同期の小栗さんは今日も可愛い
――きっかけを生かせるかどうかは自分次第。
『同期の小栗さんは今日も可愛い』/未来屋 環
「――あれ、杉梨くん?」
金曜日の夜、出張先の先輩から無茶振りされた案件をなんとか終わらせ会社を出たところで、鈴を転がすような声が僕の耳を撫でる。
振り返るとそこには同期の小栗さんがいた。
「お、小栗さん……!」
ひっくり返りそうになる声を必死で抑えながら、僕は背筋をぴんと伸ばす。
木枯らしがひゅるりと吹いて小栗さんのこげ茶色の髪を揺らした。
すると彼女は「ふふ、寒くなってきたね」となんだか楽しそうに笑う。
その笑顔に、僕は「うん、そうだね」とあわてて頷いた。
「ねぇ、今から帰り? よかったら一緒にごはん食べて帰らない?」
「えっ!」
僕は思わず驚きの声を上げる。
願ったり叶ったり――と言いたいところだが、僕の脳裡を一瞬理性がかすめた。
いや待てよ、でも小栗さんには……。
しかし、目の前のきらきらとした笑顔に僕は抗えそうにない。
不意にまた木枯らしが吹いて、スーツだけの身体に寒さがしみた。
「……うん、行こっか」
そう返すと小栗さんが「やった」と小さく声を弾ませる。
その一挙手一投足に僕の胸は高鳴った。
そう、何故僕がこんなに挙動不審なのかというと――それは、小栗さんが僕の片想いの相手『だった』からである。
***
「同じ営業配属なんだね、よろしく」
それは2年前の春のこと、入社手続きで隣の席に座った小栗さんはそう言って微笑んだ。
髪を後ろでひとつにまとめ、白いシャツに紺色のジャケットを着た小栗さんは初々しく――けれど初対面の僕に対し、こまめに声をかけてくれる。
正直なところ前に出るのが苦手で、営業としてやっていけるのか不安だった僕にとって、彼女の笑顔はまぶしく輝いて見えた。
「……よ、よろしく」
そしてそれぞれ別の部に配属されたあとは、正直なところそんなに接点は多くなかった。
営業部門に割り当てられたフロアの右端が僕の配属された国内営業部、そして左端が小栗さんの配属された海外営業部だ。
入社手続きの時「英語そんなに得意じゃないんだ」とはにかんでいた彼女だが、元々謙遜していたのかそれとも懸命に努力したのか、若手ながら大型案件に貢献するなど活躍しているという声がすぐに聞こえてきた。
一方僕は特段目立つこともなく、地味に慌ただしい毎日を過ごしている。
担当している案件は小さいけれどとにかく数が多いので、残業しながらなんとかこなす日々だ。
他の同期より売上が低いので、少しくらい会社に貢献しなければと後輩たちの指導員を担当させてもらっている。
そんな僕にとって、小栗さんはあこがれの存在だった。
たまにコピー機の所で逢うと「おつかれさま」と必ず声をかけてくれるし、いつも優しい笑顔だ。
けれど仕事には一生懸命で、遅くまで残業している姿を見かけることも少なくない。
いつしか、小栗さんを見ると元気がもらえる――僕にとって彼女はそんな存在になっていた。
「――そういえば、経営企画の柿本と海外営業の小栗って付き合ってるらしいよ」
「あれ、そうなんだ。杉梨、おまえ小栗と同期じゃなかったっけ。知ってた?」
「……え」
――そんな僕の恋とも呼べない密かな片想いは、或る日職場の飲み会であえなく散った。
柿本さんは僕たちの数年上の先輩で、男の僕が言うのもなんだがアイドルのように整った容姿をしており、帰国子女らしく英語も堪能だ。
直接話したことはないけれど、小栗さんが付き合うくらいだからきっと性格だっていいんだろう。
「いや、最近小栗さんと喋ってないんで知らなかったです……」
そう言って作り笑いを浮かべ、啜ったビールのなんと苦かったことか。
窓の外に見える寂しげな木から、はらりと枯れ葉が舞い落ちる姿がやけに記憶に残っていた。
――それから1年後の今、僕は小栗さんと向かい合ってビールを飲んでいる。
「それじゃあ、乾杯!」
小さな通りの奥にあった店で、小栗さんはイタリアビールをくいっと一口飲むと「おいしいね」と上機嫌に笑った。
その笑顔につられ、丈の長いグラスを傾けた僕はぐびりとビールを飲み込む。
いつもの居酒屋で飲み慣れたビールより随分とすっきりした飲み心地だ。
ただ、いつもより少しだけペースが速いのは、きっとビールの種類のせいだけではない。
「杉梨くんと飲むのってすごく久し振りだよね。同期会も最近ないし」
早々に運ばれてきた前菜盛り合わせの中から、小栗さんが小さなバゲットを手に取る。
刻んだトマトやチーズが載せられ、パセリが散りばめられたそれはとても色鮮やかで、笑顔の小栗さんによく似合っていた。
こうして改めて見ると、小栗さんはますます可愛くなっている。
新人の頃結んでいた髪は顎の下で切り揃えられていて、ゆるやかにパーマがかかっていた。
ぱちぱちと瞬きの度に揺れる睫毛は長く、色白の頬はアルコールのお蔭かふわりと桃色に染まっている。
思わず見入ってしまった僕に対し「どうかした?」と小栗さんが首を傾げるので、僕はあわてて「あ、これおいしいね!」と手元のクラッカーをぼりぼり食べた。
「うん、おいしいね」
そう言って微笑む小栗さんを見て、僕の心がちくりと疼く。
好きなひとができると女の子は可愛くなる――そんな噂を聞いたことがあるからだ。
確かに今の小栗さんはその説を立証している。
瞬間、ふわふわとした幸せな気持ちは一気にしぼんでしまい、僕はもう一口ビールを飲んで口唇を湿らせた。
「……あの、僕が訊くのもなんだけど、今日大丈夫だった?」
「大丈夫って――どういうこと?」
「その、噂で聞いたんだけど……小栗さん彼氏いるって」
すると、小栗さんはきょとんとした顔をしたあとで――「あぁ、それね」と目を細める。
その仕種がどこか色っぽくて、僕の心がどきりと揺れた。
「実は3ヶ月くらい前に別れたんだ。だから大丈夫だよ」
「……え?」
小栗さんの話によると、付き合い始めて暫くしてから相手にやけに高圧的な態度を取られることが増えたらしい。
最初は自分が悪いのかと思い悩んだこともあったが、その内約束もすっぽかされるようになり、段々不信感が募っていったそうだ。
最終的には相手の二股が発覚し、そのまま別れを告げられたとのこと。
「……それは酷いね」
僕はそう言うのが精一杯だった。
こんなに素敵な小栗さんに対して、元恋人――柿本さんは何という仕打ちをしたのだろう。
しかし、小栗さんは「本当だよね」と悲壮感のない表情でがぶりとバゲットをかじる。
「でもいい勉強になったかなって。最初は落ち込んでたんだけど、よく考えたら私何も悪くないし。
流されるまま付き合っちゃったのが悪いだけで、もし今度いいひとに出逢えたら上手くいくように、もっと自分を磨こうと思ったの」
そう言って、小栗さんはにこりと笑った。
その明るい笑顔に勇気をもらえたような気がして、心の奥がじわりと熱くなる。
僕は手元のビールを飲み干したあと、目の前の小栗さんをじっと見つめた。
「……あ、あの、小栗さん――」
「――あれ、好美?」
いきなり割って入ってきた声に、僕らの時間が止まる。
入口の方を振り返ると、そこには柿本さんと知らない女性が立っていた。
思わず声を失う僕らを見るその眼差しは――しかし、困惑に揺れている。
「――あら、柿本さん。お久し振りです」
その沈黙を断ち切ったのは小栗さんの凛とした声だった。
向き直った僕の瞳に、優雅な小栗さんの微笑みが映る。
その笑顔はテーブルの上のランプの明かりに照らされ、一点の曇りもなかった。
「……あぁ、何ていうかその――久し振りだね」
そう言いながら彼女を置いて僕たちの席まで歩いてきた柿本さんは、小栗さんの笑顔に気圧されたようにへらりと笑う。
――あれ、この人、こんな感じだったっけ?
社内での姿は自信にあふれた印象だけれど、今の笑顔はどこか薄っぺらく見えた。
「なんか……好美、可愛くなった?」
そんな柿本さんからいきなり放たれた言葉に、僕はグラスを取り落としそうになる。
しかし小栗さんはその笑顔を変えることなく「ありがとうございます」とだけ答えた。
先程の小栗さんの話を踏まえると、二人はもう別れているはずだ。
元恋人同士のやりとりというのはこういうものなのか――期せずして訪れた気まずい雰囲気に、僕は目を泳がせることしかできない。
その時、立っていた柿本さんの視線が僕を捉える。
すると、彼の瞳に強気な色が宿り、口元にニヤリと笑みが浮かんだ。
「――この人、もしかして新しい彼氏?」
――あ、僕なめられてる。
「俺に振られてショックなのはわかるけど、さすがにもうちょっと選んだら? せっかく好美、可愛いんだからさ」
腐っても社内の人間を前にこんな言い方をするなんて――いや、社内じゃなかったとしてもとんでもなく失礼だけれど。
柿本さんに抱いていた良いイメージが僕の中で音を立てて崩れていく。
こちらを見定めるような眼差しにいたたまれなさを感じるけれど、悪意を直接ぶつけられることに慣れていない僕はどうしたらいいのかわからない。
ちらりと小栗さんを見ると、彼女はうつむき小さく震えている。
あぁ、僕のせいで小栗さんに嫌な思いをさせてしまった――。
振られた相手にこんなことを言われて、どんなにつらいだろう。
そう気付いた瞬間、なんとかこの場を切り抜けなければと僕の心に焔が灯った。
思い切ってがたん、と音を立てて立ち上がる。
すると、こちらを見下ろしていた柿本さんがびくり、と身を引いた。
「――な、なんだよ」
言い過ぎたとでも思ったのか、顔には後ろめたさがありありと浮かんでいる。
それならそんなこと言わなければいいのに――なんだか虚しくなって、僕は作り笑いを顔に貼り付けた。
「……誤解です。僕は小栗さんのただの同期で――」
胸の中で暴れるやるせなさを抑え付け、無難にやり過ごそうとした――その時
「――柿本さん、私のこと名前で呼ぶのやめてもらっていいですか? 気持ち悪いです」
小栗さんが放ったストレートな文言が、澱んだ空気を切り裂いた。
思わず小栗さんの方に視線を向けると、彼女は無表情で柿本さんを見ている。
さっきの笑顔との温度差に驚いたのか、時間差で「……え?」と柿本さんの声が洩れた。
「そもそも二股かけた相手によく普通に話しかけられますね。彼女さんにバレる前に戻った方がいいんじゃないですか?」
「……いや、よし――じゃなくて小栗……どうしたの? 怒ってる?」
「はい。失恋の悲しさで震えてるとでも思いました? 残念ながら私、怒りに震えてるんです。
失礼過ぎるので、杉梨くんに早く謝ってください」
「……小栗、その――」
「謝って」
「……ごめんなさい」
僕が目を白黒させている間に、柿本さんが僕に頭を下げる。
我に返って「いや、あの、大丈夫です」と返すと、小栗さんが「じゃあもう行ってください」と冷静に告げた。
顔色を悪くした柿本さんは、すごすごと彼女らしき人と共に店を出ていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなったところで、小栗さんが「杉梨くん、ごめんね」と眉を下げた。
「せっかく楽しかったのに、変な空気になっちゃったね。飲み直そっか」
「あ、いや――その……小栗さんってすごいね」
「すごい?」
「うん。ああやって自分の意見を臆せず伝えられてすごいなって。
何もできなかった自分がなんだか恥ずかしいよ」
そう僕が力なく笑うと、小栗さんが優しく微笑んで「……そんなことないよ」と答える。
「杉梨くんこそすごいよ。自分の仕事も忙しいのに後輩たちの面倒も見て――それだけじゃない、いつも周りに気配りをしてくれているよね。
私は自分のことで精一杯だから、杉梨くんのことずっと尊敬してたよ」
そう言って、小栗さんがビールをこくりと飲み干した。
「さっきも私のこと庇おうとしてくれたよね――ありがとう」
思いがけない言葉に、僕は何も返すことができない。
小栗さんが僕のことをそんな風に思ってくれていたなんて、気付きもしなかった。
目の前でメニュー表をめくりながら、小栗さんが楽しそうに笑う。
「――ね、次は何飲む? このペローニってビール、おいしかったから私もう一杯飲もうかな。
あ、食べものも追加で頼んでいい? このアヒージョ牡蠣が入ってておいしそう! いや、こっちのアスパラガスが入っているのも捨てがたい……」
くるくると変わる表情は、まるで子どもみたいに無邪気で。
僕は思わず小さく噴き出して「僕も同じので。あとアスパラ、さっき頼んでたよ」と補足した。
そのタイミングでちょうど店員が「ホワイトアスパラガスのムニエルです」とお皿を持ってくる。
「あっ、そうだった。じゃあすみません、ペローニ2杯おかわりと、牡蠣のアヒージョで!」
小栗さんはてきぱきと注文を済ませたあと、店員がテーブルを離れたところで「……忘れてた」と照れ笑いをした。
――その笑顔を見た瞬間、僕の口から本音が洩れる。
「……可愛い」
そして、はっと我に返った。
僕は何を言ってしまったんだろう。
これじゃあ柿本さんと同類じゃないか。
目の前の小栗さんがびっくりしたようにこちらをまじまじと見て――しかし、そのあと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう。でも杉梨くん、私、こんなもんじゃないから――覚悟してね?」
その輝くような笑顔に、僕はただ「……はい」と答えるのが精一杯だ。
――いや、僕も変わらなければ。
小栗さんに見合うような男に。
「お待たせしました、ペローニです」
店員が運んできたグラスを受け取り、小栗さんに手渡す。
そしてもう一度乾杯をしようとしたところで――僕は「ねぇ、小栗さん」とそれを制止した。
不思議そうに首を傾げる小栗さんを前に、僕はばくばく脈打つ鼓動を感じながら、口を開く。
「あの、僕もきっと、こんなもんじゃないから――覚悟して?」
――そう、きっかけを生かせるかどうかは自分次第。
そんな僕の言葉に、小栗さんは満足げな笑みを浮かべた。
まるで望むところだとでも言うように。
「うん――それじゃあ改めて」
「「乾杯!」」
二つのグラスが、高らかな音を立てて合わさった。
(了)
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
今回のテーマは「木枯らし」な秋企画ということで、登場人物たちの名前を秋っぽくしてみました。
もうひとつ、自分の中で決めていたのは明るいお話にすること!
木枯らしというとどこか寂しい雰囲気がありますが、せっかくなので明るくしたいなと思いまして、こういうお話になりました。
女の子はどんなきっかけからも可愛くなれるポテンシャルがあるのです(´ω`*)
それは勿論、男子だって一緒!(`・ω・´)
以上、あとがきまでお読みくださりありがとうございました。




