first ripple
その場を満たしていたのは、波の寄せる音だけだった。朝の爽やかな空気が辺りを包んでいる。潮の香を含んだ夏風が、浜辺に立つ巧の鼻をくすぐって通り過ぎていった。
正面に見える橙の巨大な太陽が東の空に姿を見せはじめ、背中で白の真円より少し欠けた十六夜の月が静かに沈みはじめる。
「東の野に炎の立つ見えて顧みすれば月かたぶきぬ、か」
巧は、国語教師のにやにやした顔を思い浮かべながら、大きなあくびと共にひとつ、伸びをした。
今日から、新しい生活が始まる。
そう思うと、空気が、いつも吸っている地球のものではなく、どこか知らない星のもののような気さえしてくる。
高校二年の夏休み、最後の二週間。巧は叔父、広樹の別荘に滞在することにしていた。
夏休みの学生に課せられた、やっかいな義務――問題集等々の宿題もしくは課題と呼ばれるもの――は済ませた。それもこれも、この二週間、世間と距離を置いた生活をするためだ。巧はそんな生活に少なからず憧れていた。だから、この二週間は家族や勉強のことも忘れて、人間らしいと巧が思う「有意義な生活」をしようと決心していた。
それは、自分は精神的に充分自立している、と思っている十代後半の少年にとっては、寂しいことではなかった。むしろ解放感と希望に満ちていて、心が躍ってしまう程だ。
自分の家となる広樹の別荘に生活必需品を運び終えた巧は、今度は自分の庭となる海岸を歩いていた。
後ろ手に靴を持って砂浜を歩く。時々寄せる波が、興奮気味でほてった素足の熱を奪っていき、ひんやりとして気持ちが良い。巧は、毎朝こうやって海岸の散歩をしようと心に決めた。
この砂浜は綺麗だった。間違っても心無い観光客が落としていくゴミなどは見当たらなかった。当然のことだ。この辺りの海岸は本原家の当主である叔父、広樹のものなのだから。そしてここには、広樹に許可を得た巧のような人間以外は、立ち入ってはいけないのだ。
――朝の浜辺は気持ちがいい。
そう思った時だった。
巧は自分の耳を疑った。声が聞こえてくるのだ。しかも、銀の鈴を鳴らしたような少女の歌声が。目を凝らして見ると、前方の崖の上で白いものが動いている。
「何だ?」
正体を見極めたいという衝動が起こる。巧は急いで靴を履き、崖に向かって走り出した。気持ちだけがはやる。肝心の足は、素足と靴の間で不快な音を立てるだけで思うようには進まない。
それでもなんとか、巧は崖の上の白いものをすぐ真上に見上げる位置まで来ていた。崖の上には巧と同じぐらいの年頃の少女が座っている。
巧ははっと息を飲んだ。少女の少し濡れているような髪の毛の色が、今まで巧が見たことも聞いたこともない、とんでもない色をしていたのだ。
碧、とでもいうのであろうか。
澄んだ深海の色をうつしたような優しく生命にあふれた、青と呼べる限界の、緑がかった青色だ。
少女は、湿っている碧の長く美しい髪を乾かそうとでもしているのか、朝の海風になびかせ、実に楽しそうに歌っている。歌われている言葉は明らかに日本語ではなかった。それどころか、英語やフランス語やドイツ語といった巧の知っているどの言葉でもなかった。が、巧の知っているどんな言葉よりもおごそかで神秘的な響きを持ち、不思議と懐かしい言葉だった。
時々吹く少し強めの風が、少女の着ている白いワンピースの裾を揺らしている。美しい歌声で船乗りを魅了し、船を沈めてしまうという麗しの妖精ローレライのようだ、と巧は思った。
碧の髪の少女がいるだけで、広樹に何度も連れられて来て見知っているはずの砂浜が急に異世界になってしまったように巧には感じられた。
巧はしばらくの間、少女が歌うのをじっと見つめ、聞いていた。目を離さずにはいられない何か人を惹きつけてやまないものが、少女の微笑む整った横顔にあったのだ。
ふと、少女のつぶらな黒真珠の瞳が巧の姿をとらえた。すると、少女は歌うのをやめた。歌うことをやめた少女の顔は一瞬の間に豹変した。天使のように優しい穏やかな表情が、蔑みと憐みが入りまじったものに変化したのである。
少女はすっと立つと、巧に崖の上に登ってくるように手招きをした。巧はさほど苦労せずに登れるような場所を見つけて、その崖を登っていった。
「君の名前は?」
崖を登り切った巧は、少女に尋ねた。
「あなた達に教えられるような、そんな卑しい名前は持っていないわ」
普段ならそれだけで怒りだすような答えだったのだが、その時の巧は、奇妙なことに頭にくることはなかった。
少女の碧の髪がひときわ強く吹きつける風に舞い、双眸が妖しげな光を帯びた。巧は虚ろな目を少女に向け、再び尋ねた。
「じゃ、さっき君が歌っていた歌は何語なんだい?」
「あなた達には絶対操ることが出来ない、我が一族に古より伝わる神の言葉」
風が静かに吹いてゆく。
<この少女は危険だ!>
巧の中で何かがけたたましく警鐘を鳴らす。それでも、巧は少女から目を離すことができない。
少女が、白くしなやかな腕を巧に向かって伸ばす。そして、口をゆっくりと動かした。
「あなたは、地上に住む人のことが好き?」
巧には少女が何を言っているのか、理解できなかった。
少女は薄笑いしながら重ねて問う。
「この星はどう? 好き?」
口の端を意地悪く上げる。巧は、自分が追いつめられているのだと思った。その時まさに、少女は黒い両の瞳で、巧を崖の端に追いつめていたのである。
「わからない……」
そう言って巧は、後退りしながらうしろめたいような気持ちで、少女から目をそらした。
「そんなこと、突然、訊かれても答えられないよ……」
「答えられないですって!」
少女の声のトーンが不自然にワンオクターブ上がった。それには相手を馬鹿にするような響きと悪意がたっぷりとこめられている。
巧が視線を上げ少女を見ると、彼女はまじまじと自分を見ていた。
「こんなことも答えられないの? あなたたちは、みんなそんなものなの?」
少女の声がうわずった驚きのものから、見下すような嘲りの笑いに変っていく。
「なんて情けないのかしら!」
少女は文字通り腹を抱えて笑っている。
その様子を見つめる巧の頭に何かが浮かんだ。それは最初、もやのようにおぼろげだったが、徐々に凝縮されて、一つの感情を形造った。つまり、怒りと呼ばれる激流を伴った感情である。
――俺はバカにされているのか?
今まで感情というものが失せていたように見えていた巧の体が、自身と少女に対する激しい怒りで震えだした。
「反論できて?」
少女が巧の様子を見て、蜘蛛が弱った獲物を糸でからめるかのように揶揄した。
巧はすかさず少女の言葉を打ち消すべく、叫んだ。
「少なくとも嫌いではないっ!」
巧の言葉に少女はびくっと体を震わせた。真顔になる少女。だが、半瞬後には元の蔑んだ笑みに戻っていた。
「それなら賭をしましょうよ」
「……か……け?」
少女は、いっそう唇を歪ませて頷いた。
「ええ。明日の今頃、そこの浜辺に12才の女の子が現れる。名前は、なぎさ。あなたが、なぎさを今度の新月の晩まで守りきれたら、あなたの勝ち。守りきれなければ、私の勝ち。それでいいでしょう?」
「守りきるって……何から? それに、何を賭けるっていうんだ?」
「教えられないわ。それでも賭は賭。私とあなた、どちらが勝つにしても、勝者は得をし、敗者は同じぐらいの損をする」
くすっと微笑む少女。どんなに危険な香りがしたとしても魅了されずにはいられない、小悪魔的な笑みだった。
「このッ!」
少女をつかまえようと素早く手を伸ばす巧。だが、少女は軽やかにかわした。少女と巧の位置が入れ替り、少女が崖に追いつめられた格好になる。
巧は、間髪入れず少女に飛びかかった。
瞬間、少女の体がふわりと空中に浮いた。少女の碧の髪が生き物のように、ざわ、と揺れる。
崖から落ちそうになり体勢を立て直した巧は、呆然として宙に浮く少女を見た。少女は例の笑みを浮かべた口で、余裕あり気に言った。
「少なくとも嫌いではない、か。面白い答え、ありがとう」
そうして少女は、今まで自分の体を支えていた何かの力を急に失ったように崖の下の海に落ちていった。
巧は手を差し出したが少女はそれにつかまろうとするそぶりさえ見せず、大きな水音を立てて海の中に消えた。