第二幕、白と黒の世界
呪いで人が死んでいく。
そんなものは小説の中だけのものだと、フィー・マックフィールドは思っていた。非現実的なものなど、彼女は信じない。けれど、これは現実だった。まるで呪いのように、患者達が死んでいく。
ここは月の病院。本格的な治療は地球に戻してから行う事が多い。だから、一月の間に何人もの人が亡くなるというのは、普通には考えづらい事だった。
子供の時に見た漫画とかみたいに、頬をつねったら夢だった──そうなればいいと何度思ったか。けれど、そんなことをしても腫れた頬に悲しさが倍増するだけだった。
「(この現実が嘘になるなら、ルナやセラが楽しく笑っていられるなら、この顔が何倍にも晴れてもいいと本気で思っているのに……)』
暗い、生物感のあまり感じられない廊下を歩いてドアを開けると、眩しい程の光と蒸気を勢いよく吹き出しているヤカンがフィーを待っていた。
「お疲れさま。その顔をみると、今日は何も無かったみたいね」
はあ、と大きなため息をついていると、先にこの休憩室に来ていたフィーの同僚のリュシー・グレイスが言う。ブロンドのカールしたセミロングヘアがふわりとゆれ、電気コンロを止めた。
『今日は何も無かったみたいね』か。
聞きたくないセリフだった。
「なにそれ皮肉?まぁ、ジェフのバカの布団を掛け直してやった事と、頭の中が二十歳くらい若返ってるヒコネのアンポンタンをトイレに連れて行ってやったくらいかしら。特に何も起こらなかったわ」
ソファーにどかっと座って、中指を終始上に向けながら、フィーは答える。未だにいるのだった。看護師を母親代わりだと思っている男が。
「全く。母親とか白衣の天使とか、いつの話よ!懐古主義的なこと言っちゃって!看護師なんて所詮他の職業と同じ、ビジネスだってのに」
「患者さん達をあんまり悪く言わないの。彼らにとってはいつまで経っての私達は白衣の天使であり、母親なんだから。……いくらこんな状況だからって、神経質になっちゃだめよ」
前半は白けながら、後半は諭すようにリュシーが言う。その通りだ、とフィーは思う。リュシーの言う通りだった。
でも、今の彼女には、何かに怒りをぶつけるしかなかった。悲しみと恐怖を打ち消すためには。
「トムったら、また採血に失敗して血液を撒き散らしたのよ。全く、どこの男もバカよね───」
「ルナちゃん」
小さな一言で、フィーは言葉を詰まらせる。
「ルナちゃんはどうだった?セラちゃんが一緒なら大丈夫だとは思うけど」
「(お願い、リュシー。そんなにストレートに言わないで)」
その何気ない一言はフィーの心を突き刺し、今にも胃液が飛び出してきそうだった。言っているリュシーもこれでも悔しい。そんなことは、フィーは百も承知だった。悲しいのも知っていた。
でも、でも、でも!……
理性では制御できなかった。セラとルナは、もはやフィーにとって地球に残してきている家族より、ずっと大切な存在だった。彼女達が泣いていると、フィーはそれだけで心が痛くなる。
「だ、大丈夫、大丈夫。セラがちゃんとあやしてあげてた。あのアジア人姉妹に怖いものはないわね」
無理矢理笑う。涙が一粒、頬をつたった。
「──取り敢えずカップメンでも食べましょ。お腹すいたでしょ」
フィーをじっと見つめてから、リュシーは言う。これが彼女の気の使い方なのだった。フィーは小さな声でそれに合わせる。
「何があるの」
「ブラックホールヌードルとホワイトホールヌードルっていうのがあるけど?」
「何それ。イカ墨とホワイトソースでも入ってるの」
ほとんど棒読みだった。
「(早く終わって!)」
「正解。ホント、そのまんまのネーミングね。で、どっちにする?」
「イカ墨」
限界だった。フィーは膝に顔を突っ伏す。真っ白な生地に、染みがひろがっていく。暗い世界で、一人ごちた。
「はい。あなたのは先にお湯いれたから、後二分待ってね」
リュシーの声が、フィーを現実世界に引き戻す。科学的な匂いが、鼻を突き抜ける。その複雑でいかにも体に悪そうなそれは、いつもなら彼女の好きな匂いだった。今は心が受けつかなかった。
ぐぅ
でも、お腹はすく。
「(食べないとルナとセラを守れない。………食べなきゃ…)」
「フォーク!」
思わず叫んでいた。暗い世界に戻りたかった。
「もう?まだ固いわ──」
「いいから!」
叫ぶ。
「(私は、どうしたらいいの?)」
リュシーが持ってきたフォークをわしずかみにして、蓋を破り捨てたカップに突き刺す。黒い塊を口に詰め込む。強引に、飲み込む。感じる味は、涙と鼻水の塩分だけだった。
「・・・フィー」
リュシーの声がして、フィーは涙を拭って顔を上げる。
「いつものあなたはS気味で、男勝りだった。猪みたいに猛進したりして、正直、繊細さも必要なこの職業にはむいてないとすら思ったこともあった」
リュシーは言いながら、お湯を注いだカップメンを机に置く。
「でも私達は普通の看護師とは少し違う。あの子達の親代わりでもある。そういう意味では、陰と陽といってもいいくらい両極端なあたし達はベストコンビと言えなくもない。年頃の少女には、なるべく色々な種類の人間と係わらせてあげた方がいい。同年代の子供がほとんどいないこの環境では、その役目を果たすのはあたしたち看護師がもっとも身近よね。
あの子達はあの子達で他の患者さん達と仲良くなったりしているけど、それでも一番頼りにする存在はあたしとあなた、二人のお母さんよ。まあ、あの子達からしたらあたしは捨てられた女らしいし、あたしから見たらあなたはどう考えても父親だけどね」
リュシーはカップメンのふたをはがし、箸を器用に使って麺を口に運ぶ。フィーはブラックホールのようなうつろな目線をリュシーに向けたまま、一言も発さない。
「まあ、何を言いたいかって言うと、泣いてもどうにもならないってこと。セラはルナを守るってよく言っているけど、あたし達は二人まとめて守る存在。今のあなたみたいに自分の世界に引きこもって、現実から目を背けていい存在じゃない。あたしたちが、あの子達の心の故郷になってあげないといけないの」
「リュシー……」
フィーはふと、呟く。なんとなく、頭に浮かぶものがあったのだ。
「何?」
「何か、知ってるの?」
「何かって、何よ」
「あの子達を苦しめている元凶。呪いの正体」
「何よ、急に。あたしもあなたと同じ、何も知らないわ。まああたしは、呪いなんて存在、信じてないけどね」
言って、リュシーは一口麺をすする。
「なんであなたがそんなこと言い出したのかは分からないけど、あたし達の役目は『親』であって、警察ではないわ。優しく見守ってあげようじゃない」
リュシーは軽く微笑む。フィーには、彼女の言葉には裏があるように思えたが、追求する元気なんて残ってはいない。
「…………」
沈黙が続き、ピー、と突然音が鳴る。その方向を見ると、リュシーは胸ポケットから通信機を取り出していた。
「さっ、そろそろ仮眠を取りましょ。明日も長い」
その言葉に、フィーは渋々したがった。これからの闇に怯えながら。