第四幕、少女の月
星野凪一は、松葉づえをカッ、カッ、と鳴らしながら歩いていた。
「また人が死んだんだってよ。怖えー。呪われてんじゃねえの?この病院」
「違ぇねぇ。俺の息子もこの通り縮み上がりっぱなしだよ」
「見せんなバカ!ってゆーか見せろ見せて捕まれ」
下らない会話が聞こえ、ばか笑いが後に続く。
確かに、この病院ではここ最近人がよく死んでいる。一番最近のは、宇宙白血病の患者が、自室で首を吊って自殺。一昨日の夜の事だったらしいと、ナギは噂で聞いていた。
発見した看護師と警察以外、昨日までに知っていた人間はいないそうだが、おかしな話だ。隠せる訳がないし、隠す理由も無い。ただ、自殺理由は納得できる。
死んだのは老齢の宇宙飛行士。宇宙白血病にかかったら、死にはしないが飛行士生命は断たれる。しかし、納得いくのはこの点だけだ。実際、殺人だという噂もながれている。
「(テロ事件も、頻発しているしなぁ)」
そう思いながら、自動販売機で缶ジュースと缶コーヒーを買う。
「ま、俺が気にしても仕方ない事だけどな」
ここは病院のロビー。
待合室になっていて、沢山の椅子やソファー、自動販売機がある。
少し行くと売店があって、ナギは毎日そこで電子ニュースの端末を買って、小型の読み取り器でその日の出来事を知る。
今日の一面は、テロの速報だった。最近、まるでテロ行為がブームかのように月中で起きていた。
あの忌々しい事件がきっかけで、『人類は宇宙に出るべきではなかった』だのなんだの言いやがる過激派組織、スペース・バリア・ラインはバラバラになったのだが、今度はそのバラバラになった個々の集団でテロ活動を始めやがった。集団が多くなった分、余計に厄介だ。喫煙所や公衆トイレが、その標的らしい。
「(せいぜい一生懸命やってくれ。俺は、ここで骨折と骨粗鬆症の治療をしている間、暇にならなきゃそれでいい。あの嫌な思いは金輪際したくない。俺は傍観者であり続ける)」
そう思いながら、ナギはルナのもとへと歩を進める。
さっき、ぶらぶらと待合室を歩いていたら、ソファーに座っている彼女を見つけたのだ。
別にナギはロリコンとか変態では決してない。ただ、病院での入院生活は暇すぎた。言い方は悪いが、その暇つぶしになるのなら何でも良かった。もしセラを見つけていたら、セラに話しかけていただろう。
ルナはソファーにだらりと腰掛けて、虚ろな目でじっと何もない天井を見つめていた。
「宇宙リンゴジュース、いる?」
彼女の目の前に、ジュースをちらつかせる。
しばらくして彼女は気付く。ハッとしたような目で、こちらを見る。
「・・・・・・・・・」
無言で見つめてくる。虚ろな目が、少し怖い。
「今日会った星野凪一だよ。覚えてる?」
今朝と大違いのルナに驚くが、懸命に優しく言う。―――と、彼女は急に何を思ったか、頭を振り出す。
「分からなきゃ。分からないと、みんなのために」
独り言のようだ。ナギは黙って横に座り、松葉づえを立て掛ける。彼女を抱え込むように、長い黒髪をなでる。
しばらく撫でていると、ルナは落ち着いたようだった。
「す、すいません」
顔を赤らめて、慌てて姿勢を正す。ナギは払い除けられる。やっぱり、まだ男には免疫がないようだ。
「宇宙リンゴジュース、いる?」
もう一度聞く。
「・・・う、宇宙リンゴって、月で育てたリンゴですよね。その・・・、放射線をたくさん含んでいたりするから、食べちゃいけないってフィーに言われた事があるんです。特に、私達は体が弱いから」
長い体躯を折り曲げて、膝に顔を突っ伏しながらルナは言う。おどおどとしながらも、少し嬉しそうに聞こえる。
「そんなの、俺達だって飲まないよ。よくは知らないけど、品質は地球のと全く変わらないって。だから、はい」
彼女の手に缶を当てる。
「ほ、他のならいいです」
「なんでなの?」
優しく、優しく。
「なんでも男の言う通りにするな、っていつもセラに言われているんです」
セラちゃんの事になると、急にはっきりと言う。それだけ信頼しているのだろう。彼女の顔はこちらを向き、その目は虚ろではなかった。
「今朝俺が持ってきたオーロラモナカは、セラちゃん素直にもらってたけど?ルール違反じゃないの?」
「セラがいいって言ったらいいんです。それに……」
それに、の後は「いきなりのイケメンに見とれていた」と続くのだが、ルナは赤面し、鈍感なナギは気がつかない。
「はいはい。では、何がよろしいですか?お嬢様」
ソファーから降りて、片足を立て、うやうやしく言う。ルナはクスリと笑って、
「召使さん、ココアを持ってきなさい。ミニッツ社のアイスココアですよ」
楽しげに乗ってくる。全く、子供ってのは現金というか何というか。さっきまで虚ろだった目はにこやかだ。
「かしこまりました。お嬢様」
またうやうやしく言って、松葉づえを取り、カツン、カツンと自動販売機へと戻る。
『ガコン』
受け取り口からココアを取出し、少し落ち着く。
カツン、カツン。
最初はこの音も耳障りだったが、一応慣れた。基本無音の宇宙空間で仕事をしていると、耳が退化しているような気がする。
ルナの元に戻ると、数人の大人が彼女を取り囲んでいた。一人がナギに気付くと、一斉に去っていった。
「彼らは何?」
またソファーに腰をおろして聞くと、
「私のファンだよ」
にこやかに、自慢気に言う。すでに完全にタメ語だった。
「へぇ、人気者なんだ」
わざと驚いたように言うと、ルナは、怪訝そうに、
「ナ、ナギもそうなんでしょ?」
「そうって、何が?」
意地悪くとぼける。
「…私のファンだって事!」
急に顔が赤くなる。さすがに恥ずかしそうだ。
「俺はルナちゃんのファンなんかにはなりたくないよ」
不意討ちのようにルナの目を見て言う。彼女はただ、「え…?」と反応に困っているように視線をナギに向ける。
「ファンじゃなくて、恋人同士になりたいんだ。いいかな?」
軽く笑みを浮かべる。我ながら臭いセリフだが、まだ九歳のルナには十分すぎるだろう。
返事はもちろん『YES』だった。そして二人はいろいろな事を話す。とりとめもなく。ただ、ナギは一つのルールを決めた。ルナにとって今一番つらいだろうこと、―――人が死んでいっているという『悲しい現実』―――を今この間だけでも忘れさせてやることだ。
「──ナギって何の仕事してるの?やっぱり力仕事?」
「デブリ屋。分かる?」
ルナは首を振る。
「えっとな…、簡単に言えば宇宙のゴミ掃除屋だな」
「地味…だね」
「地味だろ」
ナギが言うのと同時にルナががっかりしたように言う。きっとセラちゃんの今の彼氏が体育会系で格好良い仕事なのだろう。二人でクスクスと笑う。
「でもな、ゴミ掃除っていっても地上のとは訳が違うんだ。何がだと思う?」
「何?」
「地上のゴミは止まっていて、宇宙のゴミ──つまりデブリは──動いているって事だ。しかも、秒速八秒でな」
「秒速八秒…」
ルナが驚いたように呟く。実感はできなくても、とにかく速いのは理解できるのだろう。
「そんなに速いのが宇宙船にぶつかったらどうなると思う?」
「…穴が、あく?」
「ああ、小さなネジ一本でも、当たりが悪ければそうなる。じゃあ、もっと大きな物──そうだな、この松葉杖くらいの大きさのゴミだったらどうなる?」
「こわれる?」
「ああ、だから俺達がいるんだ。小さなネジとかはなかなか拾えないけど、大きな人工衛星の残骸や太陽電池パネルの残骸が無くなるだけでずっと安全になる。この宇宙にはそんなのが溢れかえっているからね。立派な仕事だろ?」
「うん。それでね、ナギ───」
ルナは何か言おうとしたが、口を止めた。音楽が流れてきたのだ。
穏やかで、優雅で、それでいて力強いクラシック。
「お、今日は『美しく青きドナウ』か。いいな、宇宙らしくて」
この病院は、就寝時間を知らせるのにクラシック音楽を使う。それは誰が決めるのかは知らないが、三十曲くらいを気まぐれで流しているらしい。
ルナが?マークを頭に載っけてこちらを向いてくるので、ナギは簡単に説明してやる事にする。川の名前と宇宙が全く繋がらないのだろう。当たり前だ。ある映画を見ていなければ、共通点なんて無い。
「ドナウ川って知ってる?」
「名前だけは……。地球の川だよね」
「(地球以外の川なんて天の川しか無い。俺の前で少しでも見栄を張りたいのだろう。とんちんかんな答えに笑いそうになるが、堪える。健気で可愛いいじゃないか)」
「ああ。ドナウ川ってのは、ヨーロッパにある国際河川で、この『美しく青きドナウ』はその優雅に流れる川を讃えた曲だ。」
「こくさいかせん?」
「いくつかの国をまたがって流れている川の事だよ。で、この曲と宇宙の共通点だけど──」
クスリとルナが笑うのに気づいて、
「なんだ?」と言うように目線を向ける。
「ナギったら、アンナみたいなんだもん」
アンナ──。ルナ達の先生か。黒人で背が高いのが印象的だったが。そうか、確かに教師のように喋りすぎたかな。
「ごめんごめん。
ちょっと一方的に喋りすぎた。でも切りの良いところまでいわせてくれな」
ルナがうん、とうなずくのを見てから続ける。
「古い映画に『2001年宇宙の旅』っていうのがあって、それの挿入歌にこの『美しく青きドナウ』が使われたんだ」
天井を指差しながら早めに切り上げる。これ以上言っても何がなんだかよく分からないだろう。
「そうなんだ。いい曲だよね」
ルナはなぜか恥ずかしそうに笑って、
「――――それでね、ナギ。…今から行きたい所があるんだけど……」
ルナはナギをを見つめる。正直涙目の上目遣いを希望したかったが、長身で正念場な今のルナには望めないようだ。アホな考えは止めることにする。
「どこだ?」
「行けば分かるよっ」
急に、満面の笑み。セラちゃんと同じ事が出来てよほど嬉しいのだろう。こんなに喜んでくれるなら、ナギも嬉しかった。どこなんだろうかと思いつつ、ソファーから立って、ルナと共にそこへと向かった。これから起きる事を予想もせずに。
***
「──―あと少し」
ルナが呟く。二人は静かな路地を歩いていた。ナギは静かなのは仕事上慣れきっているはずなのに、カツン、カツンと鳴る松葉づえの音が妙に気味悪かった。職業病だろうか。
「なあルナ、どこに行くのかそろそろ───」
ルナの
「しー!」
という顔面に迫りくるようなジェスチャーに、思わず口を閉じる。
「ばれちゃだめなの!」
ひそひそと言うルナを見ながら、たいして大きな声じゃなかったよなぁ、と思う。しかし、それは当然なのかもしれない。なぜなら、彼女の心臓が飛び出る程にバクバク言っているのが見るだけで明らかなのだから。ナギは黙って、後をついて行く事にした。本当はどこに行くか見当はついていたが。
「つ、ついたよ…ナギ」
ルナが呟く。その立ち姿たるや、今にもへなへなと倒れてきそうだった。この状態でZPS(宇宙服の一種)を着られるのだろうか?ちょっと心配だ。そう思いながら、あたふたとZPSを持て余しているルナを手伝う。
白く細い腕に触れ、可憐な横顔をみつめる。
可愛いな、と本心から思う。なぜだかこっちも緊張してしまいそうだ。
ルナがここに来たがったのもそうだ。
ここは気密扉。月面への出口だ。
ナギにとっては何の変哲もないものだが、ルナは違う。体が弱いから、『万が一の事が──』と来る事を禁止されていた。
しかしまあ、一昔前の映画の老刑事の言う通り『ルールは破るためにある』のであり、実はセラは内緒で男とここに何度も来ていた。それをずっと真似たくて、今実現できそうな今のルナの乙女度と緊張は、正に計り知れない。
「よし、これで完成だ」
言いながら、メットを被せてボンベをセットする。着ぶくれても可愛いな……というか、この状態で月面に出て大丈夫なのか?と正直心配になる。もちろん看護師に連絡を取るというような、ルナの心を打ち砕くような事などしたくもないのだが……。
「(ま、自分から乗ってきた船だし、しっかりお嬢様をエスコートしてやるか)」
からり、と思い、俺も準備するか、とナギはZPS置き場で自分に合ったものを探す事にする。
着終わって、ルナをそっと抱き寄せる。
「行くよ」
開閉ボタンを押すと、エアロックが静かに開く。
「うん、ナギ……」
「何?」
「手、…つないで」
「お嬢様のおっしゃる通りに」
ルナの手を握ると、彼女の顔がいくらかなごんだ。共に数歩歩いて、立ち止まる。
広がるのは、無数の星々と、無数のクレーターが形作る灰色の海。
「(俺の目にはただ見慣れた殺風景にしか映らないが、ルナの目にはどう映っているんだろうか。母なる大地か、セラちゃんが大きく手を広げる聖地か、それとも、写真や映像でしか見た事がないであろう青い海か。もしかしたら、彼女の目には暖かな日差しが映っているのかもしれない)」
「どうだい?初めてお忍びで来る月面の感想は」
無線機で言う。しかし、
「……………」
返事はない。見ると、ただ前を見据えて立ち尽くしているようだった。彼女の目は、一体何を映しているのだろう。
「もう少し歩こうか?」
しばらくそのままにしてあげてから、言う。
「…うん」
どこか悲しげな、しかしとても充実感を感じられる「うん」だった。もしかしたら、『悲しい現実』をおもいだしてしまったのかもしれない。もしそうなら、俺はルールを破ってしまった最低の人間だ。世の中には、破って良いルールと決して破ってはいけないルールがある。前者は他人が勝手に決めた納得できないルール。後者は、自分で決めた他人の為のルールだ。
「ごめんな」
小さく言って、ルナが「え?」と言う前に
「競争だ!」
わざとふざけて言いながら松葉杖を月面に押しつけて高らかに跳ぶ。しかし、
「な…ナギ!」
無理に着地し、すぐに斜め後ろを振り向くと、ルナは足を震わせながらへたり込んでいた。
「大丈夫か!?ルナ」
「あ、足が、動かないの」
その声には、恐怖と安心感が混在していた。
「心配するな」
優しく言いながら、抱き起こす。なんとか立てたが、ナギが支えてやらないと今にも倒れてしまいそうだ。
「…帰る、…か?」
言うと、悲しそうな顔をする。涙がこぼれ落ちてきそうだった。悔しいのだろうか。ナギはルナはセラちゃんより体が弱いと聞いていたので、なおさら気をつけたかったのだが……。
「(しゃーないか)」
思って、ルナと月面の間に手を差し込む。右手は首筋に、太ももあたりに。そうして、一気に持ち上げる。こうして見ると、彼女の身長の高さがよく分かる。たしか165センチ。まだ九歳なのにな。
なんとも言いようの無い気持ちに襲われながら、ルナのおでこに──メット越しだが──キスをした。
「な、ナギ〆〇×≠$¥$≠×」
「(ほとんど言葉になってない。可愛いよ、ホント)」
「さ、少しお姫様のお散歩と参りますか」
言って、月面を軽く蹴る。6分の1G(重力)のおかげで重さはほとんど感じない。地球なら幅跳び選手になれるくらいに跳び、綺麗に着地を決める。 ルナを見ると、パニックは治まっていないようだった。
むしろ助長させてしまったかもしれない。ナギは調子に乗った自分に反省する。
「(もうこれ以上は何もしない、何も言わない方がいいな)」
帰ろうかと思い、顔を上げる。と、目の前に何か青く光るものが映る。
「地球、か」
人類に蝕まれているその星に、思わず見とれてしまった。見慣れているはずだが、この星だけは別格の輝きだった。『神はいなかった』と言ったのはがガーリンだったか。確かにその通りだ。地球には神はいなく、地球は神ではない。ただ様々な生物と同じように、輪廻転生の中で笑い、苦しみ生きる存在なのだ。だから、俺の心を打つ程に、いとおしい。
ナギはルナを静かに下ろし、両手両足を大の字に広げる。地球は儚く愛しい。だからこそ、エネルギーに溢れている。神であろうとなかろうと、そのエネルギーを浴びたいという感情は、ごく自然なものだ。
ナギは、地球と一体化したような、不思議な気持ちになっていた。母親に抱きつくのと、同じように。だから、ナギは気づいていなかった。音もなく近づくジープに。ルナがそれに気付いて叫んでいることにも。