ripple 10
夏の陽射しはきついとはいえ、朝のうちは幾分柔らかい。日中の気温の上昇を予感させるような朝日が、部屋の中にさしこんでいた。
そんな朝の光の中では、昨晩の一連の出来事は夢のように思える。だが、生々しさがそれが夢ではないことを告げている。巧はしばらく、朝日をのんびりと体に受けていたが、隣の広樹の部屋から聞こえてくる奇妙な音で、飛び起きた。
慌てて、隣室に飛びこんだ巧が見たものは、比喩などではなく文字通りの血の海だった。ベッドの上は真っ赤に染まっている。
その中央に起き上がる格好で、口を手で押さえた広樹が座っている。そしてまたその手から、鮮血の滴がしたたり落ちる。
「広おじさんッ」
叫ぶ巧を広樹は一瞥した。その目には生気はなく、虚ろだった。
「一体……」
巧は戸口の所でへなへなと座りこんでしまう。
「もう大丈夫だ。巧、扉を閉めてこちらにきなさい」
広樹の言う通りにして、巧はベッドに近づいた。広樹の瞳に生気が蘇っていた。もう大丈夫だというのは一時的なことにせよ、まんざら嘘でもないらしい。
巧の目を見据え、広樹は話し出した。
「見てのとおり僕は病気だ。胸患いでね、こうして時々、喀血する。こんなに量が多いのは初めてだけどね」
と、乾いた咳を一つする。
「もう、長くはないだろう。新月まで持つかどうか」
「そんな……」
巧の顔を見て、広樹が笑う。
「情けない顔をするなよ。巧にとっては突然のことかもしれないけれど、僕にとっちゃ、3年前から判っていたことなんだから」
3年前! 3年も前から、叔父は自分の死期を知っていたというのだろうか。いまさらながら、並外れた精神構造に頭の下がる思いがする巧だった。
「遺言状で、僕の全ての財産を巧が相続することになっているんだ、そんな情けない顔をするようじゃあ、本原財閥当主はつとまらないぞ」
巧は、頬に涙がつたうのを感じた。気がつくと、広樹の胸の中で、巧は泣いていた。広樹は優しく巧の背中をなでた。巧が幼い頃、両親の下から広樹のところに逃げてきた時のように。
「美紗さんとなぎさちゃんには秘密にしておいてくれよ。……巧が学生の間は、全て執事の相田さんに頼んでおく。彼は信頼できる人物だ。そして、少しずつ仕事を教えてもらいなさい。そうすれば大丈夫。ただ、僕の心残りは、なぎさちゃんのことを見届けられるかどうか……」
巧は広樹から体を離した。
「広おじさん、俺、美紗さんには病気のことを話すべきだと思う」
迷いながら巧が言う。広樹は顔を伏せた。
「いや、僕は彼女には何も言わないで逝くつもりだよ。彼女は若い。僕なんかに縛られる必要はない」
話しぶりからすると、広樹はやはり、美紗の胸中を知っているようだ。
「僕には女性を幸せにすることなんてできない」
広樹の目が遠くを見つめている。
「そうだ。巧にだけは話しておこうか……」
巧の真っ赤な目が広樹に向けられる。
「巧、本棚の一番上の棚に置いてある写真たての中の写真を見なさい」
広樹の指示通りに写真を見て、巧は驚愕して、息を飲んだ。
「なぎさに似ている」
その写真には大学生の広樹と、女性が写っていた。
「彼女が、那実なんだ」
「え?」
巧が聞き返すほどに、今は亡き那実という女性と、なぎさは似ていた。
「なぎさちゃんの記憶が戻れば、彼女との関係もはっきりするんだろうけどね」
巧にはようやく、美紗の言っていた「夜に広樹がなぎさを優しい目で見つめる」のは何故かが判った。亡き人の面影を重ねていたのだ。
「巧、今ここで話したことは秘密だ、絶対に口外しないこと。それから、僕は風邪ということにしておいてくれ」
そう言って、広樹は目を閉じ、体を横たえた。
巧は叔父の代わりに朝食を作るため、下へ降りていった。
簡単ながらなんとか巧が朝食を作った。作り終える頃になって、ようやく美紗が起きてきた。
巧は広樹が風邪をひいてしまったので、自分が朝食を作ったのだと美紗に説明した。美紗はすんなりとそれを信じた。巧は心苦しかったが、広樹本人の望みなので何も言わなかった。
階段を下ってくる音がする。おそらくなぎさだろう。
「おはよう」
なぎさが目をこすりながら言う。
「おはよう、なぎさ」
言って、巧はなぎさを見て、声を上げた。
「なぎさ、おまえ……」
「あら」
なぎさはいつものなぎさではなかった。かといって昨夜のように中身が変わってしまったのではない。外側が違っていた。
黒い髪はいっそう伸び、膝までとどこうとしている。髪だけでなく背も少し伸びていた。何よりも昨日までのと顕著な違いは、胸のふくらみだった。昨日までは少年の胸とさほど変わりはなかったのだが、今日はワンピースの上からもわずかにふくらんでいる。
ちょうど、一晩で3年ほど成長してしまったような感じだ。その姿は初めに浜辺で碧の髪の少女として出会ったのと、全く変わりなかった。
「私、どうしてしまったの? 巧お兄ちゃん、知らない?」
なぎさに見つめられて、巧は戸惑いを覚えたが、ともかく答える。
「一晩で3年ぐらいたったみたいだ。髪も背も伸びている」
どうやら、いちばん驚いたのは当の本人だったようだ。