最高の付与師は、みんなの幸せも願う
ダンジョン中層、第七階層。
森を模した広大な空間に、轟音が響き渡った。
「撤退だ! 全員、走れ!」
剣士のレオンが叫ぶ。
その背後から、巨大な魔獣が迫っていた。
グランドボア亜種。
全長五メートルを超える巨体に、岩をも砕く二本の牙。全身を覆う黒い毛皮は魔力を帯び、並の剣では傷一つつけられない。
中層で遭遇する魔獣としては、明らかに規格外だった。
「くそっ! こいつ、なんでこんなところにいるのよ!」
二本の短剣を握るミリアが叫ぶ。
「文句は帰ってから言え! ドーガ、殿を頼む!」
「おうよ!」
大盾を構えたドーガが足を止め、魔獣に向き直る。
レオンとミリアが左右に展開し、後衛のシエラが杖を構えた。
6人パーティー。
盾役と前衛アタッカーが二人、後衛魔法使いが一人、回復師が一人、そして付与師が一人。
役割分担は完璧だった。
付与師トビアスの能力強化があれば、レオンとミリアの攻撃力は跳ね上がり、ドーガの防御力は鉄壁となる。シエラの魔法も威力と射程が伸び、回復師エマの治癒魔法は少ない魔力で大きな効果を発揮する。
この五人だからこそ、中層まで潜ってこれた。
だが、どれほど優れたパーティーでも、想定外の敵を相手にすれば崩れる。
「シエラ! 目を狙え!」
「分かってるわよ!」
「《フレイムランス》!」
炎の槍が魔獣の顔面に炸裂する。
わずかに怯んだ。
その隙に、レオンが剣を振り抜き、ミリアが脚へ斬りかかる。
しかし、刃は黒い毛皮に弾かれた。
「硬すぎるでしょ!」
ミリアが舌打ちする。
グランドボアが頭を低くした。
「避けろ!」
ドーガの声と同時に、魔獣が突進しはじめた。
レオンとミリアは左右へ飛び退き、シエラも後方へ転がる。
魔獣はそのまま、大木へ激突した。
轟音。
「……え?」
誰かが間の抜けた声を出した。
大木が勢いよく倒れてきた。
倒れる先にいたのは、後方で支援を続けていたエマとトビアス。
「エマ! トビアス!」
レオンが叫ぶ。
逃げる間もなかった。
大木が地面に叩きつけられ、土煙が舞い上がる。
静寂は、一瞬だった。
「う……あああああっ!」
トビアスの悲鳴が響き渡った。
彼の右足が、倒木の下敷きになり、折れた骨が突き出ている。
すぐそばでは、エマが頭から血を流し、目を閉じている。
「エマ! おい、しっかりしろ!」
レオンが駆け寄り、肩を揺すった。
反応がない。
「生きてる!気を失っただけだ!」
シエラの顔から血の気が引いた。
回復師が意識を失った。
付与師は身動きが取れない。
魔獣は健在。
そして、ここはダンジョンの中層だ。
救援など期待できない。
「……レオン」
ドーガが低い声で呼んだ。
レオンは仲間たちを見回した。
撤退するなら、今しかない。
しかし、エマとトビアスを担いでとなると。
「撤退は中止だ」
レオンは剣を握り直した。
「ここで食い止める。ミリア、俺と一緒に前へ。ドーガは二人を守れ。シエラは援護を!」
「了解!」
「当たり前でしょ!」
三人が動き出した。
戦況は、さらに悪くなった。
回復師の支援がない。
付与師も倒木から動けない。
トビアスは痛みに耐えながら、残った魔力を絞り出して仲間に強化魔法をかけていた。
「《筋力強化》……《反応速度強化》……!」
レオンの剣が速くなる。
ミリアの足が軽くなる。
ドーガの盾が魔獣の突進を受け止めて勢いを逸らす。
それでも、傷は増えていった。
「くそっ!」
レオンの腕から血が滴る。
「くそ、くそ、くそっ!」
トビアスは拳を握りしめた。
自分が動ければ。
自分が前に立てれば。
いや、そんなことを考えても意味がない。
今できることをするしかない。
だが、魔力が尽きかけていた。
指先が震える。
視界が霞む。
このままでは、全員が死ぬ。
あと数分。
いや、数十秒かもしれない。
無意識に服の上からタリスマンをつかんだ。
(じいちゃん、絶体絶命だ)
すると胸のタリスマンから魔力が溢れ出し、トビアスはその魔法を理解した。
「そうか、じいちゃん、すごいもんくれたんだな」
トビアスは倒木に手をつき、歯を食いしばった。
「シエラ!」
「なによ!」
「魔獣の左顔に爆発魔法!」
「はあ!?」
「いいから撃て! 目じゃない、左の頬骨のあたりだ!」
シエラは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに杖を構えた。
「《エクスプロージョン》!」
爆発が魔獣の左顔面を包み込む。
グランドボアが悲鳴を上げ、頭を振った。
左目の周囲から血が飛び散る。
「効いてる……!」
「レオン! ミリア! 右に意識をそらせ!」
二人が飛び込んだ。
レオンが右側から剣を振り下ろし、ミリアが右足の傷を付けるように突き立てる。
魔獣が激しく暴れた。しかし、倒れない。
むしろ怒り狂い、地面を踏み鳴らした。
「トビアス!どんな策だ!」
「ドーガ! エマを担げ!」
「おう!」
「三時の方向! みんなあの大木の前まで下がれ!」
「三時って、右か!?」
「そうだ! 早く!」
ドーガは盾を構えたまま気絶したエマを抱え上げた。
レオンとミリアも魔獣の意識をそらしながら移動する。
「シエラ! 魔力を残せ! 次が最後だ!」
「最初から残ってないわよ!」
「それでもだ!」
全員が動き出した。
トビアスは、震える手で腰の道具袋を探った。
解体用の短剣。
そして、足を縛るための革紐。
彼はみんなに指示を出しながら自分の右太ももをきつく縛っていた。
ひざ下からは骨が折れて飛び出ている。
「……よし」
彼は短剣を抜いた。
「シエラ! 最後だ! やつの顔にお見舞いしろ!」
そして手頃な枝を食いしばる。
「帰ったら奢りなさいよ!《エクスプロージョン》!」
直後にボアの顔に炸裂した爆発魔法。
同時に自分の右足を、付与魔法をかけて強化した腕で切断した。
意識が飛びそうになる。
痛みで吐き気が込み上げる。
「トビアス……? お前、何を……」
だが、まだだ。
そして、自分自身に付与魔法をかける。
「《痛覚遮断》……《身体強化》……《魔力循環加速》……」
途切れかけていた魔力が、無理やり身体を巡り始めた。
皮膚が裂けそうなほど熱い。
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
普通なら、そんな使い方をした時点で身体が持たない。
だが、トビアスは笑った。
「……はは。じいちゃんの言ってた通りだな」
自分の胸にぶら下げていた、小さなタリスマンを握り直す。
古びた護符。
中央には、赤い石が埋め込まれている。
子供の頃、祖父からもらったもの。
祖父は、最高の付与師だった。
剣士に力を与え、魔法使いの魔力を増幅し、王国の騎士団を何度も救ったという伝説の付与師。
しかし、祖父が人生の最後に使った魔法は、戦争のためでも、名誉のためでもなかった。
祖母と出会い、恋をして、結婚した。
そして、祖母と二人で静かに暮らしたいと願った。
その願いを叶えるために、祖父はすべての技術を注ぎ込んだ。
あらゆる付与魔法の理を組み合わせ、たった一つの願いを形にするために作った魔法。
それが、このタリスマンだった。
『トビアス。いつかお前にも好きな人ができたら、使うといい』
幼い頃、祖父はそう言った。
『最高の付与魔法ってのはな、誰かを強くすることじゃない。誰かが幸せになる未来を、諦めずに残してやることなんだ。そのためには相当な覚悟がいる』
当時のトビアスには、意味が分からなかったけれど、今なら分かる。
祖父が笑っていた理由がこれか、どうせ発動できないと笑われたんだろう。だけど、相当な覚悟だよな、これは。
トビアスはタリスマンを握りしめた。
「……みんな、ごめん」
「トビアス!?」
トビアスの動きにレオンが叫んだ。
だが、もう遅い。
タリスマンが赤く輝き始め、魔獣がこちらを向く。
シエラが息を呑んだ。
「待って……なにするつもり?」
「トビアス、こっちだ!」
レオンが叫ぶ。
しかし、トビアスは笑っていた。
不思議なほど、穏やかな顔だった。
「大丈夫。僕、付与師だからさ」
みんなには聞こえなかっただろうけど。
残った片足、ひざ下がない足で地面を蹴った。
魔獣へ向かって走る。
いや、走るというには、あまりにも不格好だったが。
グランドボアの振り上げた前足の前にでる。
「トビアス!」
レオンたちの声が重なった。
巨大な足の爪が振り下ろされる。
トビアスは、その一撃の下へ潜り込んだ。
魔獣の腹の下。
牙も届かず、爪も届かない場所。
そして、タリスマンを強く握り締め、
「――《幸福への付与》」
最初は、小さな光だった。蛍のような、頼りない光。
だが、それは瞬く間に膨れ上がり、魔獣の巨体を包み込んでいく。
白い光。眩しいほどの光。
魔獣が咆哮する。
トビアスは、そっと目を閉じた。
「そうだよ……」
誰にも聞こえない声で、つぶやく。
「好きな人には、死んでほしくないからね」
レオン。
ミリア。
シエラ。
ドーガ。
エマ。
みんな、生きてほしい。
生きて、笑って、誰かを好きになって。
失敗して、喧嘩して、仲直りして。
いつか、自分の知らない誰かと幸せになってくれればいい。
「幸せになってほしいんだ」
トビアスの目に涙が滲む。
「それが、僕の幸せさ」
光が弾けた。
魔獣の巨体が、光の粒子へと変わっていく。
トビアスの身体もまた、足元から光に溶けていった。
声はない。
痛みもない。
ただ、あたたかな光の中で、彼は祖父の笑顔を思い出していた。
やがて、すべてが消えた。
魔獣も。
付与師も。
そこに存在していた痕跡さえも。
残されたのは、倒れた大木と、血の染みた地面。
そして、呆然と立ち尽くす四人だけだった。
*
最初に動いたのは、ミリアだった。
「……嘘」
彼女は地面を見つめた。
「嘘でしょ。トビアス……?」
返事はなかった。
シエラは杖を取り落とし、その場に膝をついた。
「なんで……」
ドーガは盾を地面に置き、顔を覆った。
レオンは、ただ拳を握りしめていた。
助かった。全員、生き残った。それなのに。
「……くそっ」
レオンの声が震えた。
「くそっ……くそおおおおおっ!」
彼は地面を殴った。
何度も。
何度も。
剣士として、リーダーとして、仲間を守ると誓った。
それなのに、最後に仲間を守ったのは、自分ではなかった。
戦闘の後、エマは意識を取り戻した。
彼女は四人から事情を聞き、静かに泣いた。
数日後。
ダンジョンの入口近くにある冒険者ギルドで、四人は一枚の依頼書を見つめていた。
依頼内容は、魔獣討伐の報告。
報酬欄には、彼らが受け取るはずだった金額が記されている。
「……なあ」
ドーガが言った。
「トビアスなら、この金で何を買ったと思う?」
ミリアは目元を拭った。
「おいしいもの、いっぱい食べるんじゃない?」
シエラは小さく笑った。
「新しい付与魔法の本を買うわよ、きっと」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……あいつは、自分のためには使わないだろうな」
四人は顔を見合わせた。
やがて、誰からともなく笑った。
涙を流しながら。
その日、彼らは決めた。
これから先、どんな危険なダンジョンへ行くことになっても、どれだけ強い魔獣と戦うことになっても。
必ず全員で帰る。
仲間を一人も失わずに。
それが、最高の付与師が最後に残した願いなのだから。
誰も、トビアスのことを忘れない。
彼が何を考え、何を願い、何を残したのか。
それを知る者がいなくなっても、彼らは覚えていようと誓った。
*
その夜。
どこか遠い場所で、一人の老人が目を覚ました。
「……ん?」
隣では、白髪の女性が穏やかな寝息を立てている。
老人は彼女の手を握り、ほっとしたように笑った。
「……そうか。あいつ、使ったんだな」
彼は、かつて最高の付与師と呼ばれた男だった。
そして、孫にタリスマンを渡した男だった。
老人は窓の外を見つめた。
「まったく……最後まで、お人好しなやつだ」
そう言いながら、目尻を拭った。
隣の女性が目を覚ます。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
老人は笑い、彼女の手を握り直した。
「ただ……いい孫を持ったなと思ってね」
女性は微笑んだ。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
その星の一つが、ほんの一瞬だけ、あたたかな金色に輝いた。
まるで、誰かの幸せを祝福するように。
――最高の付与師は、最後まで誰かの幸せを願い続けた。
そして、その願いは確かに、世界へと届いていた。
「……何言ってんだよ」
光の中で、トビアスは呆れたようにつぶやいた。
「自分も幸せになるために使ったんだよ」
目の前には、見慣れた祖父の背中があった。
白髪交じりの髪。少し曲がった背筋。いつも腰に下げていた道具袋。そして、何か面白いことを思いついたときに浮かべる、いたずらっぽい笑み。
間違いない。
子供の頃から、何度も見てきた姿だ。
「じいちゃん……?」
「おう」
祖父は振り返った。
「久しぶりだな、トビアス」
「いや、久しぶりって……え? ここ、どこ?」
「さあな」
「さあなって……」
「ワシも初めて来た」
「じいちゃんも分かんないの!?」
思わず大声を出した。
祖父は豪快に笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、トビアスの胸がぎゅっと締めつけられた。
もう二度と聞けないと思っていた声。
もう二度と会えないと思っていた人。
会いたかった。
ずっと、会いたかったのだ。
「……じいちゃん」
「ん?」
ーーずっと前に死んじゃったんじゃ。
そうか、自分も死んだんだろう。
「僕、ちゃんと使えたよ」
祖父の笑みが、少しだけ深くなった。
「ああ。見ていたぞ」
「みんなを助けたんだ。魔獣も消えた。これで、みんなはきっと助かる」
「そうか」
「うん」
トビアスはうなずいた。
そして、少しだけ視線を落とす。
「……でも、僕も消えちゃったみたいだけど」
「そうだな」
「そこは否定してよ!」
「いや、実際に消えたんだろう?」
「そうだけどさあ!」
祖父はまた笑った。
トビアスは頬を膨らませた。
昔からそうだ。
この祖父は、人が深刻な顔をしていると、わざと冗談を言う。
けれど、今はその冗談がありがたかった。
自分が死んだのだという事実を、少しだけ遠ざけてくれるから。
「……ねえ、じいちゃん」
「なんだ?」
「僕、間違ってなかったかな」
祖父はすぐには答えなかった。
「みんなを助けたかったんだ。レオンも、ミリアも、シエラも、ドーガも、エマも。みんな、僕の大切な仲間だから」
「うん」
「でもさ……」
トビアスは自分の手を見つめた。
「僕だって、もっと生きたかったんだよ」
声が震えた。
「みんなと一緒に、もっと冒険したかった。もっと強くなりたかった。いつか一流の付与師になって、じいちゃんみたいに、すごいって言われたかった」
喉の奥が熱くなる。
「それに……」
思い浮かぶ顔があった。
長い黒髪。少しきつい目つき。負けず嫌いで、いつも自分より先に進もうとする女の子。
ミリア。
仲間として過ごした日々の中で、いつの間にか特別になっていた人。
好きだった。
ずっと、好きだった。
でも、言えなかった。
いつか一人前の付与師になったら。
胸を張って彼女の隣に立てるようになったら。
そのときこそ、伝えようと思っていた。
「……僕だって、幸せになりたかったんだ」
涙がこぼれた。
「ミリアと一緒に、もっと冒険したかった。帰ったら何を食べようとか、次はどこの街に行こうとか。そんなくだらない話をしながらさ」
トビアスは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「だから、あのタリスマンを使ったんだ」
祖父は黙って聞いていた。
「みんなに生きていてほしかった。僕がいなくなっても、みんなには幸せになってほしかった。でも……僕も、その中にいたかったんだよ」
涙が止まらなかった。
「自分だけが幸せになるなんて、嫌だった。みんなを置いて逃げるなんて、もっと嫌だった。だから、全員が助かる方法があるなら、僕はそれを選ぶよ」
トビアスは顔を上げた。
「それに、じいちゃんが言ったんだろ?」
祖父の目をまっすぐに見つめる。
「好きな人ができたら、使えって」
祖父は目を見開いた。
「……ああ」
「僕、好きな人ができたんだ」
トビアスは、少し照れくさそうに笑った。
「だから使った。あの子にも、生きていてほしかったんだ」
しばらくの沈黙。
やがて祖父は、トビアスの頭に大きな手を置いた。
「そうか」
その声は、いつになく優しかった。
「なら、お前は間違っていない」
「……本当?」
「ああ、本当だ」
僕の行動が間違っていないと言ってもらえて心が強くなる。
ただし、一つだけ間違いがある」
「えっ?」
祖父は、トビアスの額を指で軽く弾いた。
「自分が幸せになることを、最後まで諦めるなと言ったはずだぞ」
トビアスは目を瞬いた。
「……そんなこと、言われたっけ?」
「言った」
「いや、絶対言ってないよ!」
「言った。ワシの記憶力を疑うのか」
「じいちゃん、昔から都合の悪いことは忘れるじゃん!」
「ほう。口答えするようになったな」
「そりゃ、もう子供じゃないからね!」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
久しぶりに。
心の底から。
*
「さて、トビアス」
ひとしきり笑ったあと、祖父が口を開いた。
「お前はこれからどうしたい?」
「どうって……」
「このまま、ここにいるか?」
祖父は周囲を見回した。
どこまでも白い空間。
空も地面もなく、ただ穏やかな光だけが満ちている。
「それとも、もう一度、やり直すか?」
「……やり直す?」
「そうだ」
祖父は道具袋から、見覚えのあるものを取り出した。
小さな銀色のタリスマン。
中央には、赤い石。
トビアスが最後に使ったものと、まったく同じだった。
「お前が使ったタリスマンは、ただ魔獣を消すための道具じゃない」
「……うん。知ってる。願いを叶えるための付与魔法なんだよね」
「そうだ。だが、ワシが作ったのは、単純に願いを叶える魔法ではない」
祖父は、タリスマンを指先でくるりと回した。
「願いを叶えるために、世界そのものに付与を施す魔法だ」
「世界そのものに……?」
「お前があのとき願ったことは何だ?」
「みんなに生きていてほしい。幸せになってほしい。それと……」
トビアスは少しだけためらった。
「僕も、本当はみんなと一緒に生きていたかった」
「そうだな」
祖父はうなずいた。
「お前の願いは、まだ終わっていない」
トビアスの心臓が跳ねた。
「え……?」
「お前は、自分が消えることを代償にして、仲間たちを救おうとした。だが、タリスマンが受け取ったのは、お前の命そのものではない」
「じゃあ、何を……?」
「お前の覚悟だ」
祖父は静かに答えた。
「誰かを救うために、自分の幸せさえ差し出そうとした。その覚悟を、タリスマンは受け取った。だがな、トビアス」
祖父は、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前が本当に望んでいたのは、死ぬことじゃないだろう?」
「……当たり前じゃん」
「みんなと生きて、好きな女の子と一緒に、くだらない話をして、笑って暮らすことだろう?」
「……うん」
「なら、願いの続きを叶えればいい」
祖父がタリスマンを差し出した。
「今度は、自分の幸せも願え」
トビアスは、しばらくそれを見つめていた。
そして、恐る恐る手を伸ばした。
「……できるの?」
「さあな」
「またそれ!?」
「だが、やってみる価値はある」
祖父は笑った。
「お前は付与師だろう? 失敗したら、原因を調べて、やり直せばいい」
トビアスは目を閉じた。
思い浮かぶのは、仲間たちの顔。
そして、ミリアの顔。
もう一度会いたい。
もう一度、声を聞きたい。
今度こそ、伝えたい。
好きだと。
そして、自分も幸せになりたいのだと。
「……うん」
トビアスはタリスマンを握りしめた。
「僕、帰るよ」
祖父は満足そうにうなずいた。
「よし」
「じいちゃん、ありがとう」
「なに、祖父として当然のことだ」
「……ばあちゃんにも、よろしくね」
「おう。お前の女々しい弱音を口真似して話したる」
「なんでだよ!」
光が強くなった。
トビアスの身体が、少しずつ透き通っていく。
祖父の姿が遠ざかる。
「トビアス!」
最後に、祖父が大声で叫んだ。
「幸せになれよ!」
トビアスは笑った。
「じいちゃん、ありがとう!」
そして、白い世界が弾けた。
*
冒険者ギルドの医務室。
ミリアは、眠れずにいた。
仲間たちが助かったあとも、彼女の胸にはぽっかりと穴が空いていた。
トビアスがいない。
あの、いつも理屈っぽくて。
危険な魔物を見ると、真っ先に弱点を分析して。
自分が失敗すると、誰よりも悔しそうな顔をして。
それでも仲間が失敗したときには、決して責めなかった男が。
もういない。
「……馬鹿」
ミリアは枕を抱きしめた。
「馬鹿トビアス。なんで言ってくれなかったのよ……」
好きだったことに気づいた。
いつからかなんて、もう分からない。
でも、気づいたときには、彼が隣にいることが当たり前になっていた。
冒険から帰ったら、また一緒に食事をする。
次の依頼では、きっとまたくだらないことで言い合う。
そんな未来が、ずっと続くと思っていた。
「……私だって」
声が震えた。
「私だって、あんたと一緒に幸せになりたかったのに……」
そのときだった。
医務室の窓が、金色に光った。
「……え?」
ミリアが顔を上げる。
光は部屋の中央へ集まり、人の形を作り始めた。
最初に現れたのは、片足。
次に、身体。
そして、見慣れた茶色の髪。
最後に、少し困ったような顔。
「……あー」
その男は頭を掻いた。
「ただいま?」
ミリアは、息を止めた。
目の前にいるのは。
「……ト、ビ、アス?」
「うん」
トビアスは苦笑した。
「えっと、説明すると長くなるんだけど――」
次の瞬間。
ミリアの平手が、彼の頬に飛んだ。
「ぶへっ!?」
床に転がるトビアス。
「この、大馬鹿ぁぁぁぁっ!」
「ちょっ、待っ――」
「心配したんだから! 死んだと思ったんだから! なんで勝手にいなくなるのよ!」
「いや、僕だって好きで消えたわけじゃ――」
「うるさい!」
ミリアは彼の胸ぐらを掴んだ。
そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼を抱きしめた。
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
トビアスは目を見開いた。
やがて、そっと彼女の背中に腕を回す。
「……うん。ただいま」
窓の外では、夜明けの光が差し始めていた。
そして、トビアスは思った。
――ああ。
やっぱり、帰ってきてよかった。
今度こそ。
自分の幸せも、ちゃんと願っていこう。
そう、心に決めた。
もっとも。
「……ところでトビアス」
「ん?」
「足、どうなってるの?」
「え?」
二人は同時に、彼の右足を見た。
そこには、何事もなかったかのように、しっかりと右足が生えていた。
「………ほんとにトビアスなの?」
え?足がないのが本物だよな。
「……じいちゃん、何を付与したんだよぉぉぉぉっ!」
医務室に、トビアスの叫び声が響き渡った。
その声を聞いた仲間たちが、駆け込んでくる。
そして。
再び、六人の冒険者の騒がしい日常が始まった。
今度は、誰一人欠けることなく。
そして、トビアスは決めていた。
いつかミリア伝えよう。
ずっと一緒に。
これからも一緒に冒険したい。
そして――。
自分も、幸せになりたいのだということを。
胸にはもうあのタリスマンはないけれど。




