ripple 7
朝食が終わっても、美紗は珍しく席を立たず、2杯目のアイスミルクティーを飲んでいた。珍しく、というのは、この6日間、彼女は朝食後のお茶の時間にアイスミルクティーを一杯だけ飲んで、すぐ浜辺に出て研究を始めるのが常だったからだ。
巧が不思議そうに見ていると、美紗はその視線に気づいたのだろう、巧の方を向いた。
「なあに?」
「い、いえ」
思いもよらずに目が合ったことに、どぎまぎしながら巧は答える。
「今日は、研究に行かないんですか?」
美紗は、泣く寸前とも笑おうとしているのともとれるような、あっけにとられたような顔をする。その美紗に代わって、自分のティーカップにレモンのしぼり汁の滴を落としていた広樹が答えた。
「美紗さんは、明日の朝ここを出て、大学の研究所に帰るんだよ」
「美紗おねえちゃん、いなくなっちゃうの……」
深緑色のワンピースを着たなぎさが、口をとがらせる。
そのワンピースは美紗が作ったものだった。美紗はスカートとブラウスを2着ずつ作る予定だったのだが、なぎさの希望で、この深緑色のものと薄桃色のワンピース2着となった。なぎさが最初に着ていた白いワンピースも混ぜれば、なぎさ用の服は全部でワンピースばかり3着になる。外出用のあらたまった「お洋服」を必要としない少女には十分に足りる数だった。
「もう、一週間もたつんだ」
正確には4日前だけど、と巧は音にならない声でつけ足して、自分の真正面で残念そうな顔をしている少女を見た。
寂しそうな顔、微笑んだ顔、悲しそうな顔、愛しそうに大樹に寄り添う顔……。この4日間、巧はなぎさの「顔」をあれこれと見てきた。新しい「顔」を見つける度に、なぎさをより身近に感じ、この子を守るのだという決意を新たにしてきた。
5日たった今、巧は、実の妹である美菜子よりも見ず知らずの少女だったなぎさと、心を通わせることができると思っていた。
確かに巧となぎさには、巧と広樹のように共通するところがあった。二人とも親の愛情にうすいということだ。もっとも、なぎさの場合は記憶喪失により両親のことを忘れているにすぎないが。
それよりも巧は、なぎさとの間に絆のようなものを感じていた。それは、生まれてすぐ引き離された双子のような、前世に恋人であったような、入り組んだ迷宮の奥で鏡の壁に映った自分自身の姿をみつけてじっと見ているような、そんな感じだった。
――記憶喪失といえば、なぎさの記憶は戻らないのだろうか……。
“みんな忘れた方が嬉しいみたいに”
巧がなぎさに出会った日、なぎさはそう巧に言った。なぎさは記憶が戻ることを望んでいないのだと巧は思う。だが、どんなに辛い記憶でもどんなに苦しい記憶でも、人は忘れてはならないのだ。記憶とはその人の足跡、その人が生きてきた証なのだから――
これは巧の持論である。
――ということは、碧の髪の子が言った日まで、あと10日……。
賭は今のところ巧が勝っている、と言えば聞こえは良いが、ただ単に、なぎさを守らなければならない事態にあっていないだけのことである。そんな状況に陥ってしまった時、正直に言って、なぎさを守りぬけるかどうか自信はない。
しかし、何としても守りぬいてやるという決心はあった。碧の髪の少女との賭に勝つためではなく、なぎさの身の安全を守るために。
「巧? たぁくぅみ」
妙な節をつけた呼ばれ方をして、巧は頭の回路を現実の世界にきりかえた。
眼前には、本原財閥当主と考古学者の肩書きを持つ、独身貴族の料理好きな彼の叔父、広樹のものである。
「聞いてましたか?」
「何を?」
考えに耽っていた巧にとっては当然の返事だったのだが、広樹にとってはそうでなかったらしい。
「やれやれ」
広樹は、ちょっと見ると素っ気ないがよくよく見ると手入れがいきとどいており黒光りを放つということが判る自慢の木の椅子に、浮かしていた腰を落とした。代わりに、なぎさが両膝を椅子の上に置いて、身をのりだす。
「きょう、美紗おねえちゃんのおわかれ会をするの。夜ね、浜辺でごはん食べて花火するの」
なぎさは口を閉じて、じっと巧を見つめる。その瞳は期待できらきら輝いている。どうやら巧が答えるのを待っているらしい。
巧はなぎさの期待に添うべく答えた。
「へえ、それは面白そうだ。さっそく準備を始めなきゃな」
扉の開く音がして、巧は読んでいたSF小説から目を上げた。その目に映ったのは、美紗だった。
「巧君、ちょっといいかしら?」
巧が肯定をしめすように頷くと、美紗は巧の向かい側の椅子を引いた。
この別送の主である広樹は、なぎさをつれて近くの店に食料の買い出しに行っていたので、不在である。よって、この小屋にいるのはこの二人だけだ。
巧は、本屋でもらった書店名の入っているしおりを読んでいた本に挟む。ふと、巧は自分を見つめる視線に気づいた。
「なんですか、俺なんかじっと見たりして」
美紗は、そう言って屈託なく笑う巧に最初のうちはあわせて笑っていたが、すぐ、笑うのが辛いというように目を伏せた。
「……広樹さん、最近変わったんじゃないかしら」
「どうしたんです、唐突に」
巧はまた笑おうとしたが、何かをこらえているように下唇をかんで押し黙る美紗を見て、やめた。
「何かあったんですか?」
しばらく沈黙が続いた。巧は何度も美紗に胸中にあるものを話して欲しいというような言葉をかけようとしたのだが、美紗のまとっている沈痛な空気がそれを許さなかった。
やがて美紗は、ぽつりぽつりと大雨が降り出す時のように語り始めた。
「一昨日のことよ。私、喉が乾いて夜中に起きたの。台所で水を飲んで二階に上ってきた時、なぎさちゃんの部屋のドアが、開いていたの……」
美紗は怪訝に思い、扉の隙間から部屋を覗いた。次の瞬間、美紗はそこからぱっと目を離し、急いで自分のベッドに潜りこんだ。それからしばらくの間、美紗は胸の鼓動をしずめるのに苦労した。
彼女が見た部屋の中では、世にも奇妙な光景が展開されていた。
東にやっと姿を現したばかりの澄んだ青白い月光を一身に浴びて、なぎさが眠っている。
その傍らに広樹がいた。広樹はいつになく穏やかな優しい――まるでいとおしい年下の恋人を見るようなまなざしで、なぎさを見ていた。
その時の二人の様子を例えるならば、眠り姫の目覚めを、慈しみと期待をもって見守る騎士というのが一番適格だろう……。
「巧君、どう思う?」
美紗は今にも泣き出しそうな顔だった。腕組みして、巧は黙っていた。
それは言うべきことがみつからないからではなかった。言うべきことはあるのだが、美紗がそれを話すのに値する相手かどうか、巧は思案していたのである。なにせ、そのことは長い間、広樹と巧だけの秘密だったので。
巧は組んでいた腕をほどき、美紗を睨みつけるように見た。
「失礼ですが」
咳払いをして、厳粛な態度を巧はとった。
「美紗さんは、叔父を……本原広樹をどう思っているんですか? それが判らないと、ここから先はお話できません」
美紗は2回口を開きかけて、2度ともうつむいて頬を染めた。その様子を巧は冷静すぎるほど落ち着き払って見ていた。
3度目にして、美紗は赤面しながらもはっきりと言った。
「お慕いしています。私の一方的な気持ちだけれど。広樹さんも、多分気づいていると思います」
「それならお話します」
「本当に?」
巧の意外に素っ気ない返事に、美紗は思わず聞き返した。巧は大きく頷いて見せる。
「ただし、真剣に聞いてください」
美紗も大きく頷くのを見て、巧は、今まで口外したことのない話を始めた。
「俺の祖父にあたる人には、二人の女がいました。つまり、広樹を生んだ女と、父を生んだ女です。本原家の人間は、生涯一人の人だけを思うことはできないのだそうです。それに加えて、祖父は激しい性格だった。叔父を生んだ女も父を生んだ女も、そんな祖父から離れていきました。それぞれ自分の子供を一人ずつ連れてね。
残された父は、祖父から本原家の当主になるべく厳しく育てられたそうです。父はそれに反発して、家を出て、母と結婚して、俺と兄と妹が生まれました。叔父は祖父を残して家を出るわけにもいかず、祖父に育てられました。その時、叔父は、母親に裏切られた気持ちと父親への失望で、人間嫌いになったそうです」
そこで、巧は一度言葉を切り、美紗の瞳を見つめた。「人間嫌い」と言う単語を出すと、普通の人はその人を嫌悪するか、呆れる。だが、美紗は違うようだった。どうやら叔父に対する思いはまだ変わらないらしい。さすが、あの叔父が見こんだだけはあるな、と妙に感心する。叔父がこの別送に泊めるのは、本当に心を許した人だけなのだから。
巧は、続ける。
「一時は全ての人間が信じられなくなったと言っていました。自分から友人を求めず、友と自分が呼んだ人はいなかった。相手が勝手に友人面をした、と。大学に入って、叔父は那実という人に出会いました。叔父が言うには、自分の生涯で唯一恋をし、愛した人になるだろう、それが那実という人だ、と」
美紗が目を閉じたのを巧は見逃さなかった。おそらく彼女の胸は苦い思いで満たされているのだろう。
「結婚まで考えていたそうです。叔父は自分が本原家を継ぐ身だとその人に言いました。すると、彼女は翌日から姿を消し、一週間後、この浜辺の沖で水死体で見つかったそうです。何故だと思いますか?
那実さんには御両親がいらっしゃらなかったのです。那実さんは、古い言葉で言えば『身分違いの恋』とでもいうのか、そう思ったらしく、自殺したのです。それ以来、叔父は一生結婚しないと誓ったそうです」
「そうなの……」
短く美紗が答える。胸には様々な思いが渦巻いていることだろう。巧に想像し得るのはその程度のことだった。恋をしたことのない巧に美紗の気持ちはわからないのだ。
「叔父は、基本的に人間のことを嫌っています。俺や美紗さんは、例外なんです。叔父はそう簡単に人を好きになりませんよ。特に、女の人は。叔父がなぎさをどう思っているのか判らないけれど、俺に言えるのはそれだけです」
言って、巧が美紗の顔を見ようとしたその時、バイクのエンジン音が聞こえてきた。買い出しに行っていた広樹となぎさが戻ってきたのだろう。
美紗は席を立ち、階段を上っていった。後ろ姿が寂しげだった。巧は慌てて読みかけの本を取り出すと、開いたページに目を落とした。
ほどなくなぎさの嬉しそうな声が聞こえてきた。
「ただいま帰りましたよ」
玄関の扉を開けて入ってきた広樹を、巧はいつもと変わらぬ顔で迎えた。