外伝
むしゃくしゃしていた。とにかく、むしゃくしゃ。
美雪は今もなお、怒りの収まらない様子で駅のエスカレーターに乗り、奥歯を噛み締めていた。
理由は二つあった。
一つは、大学の友達の紹介で、無理矢理引き合わされた男に会って見れば、白昼堂々ホテルへレッツゴーという運びになり、すでに待ちきれなくなった男がホテルの入り口で抱き付いてきたので、股間を蹴り上げ、鳩尾に左肘を叩き込み、首筋に手刀を打ち、間接をキメて男の財布から諭吉さんを3名救出して、その場を去った。
この前ノートを見せてもらった見返りとしては分が悪すぎる。美雪はミニスカートの裾を掴み、イライラをごまかそうとしたが目の前の男が余計にイライラさせた。
それが二つ目。エスカレーターの左端でバカみたいに太った体を横たわらせて、通せんぼをしている。
関西ではエスカレーターに乗るとき、右に寄せる。ここは大阪。それも天王寺の地下鉄だ。乗り換えの為に急いでいるというのに、男はのっそりと立ったまま動こうとしない。
真夏の、それも昼間とあって暑さはいよいよクライマックスを迎え、大阪の熱気が美雪の怒りをさらに加熱させる。
とうとう耐え切れず――蹴り飛ばした。
だが、男の脂肪が衝撃を吸収したのか、手応えがあっても何の変化もない。4,5発の蹴りをいれても反応がない。テコンドー3段。柔道5段。合気道2段。漢字検定4級。そろばん8級の美雪が放った蹴りを受けても、だ。ちなみにそろばんは小学生の時、母の勧めで習い始めたが、次第に飽きてしまい、そろばんをスケボーのように乗って遊んでいると、母にドツかれた苦い思い出がある。子供の頃の美雪は、とてもやんちゃな女の子だった。いや、それは今も変わらないか。とにかく自分の蹴りを受けて平然としているのを美雪は気になって、横から男の顔を覗き込む。
――気持ち良さそうに立ったまま寝ていた。やがて、エスカレーターは終着点に到達し、男は床の隙間に足をつまづかせてしまい、事もあろうか美雪の上にのしかかって来た。
重さと男の汗で不快感は急上昇である。それでも未だ男が眠っているのは美雪を感心させた。その寝顔は或いは天使の様に見えてしまうから不思議だ。ふと美雪は駅の時計に目を向ける。
授業に遅れるのは確実だった。大学4年目の最後の夏。それも試験前。一番大事な時であるというのに……。
美雪は憎憎しげに男の顔を踏みつけ、ミニスカートである事を忘れ、風を纏って駅のホームへ滑り込んだ。
誠一郎35歳。美雪21歳。これが二人の出会いであった。
大学での授業を終え、ようやく安くてボロいアパートの自宅に帰り着く。このアパートは『出る』事で有名だった。その為家賃は格安で、階段もギシギシとか、ミシミシ言ってスリル満点なので、無料で遊園地のアトラクションを体験できると思えば怖くない。二階の『西村』という表札の前までたどり着き、美雪は、『ただいま』と言って中に入った。だが、それに応える者は誰もいない。
西村 美雪には家族がいなかった。中学に進学して間もなく両親とも事故で亡くなり、祖父母に育てられたが、その祖父母も美雪が高校を卒業すると同時に両親の元へ行ってしまった。
独りなのだ。大学には奨学金を利用して通っているが、将来を特に考えているわけではない。適当に遊んでいい男を捕まえて……そんな軽い気持ちで4年目を向かえてしまった。
自分の体には自信があったし、大学でもミスキャンに選ばれた自分だ。進路に芸能界も視野に入れて良いかもしれない。そんな事も考えていた。
「あ、マヨネーズ切らしてるやん。ソースも……買ってこなあかんかなあ」
自宅でお好み焼きを焼こうと思って台所に立った美雪だったが、買い忘れの品があったことを思い出し、すでに暗くなった大阪の街に飛び出した。
一番安いスーパーを頭の中から弾き出し、年季の入ったママチャリにまたがって急行する。『あと20年もすれば立派な大阪のおばちゃんの仲間入りやな』。と多少苦笑いし、ペダルをこぐ足に力を入れて前に進む。
近頃はヘンな人が多い。この前も夜の公園で男を待ち続けていたら、赤い目を輝かせた何人かの男が美雪を取り囲んで来たのだが、すべて殴り倒してやった。そのあと、大手スーパーのフジタニの制服を着た若い女性がやってきたのだが、無視して家路に着いた。
チカン対策のために身に付けた護身術も、今やプロの格闘家顔負けの実力を有するようになっている。案外この道でも食えるかもしれない。そんな事を考えている間に、目的のスーパーフジタニが見えてきた。
スーパーフジタニで目的の物を手に入れると、再び自転車にまたがろうとするが、男が美雪の前にやってきてそれは遮られる。
「昼間のねーちゃんやないか。えらい効いたでえ、ねーちゃんのパンチ。俺はパンチよりパンツを拝みたいんやけどなあ。治療費慰謝料交通費……全部、体で払ってもらいましょか」
悪徳金融業者の様な口ぶりで昼間の男が美雪の体に触れる。その手を振りほどこうとした時だった。
「ぼ、僕と付き合ってください!」
途端に周囲の視線が美雪たちに集まる。見れば……昼間蹴り倒した男だった。男の顔はなぜかぎこちなく、その上何故か嫌そうな顔である。
「ええぞー丸山田! その女口説いたら、立山さんとことの取引成立やわー!」
男の後ろには顔を真っ赤にして、酔っている中年の男が二人。たぶん、遊ばれているのだろう。大阪のおっさんはこういう事を平気でさせる。さらに、明日になったら『忘れてもうたわあ、堪忍な』くらい言うかもしれない。前にお金目当てで付き合った彼氏が、そんな事をしていたのを美雪は思い出した。
「ぼ、僕と――」
丸山田と呼ばれた男は、昼間の絶対防御の脂肪を展開させる間もなく、運の悪いことに男の拳を急所に何発か受け、崩れ落ちた。
「おい、ワレ。この女はなあ。これから俺のもんになるんや。ちょいだまっとれ」
「誰があんたのもんになるんよ」
美雪のセクシーな足が夜のミナミの街で閃く。右足による上段蹴り、さらに体をひねり、左足で下段蹴りを見舞い、止めにサマーソルトキックでシメた。大学のゲーム好きな男友達は、この一連のコンボを『鳳凰脚』とか『美雪乱舞』とか勝手に名付けてきて迷惑していた。
その超必殺技を食らった男は、白目を剥いて気を失っている。
丸山田はというと、地面にのびていた。振り向き、さっき野次を飛ばしていた中年男を探すが、すでに姿を消した後だった。
「しゃあないなぁ」
美雪は一息つき、丸山田の重い体を担ぎママチャリのかごに無理矢理突っ込んで、自宅へと運ぶ。
とんでもない重労働だった。美雪は自分でも何をやっているのか解らない。なんとなく成り行きで……というよりも、この男があまりにも哀れに見えてしまったのが一番の原因か。
引越しのアルバイトで、冷蔵庫を一人で運んだときよりも手応えが合った。若い女が中年の男をかついでアパートに連れ込む。嫌な噂が立ちそうだったが、気にしない。どうせこの男が目覚めたら、すぐに帰ってもらうつもりだったからだ。
一仕事終え、一息つくと途端にお腹がなってしまった。思い出したようにフライパンでお好み焼きを作り、じゅうじゅうとこんがりと焼けてきた獲物を見て、美雪のテンションは上がる。
冷蔵庫の中からビールを取り出し、宴の準備が整った。いざ、出陣。
「あれ? どこいったんやろ、私のお好み焼き……」
食らうべき獲物がフライパンの上にいなかった。ふと背後で気配がしたと思ったら、美雪は丸山田が一口でお好み焼きを丸呑みした瞬間を目撃する。
「ごちそうさま」
満足そうな笑顔。なんということだろう。一瞬で美雪のテンションは急降下する。
「んー、でもイマイチだなー」
丸山田はMY爪楊枝を胸ポケットから取り出し、イマイチと言う。代わりに美雪の怒りが燃え上がった。
「何食ってんのよ、おっちゃん!」
「牛乳。入れてご覧。きっとおいしいよ?」
丸山田はあくまで冷静なまま、アドバイスする。『大阪人にお好み焼きのアドバイス入れるなんてええ度胸やんか!』あえてこの挑戦を受け、言葉通り牛乳を少々加えてみた。
これは西と東のお好み焼きを掛けた、天下分け目の大合戦である。いや、ここは大阪なので大阪冬の陣か。でも、これがある意味お好み焼き革命ならば、大化の改心かな? 美雪は同じ女として、小野妹子を尊敬していた。が、当然美雪の歴史の成績は3を常に下回っていたので、上の想像も誤解を招かないように、大化の改心に小野妹子は関わっていないし、小野妹子は男性である事をここに明記しておく。
美雪は焼き上がったお好み焼きをさっそく口に運び、大阪夏の陣の開始をその艶やかな唇の動きで宣言される。勝つのは東か、西か――。
言葉が出ない。丸山田の言葉は正しかった。ふんわりと焼きあがったお好み焼きは、美雪を未知の領域へと誘う。食感の四重奏。天国への階段。様々な単語が美雪の頭に浮かんでは消える。
「おっちゃん、あんた何モンなん!?」
振り向いた誠一郎はいつの間にやら寝てしまっていた。あいかわらず、天使の様な寝顔だ。お腹が満月のように膨らんでおり、夜の月光が誠一郎の顔を照らす。
その寝顔に、一瞬見とれる。何故だか自分でも解らないが、見入った。
「ママ、これ超おいしい! なんだっけ、北京ダック? ママの分ももらっていい?」
「いいわよ」
あれから17年経った。今夜手に入れた戦利品に愛娘瑠奈はさっそくがっついていた。誠一郎との愛の結晶『瑠奈』。一度、瑠奈に名前の由来を聞かれた時、『パパと出会ったのは月のキレイな夜のことだったの。だから月の女神様の名前を付けたのよ』と説明したが、実際そうではない。
誠一郎のお腹が満月に見えたからだなんて言ったら、瑠奈は怒るだろうから、真実は隠しておいた。
妻に、母になった事で美雪は変わった。料理の腕も、誠一郎を見返したい一心で格段にうまくなった。
美雪もまた、家族を愛しているのだった。誠一郎が職を失い、ヴァンパイアハンターに転職してもめげないように、美雪もまた。
そして、その日も美雪は誠一郎の帰りを待ち続けたのである。ドデカイ重箱に入った中華料理と一緒に。