ripple 3
長い夏の日も沈み、月が昇り始める。あたりに夜の帳がおりていた。その日は一日中、巧は浜辺の散策、広樹は読書、美紗は研究をした。三人が顔を合わせるのは広樹の作った食事を食べながら他愛のない話をする時だけで、それ以外は互いに干渉することなく過ぎた。
巧は一日の汗を流そうと湯につかり、今は、自分にあてがわれた部屋でTシャツ一枚になって、窓枠に腰かけて涼んでいた。
「あの子のこと話すの、忘れていたなあ……」
うちわを右手に呟く。「あの子」というのは無論、朝に浜辺で会った、碧髪の不思議な少女のことだ。少女の不敵な笑みが浮かぶ。それが巧には魅力的にも見えてしまうのだから、困ったものだ。
「なぎさ、か……」
少女の言った名を繰り返す。
「地上に住む人……地球……賭……」
巧ははたと気がついた。ひょっとすると、少女が賭けたものというのは、人間や地球の運命ではないか……と。しかし、まさか、と一瞬にしてその思いを打ち消す。
「俺はただの高校生だぞ。そんな話、ある訳ない。第一それが、なぎさって女の子を新月の晩まで守りきることにどう関係するんだ。なぎさって子が女神様だとでも……」
言っていて、巧は自分の考えに噴き出してしまった。ベッドに横になる。スプリングのきしむ音が耳元でする。正体不明の者が言った不可思議な言葉にいつまでも頭を悩ませているほど、巧は暇ではなかった。
瞼を閉じると、心地好い眠気が頭の中に入りこんでくる。巧は眠りに身を委ねた。
太陽が昇り始めてから、まだ間がなかった。巧は日の出の様子を、目を細めて見ていた。星が太陽の明るさに負けてどんどんかき消されていく。
水音がして、巧の足が海水に濡れた。
巧は浜辺にいた。
碧の少女が言った「なぎさ」に会うためだ。少女の存在自体さえ今一つ現実と思えない巧は、「なぎさ」もここに現れることはないだろうと思っている。
だが、もし、間違いが起こったとしたら。巧には、名前しか知らないとはいえ少しでも自分とかかわりのあった女の子をほおっておくことはできなかった。
それで、巧は居ても立ってもいられなくなり、ここに来たのだ。どうせ毎朝浜辺を散歩すると決めていたのだ、散歩のついでと思えば苦にはならない。
砂浜の美しさは昨日と何一つ変わらなかった。寄せる波も、吹きつける海風も、微かな音を立てて流れる砂も変わったところはない。
昨日、少女がいた、あの崖が見えてくる。そこで巧は、昨日は見なかったものを見た。
それは、女の子だった。女の子は膝を立てて座り、海を見ているようだった。大波が寄せる度に、女の子の小さな真白い素足が海水につかる。身長の割に長い黒髪が海風になぶられていた。
巧は愕然とした。昨日の碧の髪の少女が言ったとおりの12才ぐらいに見える女の子――おそらく「なぎさ」なのだろう――の存在も確かに驚きではあったが、それよりも巧を驚かせたのは、「なぎさ」が碧の髪の少女に似ていたということだ。
着ている白い服も整った顔立ちも、そっくりだった。違うのは、髪が黒く、少女よりも幼く、巧と視線があっても天使のような表情を変えずに立ち上がったということだ。
巧は女の子に向って真っ直ぐ歩いていく。手を伸ばせば届くような距離まで来ると、女の子は小さな笑みを浮かべた。
「なぎさ?」
巧が問うと女の子はぱっと顔を輝かせた。
「わたしを知っているの?」
女の子の純粋な輝きを放つ瞳に見つめられながら、やっとのことで巧は答えた。
「……名前だけ」
「そうなの……」
はぁ……、とため息を着いた女の子は、残念そうに顔を伏せた。
「ごめん」
巧が頭を下げると、女の子は顔を上げた。瞳が巧のそれを見すえる。
「わたしはなぎさ……」
つぶやく、なぎさの目が海の方に向けられる。
「なんにも覚えていないの。みんな忘れちゃったみたい」
するとなぎさは、また小さく笑った。
「自分が誰なのか、忘れた?」
巧の問いにこくりと頷くなぎさ。
「それなら、何故、笑ってなんかいられるんだ?」
巧の言葉に強い調子がこめられる。自分が記憶を失ったとしたら、なぎさのように笑ってはいられないだろうと思ったからだ。
なぎさは、そっと波うち際に座り、顔を伏せる。髪の毛がさらと流れ、濡れ羽色のベールをつくる。
「目が覚めたら、なぎさはここにいたの」
小さな手が砂をひとつかみするのが、ベールの隙間から見える。
「そうしたら、海から風が吹いて……わたし、楽しい気持ちになったの。気づいたら、手も足も踊ってた」
なぎさの手から、先程つかんだ砂がさあっと音を立ててすべり落ちた。それはどこかひっくり返したばかりの砂時計を思わせる。
「踊り疲れて座ってた。ちっとも悲しくないの。みんな忘れたほうが嬉しいみたいに」
垣間見えたなぎさの横顔は悲しげに微笑んでいた。巧はなぎさの線の細いなだらかな肩の上に手を置く。すると、自然にのどが声を発した。
「お兄ちゃんの所に来るといい。どうせ行くあてなんてないんだろ、何か思い出すまでいればいいよ」
顔を上げ、巧を見たなぎさの瞳が輝いていた。
「そうする」
勢いよく立ち上がる、なぎさ。巧は自分の胸程の身長しかない女の子の手をひく。
「まだ名前を言ってなかったよな。お兄ちゃんは宮岡巧っていうんだ」
「たくみおにいちゃん、って呼んでいい?」
巧はとびきりの笑顔をなぎさに見せる。
「ああ、え……と」
口ごもる巧が、なぎさを見て困ったように頭をかいた。なぎさがくすっと笑う。
「なぎさでいいよ」
なぎさの白く細い両の腕が、巧の腰にそっとまわされた。
「お兄ちゃんはな、今、叔父さんの所に泊っているんだ。なぎさもそこで寝たり、食べたりすることになるんだよ」
「うん」
巧は、大きくうなずくなぎさの体を背負う。こうして背負ってみると、なぎさは見かけよりもなお軽い。
「美菜子とは大違いだ」
「だれ?」
巧がつぶやいた言葉を、なぎさが耳聡く聞きつけて言う。
「お兄ちゃんの妹。小学六年生、12才。なぎさと同じ年。けれども、全然可愛くない、騒々しい、わがまま。俺としてはなぎさみたいな妹が欲しかったな」
後から思えば多少照れくさい台詞だったが、その時の巧にはすらすらと言えた。
「ありがとう」
よほど巧の言葉に感激したらしい。なぎさが、巧の背中に顔を押しつける。それが、少年には変にくすぐったかった。なぎさの、腰まである黒々とした長い髪が巧の肩にかかり、潮風と共に巧の鼻をくすぐる。
とんでもないモノを拾ったな、と巧は思った。後に、巧はその言葉を嫌というほど思い知らされることになる。ともあれ、碧髪の少女との賭は始まったのだ。新月の晩までこの子を守りきらなければならない。今はまだ、何からなぎさを守るのか判らないし、何が賭けられているのかも知らないが。
不意に鳥の羽音がし、巧は空を見上げる。白い鳩が悠々と飛んでいく。
視線をうつすと夏の太陽が昇りきっていた。もうそろそろ、人々の一日の生活が始まる時間だ。
巧に背負われたなぎさの胸の上では、丸い碧の石が日の光を受けて光っていた。