。月光をとかしこんだ銀の糸のような長い髪を、後ろで一つに束ねている。妙に存在感のある青年だ。
少女のほうは、年は巧より少し上というぐらいであろう。生き生きとした瞳が快活そうに見える。日本人にしては茶色すぎる髪を風に揺らしている。
広樹が硬直したのは、二人が二人とも、あまりに人間らしくなかったからだ。人間よりも人間らしい野生味のようなものと、明らかに人間離れした色や造型の美しさが、二人には同居していた。
青年の喉から外見に恥じない美しい声が紡ぎ出された。
「こんな夜更けに初対面の上、性急なことと思われるでしょうが、ナギサに会わせてはいただけないでしょうか」
広樹の硬直していた体が、びくんと大きく揺れた。
「残念ながら素性の知れない方を、彼女に会わせる訳にはいきません。お引取り下さい」
早口に言うと、広樹は扉を閉めようとする。一刻も早くこの二人から離れたいという思いが、広樹の体を駆け抜けた。
「お待ち下さい」
逆らうことを許さない、威厳がこめられた強い調子で青年が言った。それと同時に少女が素早く足で扉を押さえる。
「これを見ても、あなたは私の願いを拒否できるでしょうか」
青年が挑戦的に言う。次の瞬間、広樹と巧と美紗の目は二人の髪に釘づけになった。
二人の髪の色が見る間に変わっていく。完全に碧の色になるまで、小さな波が一つ寄せて返すほどの時間もかからなかった。
広樹は、とうとう彼らしくもなく、言葉を失ってしまった。
「いったい、あなた達は何者なんですか?」
そう言ったのは美紗だった。
青年は笑みを浮かべた。星明かりに照らされ、それは恐ろしいほど魅惑的に見えた。
「失礼。私はミズチと言います。この子は」
そう言って、ミズチは傍らの少女の肩の上に手を置く。
「この子は、カジカ」
カジカと言われた少女は面白くなさそうにそっぽを向いた。巧たちに名を知られるのがよほど嫌だったと見える。
ミズチは話を続ける。
「しばらくの間、この子にナギサと巧さんのことを探らせていたのですけれど……気づかれませんでしたか?」
巧は大きく首を横にふった。ミズチの圧倒的な存在感に気圧されて、声が出ないのだ。
ミズチは遅れ毛をくるりと指に巻いてもてあそぶ。
「これでお判りでしょう。私たちは<海の民>なのです。これでもナギサに会わせていただけないのですか?」
「会う理由を、聞かせてください」
やっとのことで広樹が言った。短い言葉だが、このミズチという青年の前で声にしようとすると大量の冷や汗を伴う。常人ならば、口を動かすことすら、不可能だろう。
広樹の言葉に、ミズチは整った唇を歪め、勝ったと言わんばかりにほくそ笑む。巧にはその笑みが妙に嫌味っぽく思えた。
「ナギサは、私の許婚です」
巧の体を、何かが雷の如く駆け抜ける。
「帰って下さい!」
気づくと、巧は、自分でも驚くほど力いっぱいに、そう叫んでいた。
「ミズチ様に何と無礼なッ」
カジカの手刀が巧に向かって飛ぶ。巧は、その素早さにかわすことができない。
当たる、と心の中で叫び、来るべき衝撃を予感した時、「おやめなさい」と、ミズチの声がかかった。
間一髪だった。カジカの手刀は巧のあごのすぐ下でとまっていた。
ミズチはため息をつくと、静かに言った。
「今日のところは失礼します。新月の晩にもう一度お伺いします」
そうして、ミズチとカジカは巧達に背を向け、夜の闇にまぎれるように消えた。