Last ripple
病院を出た巧は、なぎさの手をしっかりと握り海を目指して歩いていく。やがて、波の音が巧に聞こえてきた。目の前の堤防を越えれば、海が見えるはずだ。
そこまで行ったら、なぎさはどうなるんだろう?
そんな疑問が巧の頭をよぎっていく。気を抜くとすくんでしまいそうになる足をひたすら前へ前へと動かす。止まるわけにはいかない。逃げるわけにもいかない。
なぎさを先導して海まで連れて行くのは、自分の仕事だ。
巧は、そう心に堅く決めていた。
粉雪のようなものは、まだ降り続いていた。とけることのない柔らかなその物体は、人類滅亡への静かな始まりなのだ。
「最後に、巧に聞きたいことがあるの」
堤防の上に登った時になぎさが言った。二人の前には海がある。
「……何?」
「私はまだ、あなたの妹でいられる?」
風が吹いてくる。なぎさの髪は風になびき、刻々とその色を変えていく。生命にあふれた碧の色へ、と。
「いや、君はもう俺の妹じゃない。今度出会う時は……」
波の砕ける音が語尾をかき消してしまった。が、なきさには巧の言ったことがわかっていた。
なぎさはにっこりと微笑んだ。それは今までいちばん上等な、素敵な笑みにちがいない。
「今度会う時までには」
なぎさは、はにかみながら言葉を紡ぐ。
「人を、世界を、この星を好きって、迷わずに言えるようになっていてね。……ありがとう。そして、さようなら」
巧が止める間もなく、なぎさは浜辺に駆け降りていく。波打ち際を駆け抜け、飛沫を上げながら海に入っていった。
海面が腰の位置まで来た時、なぎさはぴたりと止まった。胸の前で祈るように手を組むと、頭をたれる。
と、大きな波がなぎさを襲った。波は一瞬、なぎさの体を覆って巧から彼女の姿を隠した。
「なぎさ!」
思わず巧が叫んだ時、波が引いた。なぎさは変わらずそこにいた。
ほっとしたのも束の間、先程よりさらに大きな波が向かってくる。
巧が堤防から海へ駆け下りようとすると、なぎさが振り向いた。
なぎさは、笑っていた。
――大丈夫、心配しないで。
そういった気がした。
波がなぎさの体にぶつかるその瞬間、彼女の体が、ぼうっと青く光った。青い光の塊になったなぎさの体は、無数の光の粒に変わっていく。
なぎさの体の形を作っていた光の粒は、さっと広がると、波を包みこんだ。
波は光の粒にふれたところから順に、消えていく。
波が消えると、光の粒は陸と海の境界線に一直線に並んで光の線になった。光の線はそのまま、さあっと沖の方へ去っていく。
青い光の線が去った後、波はまったく見えなくなり、また静かな海に戻っていた。
巧は新学期早々、学校を休んだ。広樹の葬儀のためだった。
「巧おにいちゃんだ! ねえ、お母さん、巧おにいちゃんがきたよ!」
美紗は急かされて、窓際に歩み寄った。嬉しそうに娘が指差した先には、あの日から少し凛々しくなった巧がいた。
スーツ姿がすっかり板についた巧はゆっくりと美紗たちが住む家に近づいてくる。
本原家の若い当主、本原巧がそこを訪れるのは5年ぶりのことだった。
「美広ちゃん、こんにちは」
「……こんにちは」
巧に話しかけられた少女は、小さい声でそれだけいうと、美紗の後ろに隠れてしまった。少女に向かって差し出された巧の手が、所在なげに空に浮いてしまう。
「ごめんね、巧君。さっきまでは美広も巧君が来るのを楽しみにしていたんだけど……今、人見知りをする時期みたい」
そう言って美紗は、娘をいとおしそうに見つめる。
美紗の娘であり、巧にとってはいとこにあたる小さな女の子は、自分の父親に会ったことがない。彼女が生まれた時に、父親は既に他界していた。
「この日に巧君がここに来るのって初めてじゃない?」
「美紗さんは気づいていたんだ」
「自分の夫の命日だもの、色々、結びつけて考えてしまうのよ。じゃあ、今日は『お墓参り』なのね」
巧はうなずいた。
一面の秋桜畑に巧は立っていた。高級賃貸住宅になる所だったのを巧が買いとった。本当はここに遺骨を埋めて墓にしたかったのだが、法律が予想以上にやっかいで断念した。
でも、巧にも広樹にも思い出深いこの場所には、きっと広樹の心が眠っている。
初秋の空は高く、青かった。
墓に代わってモニュメントにしている大木があった。その根元に花を捧げ、巧は、誰ともなく言った。
「今思うと、あの子は那実さんの子供だったのかもしれないな……」
巧にとって広樹が他界した日には、もう一つの意味があった。あの夏、2週間だけ一緒にすごした少女と別れた日。
ふと気配がして、巧はふり返った。そこには一人の女性が立っていた。髪は長く、風になぶられるままにしている。清楚な白いワンピースは、彼女をより美しく見せる。
「ただいま」
彼女は微笑んだ。
巧はその女性の名を呼ぼうと口を開きかける。すると彼女は、右手の人差し指すっと立て、自分の唇にそっと当てた。
「待って。今度は、私があなたに、あなたの名前を教えてあげるんだから」
彼女の白く細い腕が巧の腕にからめられた。巧の耳元で、女性はささやく。
「ただいま、巧お兄ちゃん」
白い秋桜の花びらの一枚が、その風に吹かれ、散った。花びらは海の方に流され、波間に消えていった。
空も海も、碧色の日の出来事である。
<Fin>