役立たずと言われて追い出された薬師、王宮の人たちが私の置き薬なしでは生きられなかったと今さら気づいても、他国の故郷へ帰った私はもう戻りません
王宮薬師院の朝は早い。
私は夜明け前に薬棚を見回り、王子殿下の胃薬を一包ずつ分け、王妃付き侍女たちの頭痛薬の濃さを確かめ、騎士団へ送る傷薬の封を点検してから、ようやく自分の机につく。
派手な仕事ではない。
けれど、ひとつでも欠ければ困る人が出る。
「リゼット殿、殿下の朝食前のお薬を」
侍従に呼ばれ、私は小さな銀箱を渡した。
「今日は少し胃の調子が不安定そうでした。食前に半包、午後は薄めにしてください」
「いつも助かります」
礼を言われるのは、たいていこういう裏方の時間だけだ。
成果報告会のような表の場で、私の名前が挙がることはほとんどない。
その日も王宮薬師院の大広間では、月に一度の成果報告会が開かれていた。
磨き上げられた床、香の匂い、貴族たちの視線。中央で称賛を浴びていたのは、若手薬師ルシアンだった。
「こちらが新作《花香る回復薬》です!」
淡い金色の薬液が入った硝子瓶を掲げると、広間が華やかな感嘆に包まれる。
「おお、美しい」
「香りまでよいのか」
「王宮にふさわしい薬だな」
薬師長ガレスも満足げに頷いた。
私は広間の端で、記録帳を抱えたまま順番を待っていた。
私の担当は新薬の披露ではない。王宮に暮らす人間が毎日使う置き薬の補充と調整だ。
王子殿下の胃痛薬。
王妃付き侍女たちの頭痛薬。
文官たちの季節病を抑える初期薬。
騎士の擦り傷が化膿しないための塗り薬。
年配の女官でも飲みやすい、刺激の弱い咳蜜。
全部、地味だ。
けれど、なくなれば確実に困る。
「次、リゼット」
呼ばれて前に出ると、何人かの貴族が露骨に退屈そうな顔をした。
「今月の補充記録です。王子殿下付きの胃薬は気温の変化に合わせて配合を少し軽くし、騎士団向け傷薬は――」
「また置き薬か」
誰かが笑った。
「王宮薬師院ともあろうものが、薬棚の管理とはな」
「補充係を成果報告に出す必要がありまして?」
「夢がありませんわね」
くすくすという笑いが広がる。
私は記録帳を持つ手に力を込めた。
「置き薬は、悪化する前に抑えるために必要です。実際に騎士団では軽傷の悪化率が――」
「数字の話は結構だ」
ガレスが冷たく遮った。
「この場で求められているのは、王宮の名にふさわしい成果だ。ルシアンの薬を見ろ。見た目も効能も華やかで、評判にもなる。それに比べてお前の薬はどうだ? 茶色い瓶に地味な効き目。誰の記憶にも残らん」
ルシアンが気の毒そうな顔を作って口を開く。
「先輩の薬も補助としては役立つと思います。でも、王宮薬師ならもっと人を驚かせる薬を作るべきではないでしょうか」
補助。
その言い方に、こころのなかがすっと冷えた。
私は毎朝、王族の体調を見て薬を変えていた。
侍女が倒れれば王妃の身の回りが滞るから、頭痛薬の濃さを季節ごとに調整していた。
騎士団の傷が化膿しなければ余計な離脱が出ないから、傷薬の保存性を上げ続けていた。
けれど、それらは誰かの“功績”にはならない。
最初から何も起きなければ、ただ当たり前に過ぎていくからだ。
「しかも」
ガレスは帳簿を机に放った。
「お前の担当は利益率も低い。安価な薬を大量に流し、手間ばかりかかる。王宮が抱える価値はない」
「ですが、その薬があるから高価な回復薬の使用量が抑えられて――」
「言い訳をするな」
ぴしゃりと切り捨てられる。
「リゼット。お前のように、誰でも作れそうな置き薬しか扱えない薬師は不要だ」
広間が静まり返った。
そして次の瞬間、ガレスは皆の前で宣言した。
「お前は本日限りで解任とする。どうせ隣国ラディア王国からの期限付き雇いだ。契約更新もなしだ」
息が止まった。
せめて個別に告げられるものだと思っていた。まさか、こんな大勢の前で。
「……承知しました」
それしか言えなかった。
広間を下がるとき、背後で小さな声がした。
「役立たずが一人減ったな」
笑い声が重なる。
その言葉だけが、いつまでも耳に残った。
◇
王宮を出た門の前で、騎士副隊長ユリウスが待っていた。
「リゼット」
彼はひどく苦い顔をしていた。
「すまない。あの場で止められなかった」
「副隊長が謝ることではありません」
「いや、ある。騎士団は君の薬に助けられていた」
私は思わず彼を見た。
「では、どうして何も言ってくださらなかったんですか」
責めるつもりではなかった。
けれど声は少し震えた。
ユリウスはしばらく黙り、それから低く言った。
「……当たり前だと思っていた。いつでも届くものだと」
その言葉がいちばん痛かった。
役に立っていたとしても、感謝も評価もされず、ただ最初からそこにあるものとして扱われていたのだ。
「私は故郷へ帰ります」
ラディア王国に。
期限付き雇用を切られた私に、この国へ残る理由はない。
「そうか」
ユリウスは引き止めなかった。
「身体に気をつけろ」
「はい」
それで終わりだった。
◇
ラディア王国は、薬学の盛んな国だ。
故郷へ戻った私を迎えたのは、老薬師エルドだった。
「王宮を追い出された?」
事情を話し終えると、彼は深々と息を吐いた。
「置き薬しか作れないから、か」
「はい」
「馬鹿げている。王宮というものは、派手な薬で回るのではない。日々の不調を崩さぬ薬で回るのだ」
その一言だけで、こころのなかに張り詰めていたものが少し緩んだ。
その日の夕方、ちょうど町の診療所に若い母親が駆け込んできた。
腕の中には、熱でぐったりした男の子がいる。
「薬を飲ませても、すぐ吐いてしまって……!」
エルドが眉をひそめた。
「この子は胃が弱い。普通の熱薬では刺激が強いな」
私は額に手を当て、呼吸と唇の乾き方を確かめた。
今夜を越せないほどではない。けれど、このまま何も飲めなければ悪くなる。
「白葉草と熱取り草、春蜜を少しください」
「白葉草? 効きが遅いぞ」
「順番を変えます」
鍋に水を張り、まず白葉草だけを弱火で長く温める。香りが立ったところで火を止め、少し冷ましてから熱取り草を加えた。最後に春蜜を落とし、薬液をゆっくり回す。
エルドが目を細める。
「なるほど。刺激の出方を遅らせるのか」
「はい。効き目は少し穏やかになりますが、この子にはそのほうが合います」
匙で少しだけ飲ませると、男の子は顔をしかめながらも吐かなかった。
「飲めた……!」
母親が息を呑む。
「一度に飲ませないでください。三回に分けて。夜中に熱が上がったら、この線まで薄めて」
小瓶に印をつけて渡す。
翌朝、母親は涙ぐんで戻ってきた。
「熱が下がりました。あの子、眠れたんです」
エルドは感心したように笑った。
「同じ薬草でも、煎じる順と火加減でここまで変わるとはな」
「飲める人に届く薬にしないと、意味がありませんから」
王宮では、そういう手間を“地味”と笑われた。
けれどラディアでは違った。
「リゼット、お前は薬を“効かせる”だけでなく、“届かせる”ことを知っている」
その技術を買われ、私はラディア王国の薬院へ招かれた。
数か月後には、王家付き薬師として任官することまで決まった。
王女殿下の胃薬、年配侍従の咳蜜、文官の疲労をこじらせない丸薬。
ここでは誰も、そんな仕事を補助だとは呼ばない。
「君の仕事は王宮の土台だ」
任官のとき、そう言われた。
私は初めて、自分のしてきたことを誇ってもいいのだと思えた。
◇
一方、私が去ったあとの王宮では、小さな綻びが少しずつ広がっていた。
王子殿下はいつもの胃薬の代わりに強い薬を出され、食事も取れず寝込んだ。
王妃付き侍女たちは頭痛と吐き気を訴える者が増えた。
文官は季節の病で机に伏し、騎士団では軽傷の化膿が続出した。
最初、薬師長ガレスは気にしなかった。
「上級回復薬を増やせばよい」
「香りのよい新薬を配れば評判も保てる」
「置き薬など、そのへんの薬屋にも作れる」
だが、現実は違った。
“そのへんの薬屋”は、同じ材料を使っても同じ薬を作れない。
王子の胃に負担をかけずに効かせる濃さも、侍女が勤務中に眠くならない頭痛薬の加減も、年配の文官が無理なく飲める咳蜜の重さも、すべて微妙に違っていた。
しかも、ルシアンの華やかな新薬は見た目と香りを優先したせいで、体質に合わない者には刺激が強すぎた。
苦情は日に日に増えた。
「王子殿下がまた胃を痛められた!」
「侍女頭が勤務中に倒れたぞ!」
「傷薬が足りず、騎士が何人も外れている!」
「書記官の半分が熱を出しているではないか!」
ついにユリウスが供給記録を洗わせた。
結果は明白だった。
私がいた頃は、騎士の軽傷悪化率が低い。
王宮内の発熱者も重症化しにくい。
王族付き侍従や侍女の離脱も少ない。
高価な回復薬の使用量まで抑えられている。
「まさか……」
さらに記録を追って、彼らはようやく知る。
ルシアンが“新作”として披露していた薬の基礎処方のいくつかが、私の調合記録を土台にしていたことを。
「参考にしただけです!」
真っ青になったルシアンが叫ぶ。
「参考で済むか」
ユリウスの声は冷え切っていた。
「お前たちは、基礎を奪って飾りだけを褒めていたんだ。王宮を支えていたのは、その“地味”な基礎だろう」
ガレスもついに言い逃れできなかった。
しかも、追い打ちをかけるように王子殿下付きの侍従が報告した。
「以前の胃薬は、リゼット殿が朝の顔色を見て包みを変えていました。今になってわかりました。あれは同じ薬ではなかったのです」
その一言で、広間は完全に静まり返った。
彼らはようやく理解した。
私が管理していたのは置き薬の数ではない。
王宮で毎日を壊さず過ごすための“調整”そのものだったのだと。
◇
その後、元の王宮は正式に私の功績を認める文書を出し、ガレスは薬師長の座を追われ、ルシアンも王宮薬師院から外されたと聞いた。
公の場で、王子殿下の胃薬も侍女たちの常備薬も、騎士団の傷薬も、私が一人ひとりに合わせて調整していたものだと認めさせられたらしい。
けれど、そんなことはもう私の日々には関係がない。
朝は王女殿下の胃薬を整え、昼には侍従たちの頭痛薬を補充し、夕方には年配侍女の咳に合わせた蜜薬を煎じる。
派手な賞賛はない。だが、「助かった」「眠れた」「悪くならなかった」という言葉が、毎日きちんと返ってくる。
「リゼット様、この前のお薬で父の咳が楽になりました」
侍女が嬉しそうに頭を下げる。
「それはよかったです」
瓶を棚に戻しながら、私は静かに笑った。
地味な薬でいい。
誰かの毎日を壊さない薬でいい。
その価値をわかってくれる人たちの中で作る薬は、こんなにも穏やかで温かい。
◇
そう思っていた数か月後、ラディア王国の薬院に、元の王宮から使者がやってきた。
謝罪文、高待遇での復帰、専用研究室の用意。並べられた条件は立派だった。
しかも、ユリウス様まで同行していた。
少しやつれた顔をしていたけれど、私を見ると、相変わらず絵姿のように整った微笑みを向けてくる。
「リゼット、頼む。戻ってきてくれ」
私は静かに首を振った。
「戻りません」
使者が慌てて口を挟む。
「し、しかし! 王宮はあなたの功績を再評価し、正式に謝罪を――」
「私の薬は役立たずで、誰でも作れそうで、王宮には不要だったのでしょう?」
使者は言葉に詰まった。
そのとき、ユリウス様が一歩前に出た。
「そんなことはどうでもいい」
まっすぐに私を見つめる。
「リゼット。私は君を王宮へ連れ戻しに来たのではない」
使者たちが息を呑む。
「王宮に君は必要だ。……だが、それ以上に、私が君を必要としている」
少し低くなった声が、静かに響く。
「君がいなくなって、ようやくわかった。私は君の薬だけではなく、君そのものに救われていたのだ」
「だから来た。王宮のためではない。私自身の意思で、君を迎えに来た」
たぶん、誰もがここで結ばれると思ったのだろう。
でも、私は違った。
「はい。承知しておりました」
ユリウス様の顔が、ぱっと明るくなる。
「では――」
「ですから、戻りたくないのです」
「……え?」
私は勇気を振り絞って言った。
「何度も訪ねてこられて、何度も手紙をいただいて、そのたびにお断りしましたよね」
「そ、それは、君を想って――」
「怖かったです」
しん、と場が静まり返る。
「王宮を追い出されたときは災難だと思いました。ですが」
私は深く一礼した。
「おかげで、ようやく逃げ切れました」
使者たちは呆然とユリウス様を見た。
ユリウス様はその場に崩れ落ちた。
一方で使者たちは、顔を見合わせたあと、なぜか小さくガッツポーズをした。
私も、ようやく肩の力を抜く。
王宮を追い出されたときは災難だと思った。
でも、今となっては感謝している。
おかげで私は、役立たず扱いした王宮にも戻らずに済み、ついでに、しつこい求婚からも逃げ切れたのだから。




