きみはユーレイ
幽霊に足はないらしい。
ぼくの言葉に、きみは「つまり、おれは幽霊ってこと?」と返した。その瞳からは諦念とも侮蔑とも読めない情が浮かんでいて、ぼくはゆっくりと首を横に振って否定する。
「きみには戦士の右脚とかっこいい左脚があるじゃないか」
ぼくの言葉に、きみは目を伏せて息をひとつ吐き出した。
この場所で初めて顔を合わせたときから、きみはどこか悲しい目をしていた。諦念とも侮蔑とも読めない瞳はぼくに向けられているのか、それとももっと違うところへ向いているのか、それすらもわからない。
四季が巡って、桜が咲く。きみは桜の花弁から、目を逸らして、伸びた木の影を、見つめた。
▽
新校舎と旧校舎がある我が校は、職員室の真下に位置するからか、新校舎裏にあまり人は来ない。そこで〝きみ〟と〝ぼく〟はしばしば密会をしていた。何も悪いことを画策しているわけではない。どちらからともなくここで落ち合い、話をして、解散する。ただそれだけ。先生に見つかってやましいこともない。だからぼくたちは堂々とした密会をしていた。なんて言えば、きみは「堂々とした密会って矛盾してる」と至極真っ当なことを言う。
地に投げ出された学生ズボンに覆われたきみの脚は一見なんの変哲もないものだ。ただ、よく見ると左の足首がやけに細く、肉肉しさを残しておらず、それと気づくまでに時間がかからない。きみの両脚は傷だらけの右脚と、人工の左脚で成り立っていた。
「──で、心霊番組でも見たの?」
「ううん。小学校の同級生の女の子が言ってたなぁって、思い出したんだ」
幽霊に足はないらしい。突然そんなことを口に出したのは、ふと、小学五年生のころに同じクラスの女の子が言っていたことを思い出したからだ。霊感少女を自称していた彼女は、学校の内外であらゆる幽霊の話をしてくれた。理科室の掃除用具入れの中に女の子がいるだの、帰り道の電柱の後ろに髪の長い男の人がいるだの。彼女はぼくの知らない世界のことをたくさん教えてくれる女の子だった。しかし、そんな彼女の幽霊話は中学三年生に上がり、夏になるころには聞くことはなくなったのだけど。
「何それ。嘘ついてたんじゃないの?」
「どうだろう。その子にしかわからないからね」
「絶対に嘘だよ。むしろ、よく中学でもそんな嘘をつき続けたよね。受験前に内申点が怖くなったんじゃない?」
「その理屈で言うと本当は見えてるけど内申点に響くから隠したのかもしれないよ。ま、もしかしたら見えてたけど突然見えなくなったかもしれないしね」
「おまえってお人好しだよね」
「そう?」
真相は彼女の中にしかないのだ。ぼくには幽霊など見えないし、見えないのに嘘だ本当だと決めつけることはできない。そんなふうに話すぼくに、きみは露骨に嫌そうな顔をした。きみ曰く、ぼくはお人好しで、変に理屈っぽく、綺麗事ばかりを並べるらしい。
こんなとりとめのない話をしていたら予鈴が鳴ってきみは立ち上がる。きみがそのかっこいい左脚を手に入れてから十年もの月日が流れたという。どうやら走ることは難しいけれど、歩行は難なくできるようだ。そこに至るまで、ぼくには想像すらできない途方もない努力と苦しみがあったのだろう。それをきみは大したことがないかのように言うのだ。
「ユウくん」
きみは振り返る。怪訝そうな顔を隠しもしないで、ぼくはきみのそんなところを長所だと思う。
「ぼくはその脚、かっこいいと思うなぁ」
「……お人好し」
眉間に皺を寄せて顔を背け、桜の木の下を見つめたあと、きみは立ち去る。どうやらきみは、自分の内面と向き合うのは苦手らしい。
きみとぼくがこの学び舎で初めて顔を合わせたのも、この新校舎裏だった。
校舎を背もたれにし、地に足を投げ出して空を仰ぐきみに話しかけると、きみは目を丸くした。少しくたびれた学ランは、親御さんが成長することを願ったのか、きみの手のひらの半分を覆い隠してしまうほど大きい。
「なんだい? 幽霊を見たような顔して」
笑うぼくにきみはすぐに眉を顰め、葉をつけた桜の木の下に視線を向ける。今思うと、ぼくはどれだけ幽霊トークが好きなのだろう。
「……話しかけるなよ。変なやつに見られるだろ」
「ぼくの心配をしてくれるのかい? きみはやさしいなぁ」
きみの噂は耳に届いていた。小さなころに事故で左脚を失った少年。小学生に上がるより前にそんな凄惨な経験したものだから、ほとんどの人が経験するような鬼ごっこなどの〝子どもらしい遊び〟をしたことがないのだという。いつも自分以外の誰かが遊んでいる姿を遠巻きに見ているだけで、小学校の先生もかける言葉が見つからず持て余し、先生も生徒もきみを遠巻きに見返すような、そんな関係。ひと言にまとめると〝浮いた存在〟であるきみに、幽霊を見たような顔なんて言ったのは冗談がすぎただろうか。
中学生になった今も他者との距離感は変わらぬまま、クラスメートとも必要最低限の会話せず、何か部活動に打ち込んでいるわけでもない。その様子を、客観的に見れば青春を謳歌しているとも言い難いものかもしれないが、それはぼくらが決めることではない。きみがそれで満足だと言うのなら、それはそれで青春を謳歌していると言えよう。
人ひとり分空けて隣に腰掛けるぼくに、きみは怪訝な顔をした。そんなきみに気づかないふりをして話しかける。
「購買のマボロシのプリンパン食べたことある?」
「……何それ」
「もしかしてきみ、噂も耳に入ってこないの? 先着十人だけが手に入れられるマボロシのプリンパンだよ。ぼく、四時間目を腹痛のふりして抜けて買いに行ったんだよね。バレてあとでめちゃくちゃ先生に怒られたけど」
「バカだろ」
「楽しく生きてるんだよ」
授業が終わると同時に猛ダッシュして、足の速い先着十人だけが手に入れられると言われているプリンパン。少しでも授業が長引いてスタートダッシュが遅れたらもう間に合わないし、いいスタートダッシュを切れても足が遅いと到底手に入れることなどできず、手に入れられるのは結局足が速かったり、友達同士で連携プレーをしたりできる人だけだ。そもそも廊下を走ってはいけないはずなのに走ることを容認していることも、あらゆるものの平等化を掲げるこの時代にどう考えても足の速さや友人の多さで決まってしまうプリンパン争奪戦に口を出さないことも、なかなかうちの教師たちは変わっていると思う。
ぼくは廊下を走って怪我をしたくはなかったし、友達が頑張って手に入れたプリンパンを友達だからという理由だけでもらうのは申し訳なかった。そんな理由から「四時間目の授業をサボって手に入れたらいいじゃないか」という結論に至り、実行した。年に数回同じ思考に陥り実行する生徒はやはりいるらしく、先生はぼくに怒ったあと、特段悪びれもない態度のぼくに深くため息をついていた。
「変だよね。怒るなら、そもそも先着十人なんていうのやめたらいいのに」
「変なのはおまえだよ。思いついても実行しない」
「そう? でも、食べてみたくなるじゃないか。日本人心理なのかなぁ? 限定って言葉に弱いって言うよねぇ」
あれ? それは日本の女の人だったっけ。まあいいや。実際、限定って言葉に弱いし。
「……プリンパンは美味かったのか」
「食べてないんだよね。弟にあげようと思って買ったから。だから、きみが食べたことあったら味の感想聞こうと思っただけ」
「さすがに二回目はサボろうと思わないんだな。先生に怒られて懲りたかよ」
「うーん……弟が食べたいって言ったらサボったかもしれないけど、自分のためにサボる気はなかったかなぁ。先生に怒られても、それも青春の一ページだと思わない?」
きみが苦々しげに「思わない」と答えたのと被るように予鈴が鳴る。弾んだ会話というほどでもなかったけれど、きみとぼくのあいだに気まずい空気は一瞬たりとも流れなかった。のちのちきみは「気まずい空気をおまえは感じ取れないだけだろ」なんて言い、「そう? ぼく、誰とでも仲良くなれるけど」と返すぼくに「だからそういうところ」と呆れたように息を吐くのだけど。
きみは決して腫れ物扱いされるような、浮いていると言われるような、そんな存在ではなかった。少なくとも、ぼくにとっては。
きみは、授業に遅れるから、と言って腰を上げた。またね、と手を振るぼくに、きみは何も言わずに視線だけをぼくに向けて、それからまた何も言わずに視線を逸らし、ぼくに背を向けて去る。
それが、ぼくたちの始まりだった。
どちらから会おうと言ったわけではない。決まってそこにいるわけでもない。ときどき合ったタイミングで顔を合わせ、言葉を交わす。ただ、それだけ。人は不思議なものだ、と思う。一年同じ教室で過ごしても挨拶を交わす程度の仲にしかなれない人もいれば、たった数時間でこれまでの誰よりも仲良くなれる人もいる。きみとぼくはそのどちらでもなかったけれど、明確に、変化が訪れたのだ。
いつものように取り留めのない話をして、予鈴がその時間を切り裂く。
「予鈴鳴ったよ。ぼくは行くけどきみは?」
ぼくが声をかければきみは立ち上がって何も言わずに去る。通例となりつつあった。なのに、今日はそうしない。桜の青葉が散り始める季節のことだった。
「ユーレイなんだ、おれ」
淀みなく舌を転がるその言葉は、むしろつっかえてくれたほうがよかった。
きっと誰にも話したことなどなかった胸のうちなのに、流暢だったのはずっと心の中にあった言葉だったからなのか。
「おれがいてもいなくても誰も気にしない」
きみがこぼした、弱音らしい弱音だった。いつも何も気にしていないという態度なのは、気丈に振る舞った精一杯の一匹狼であることくらい、わかっていたのだ。それを、きみが言いたくなさそうだったからぼくも言わなかっただけ。
膝を抱える。左の脚は、酷く細い。きみが何事もなく成長していたのなら、きっとそれほど布は余らなかっただろう。
「じゃあ、お話しようか」
きみは揺れる瞳でぼくを見つめる。
「ここで会うあいだきみはユウくん、ぼくはレイくん。ここで聞いた話しかきみもぼくも知らない。どう? 気楽じゃない?」
「ユウとレイってのは幽霊からとって?」
「そう!」
「……くだらな」
「くだらないことを楽しむのが人生を楽しむコツらしいよ」
答えると、きみはバカだなって、笑った。
眉尻を下げて、力なく。きみは傷ついてきたのだろう。ぼくには計り知れないほどに。
自分をユーレイだと言うきみに、ユウとレイなどという名前をつけたぼくを無神経なやつだと言えばいいのに。きみはそうしない。
なんて声をかけるのが正解なのか、たくさんの時間をかけて考えたってきっと正解などないのだろう。不謹慎な発言が、ときとして笑い話に昇華されればいい。
「おまえさ、変なやつって言われない?」
「ユニークだなんて褒め言葉だね」
「人の話聞いてんのかよ」
「ふふっ、人生を楽しむコツだよ」
それからだった。きみは笑うようになった。
ユウくんと呼ぶぼくをきみは無視しない。ぼくのことをレイくんと呼んでくれなかったけど、ユウとレイは、ここに存在していた。
半袖になったきみの腕には傷痕ひとつさえなく、傷だらけの右脚と人工の左脚とのアンバランスさが、やけに目を引く。細く白く伸びたその腕に「海に行ったりしないのかい?」と問うと「おまえって本当にデリカシーがないよな」と返ってきた。
きみは海に行ったことがない。山にも行ったことがない。その左脚に、奇異な目を向けられるから。その左脚では、山頂まで登れないから。そう、語る。
「いいじゃん。その脚、かっこいいし。山は……ぼくがおぶっていく?」
「無理だろ。山なめてんのか」
「なめてないよ! 体力つけないとね。夢はでっかく、エベレスト登らないと」
「地元の小さい山から始めろよ」
「地元の山はね、すでに攻略済みなんだ」
家族で山登りに行こうと父が計画したが、母は絶対に行かないと言った。ぼくは乗り気で手を挙げて、そんなぼくに続いて弟が手を挙げた。父とぼくだけならいざ知らず、当時三歳になったばかりの弟まで行きたいと言えば、母だけが留守番をできるはずもなかった。そうして家族四人で向かった山登り。弟はすぐに登れないとしゃがみこみ、ぼくは父に荷物を預けて、弟をおぶった。父は荷物を抱えたまま自分がおぶると言ったし、母も交代しようと言ってくれたけど、ぼくは決して譲らなかった。
ぼくは、お兄ちゃんなのだ。弟の手を引くのはぼくなのだ。そんな使命感に駆られ、苦しみも、重みも、すべてが嬉しかった。そうして登って山頂から見た夕焼けは、人生で見た中で一番綺麗なものだったと断言できる。帰りの山下りではたまたま道を通りかかった人の車に乗せてもらい、こんな時間から幼い子どもを連れて山を下るなんて何を考えているのだと怒られたのも、合わせていい思い出となった。
「……三歳の子どもと比べるなよ。おれ、五十五キロあるぞ」
「四人分かぁ。ちょっと骨が折れるかも」
「無理だろ」
「大丈夫だよ、ぼく、きみより大きいし。力だってあるから、おぶるなんて朝飯前だよ」
ぼくの言葉に、きみはまた、バカだなって笑った。
「おぶってくれてありがとう、だよ。ユウくん」
「バーカ」
その表情は、少しさみしそうだった。
再び長袖を着る季節になる。三年生のみんなが部活を引退し、受験に打ち込む季節になった。きみの進路は家から近く、そこそこの偏差値の高校だという。そこはぼくも目指していた場所だ。気が合うね、とニヤリと笑うと、きみは眉間に皺を寄せるだけだった。照れなくたっていいのに。
きみはぼくの前で参考書を開くようになった。塾には行っておらず、本屋さんで買った参考書と学校の教科書と授業で取ったノートを見て、ときどき解いたりなんかもする。たまにふたりで考えたりなんかもして、人と勉強するというのは楽しいものだと思い出す。
「塾は行かないの?」
「……別に、いい高校行こうってわけじゃないし、塾行くほどでもないから」
「あ〜、馴染めなかったらどうしようって不安なんだ〜」
「それ、思ってても言うなよ」
「アハハッ! 冗談冗談」
ケラケラと笑うぼくに、きみはいやに真剣そうな顔をする。
「おまえは?」
「ん?」
「塾」
「ああ。ぼくはね、かわいいかわいい弟と離れたくないから、塾には行かないって決めたんだよ。父さんも母さんも呆れてたなぁ」
うちは共働きだった。だからぼくはいつも学校が終わって弟を保育園まで迎えに行って、ときどきスーパーに寄って帰ってくる。弟が好きなアニメを見てくれているあいだに宿題をして、一緒にお風呂に入り、帰ってきた母がご飯を作ってくれるからそれを食べさせて、寝かしつけをする。ぼくと十も離れた弟は、守ってあげたくなる、かわいいかわいい存在だった。
プリンが大好きで、スーパーに寄るたびに買ってほしいと毎回せがむ。三つ入りのプリンを買って、二つを弟が食べて一つをぼくが食べる。口の周りにプリンをつけ、おいしいねと笑う。愛されるために生まれてきたような子だ。舞い降りた天使と言ってもいいかもしれない。ぼくがこんなに幸せなのは、世界に祝福された彼の恩恵を受けたからに違いない。
なんていとしの弟の話をすると「おれは、この世界が嫌いだ」なんて言うから、その発言をするのは一年遅かったねとケラケラと笑った。中二病と言いたいのかと返したきみは、いまだ、真剣そうな顔をしたままだ。茶化す雰囲気を作ったぼくがバカみたいだ。
「みんなには、おれの姿なんて見えていないんだ」
きみは、自分のことを、幽霊だと言った。
大人はぼくたちの苦悩を〝青春〟なんて簡単な言葉でひとくくりにする。きっと同じころ大きさや種類は違えど苦しい思いをしてきたはずなのに、瑣末なことだと一蹴する。そして青春時代にいるぼくらでさえ、自分の苦悩が一番で、周りなど自分に比べれば大したことないものなのだと考えてしまう。他者のことなど、わからないくせに。
ユウくんとレイくん。
幽霊な、ぼくたち。
「おれは、きっと、どこにもいない」
大人に話せば笑われるだろう。同級生に話したってバカにされるだろう。きみは至極真剣で、そう思い至るまでたくさんたくさん、苦しいことがあったのだろう。だから、ぼくだけは。せめて、ぼくだけは。きみの味方になるって決めたんだ。
「きみは、ここにいる」
きみの瞳が揺れている。縋るように、ぼくを見つめている。
制服ズボンの下にある、傷だらけの右脚と、人工の左脚。痛みを持つはずのないぼくの脚が、痛みを持った気がした。
「ここにいるよ、ユウくん」
その日、きみは、声を上げて泣いたのだ。風が吹いて茶色く変わった桜の葉が揺れる。その音よりも、小さな小さな泣き声だった。
▽
門出を祝福するかのような満開の桜の下、きみは学校名が箔押しされた黒い筒を持ってやって来る。ほとんどの生徒はもう校門をくぐっていて、一部の部活に励む在校生の声が届いていた。
「レイ」
きみは、初めてぼくの仮名を口にした。
「卒業おめでとう、ユウくん」
きみは短く「おう」と呟いて、「『おう』ってなんだよ」とぼくは笑った。いつも発言にツッコミを入れるのはきみのほうだから、なんだか新鮮だった。最後の日まで新鮮さを与えてくれるのだ。
「結局三年間友達はできなかったのかい?」
「そうだよ」
「いつもみたいにデリカシーないって言わないんだ?」
「……高校に入ったら作るから、いいよ」
声を上げて泣いたあの日から、きみに徐々に変化が現れた。挨拶さえしなかったクラスメートと挨拶をして、義足のきみを気遣って荷物を運ばせなかった彼らと一緒に運ぶようになった。友達と呼べるほどの間柄には最後までなれず、卒業式後のクラス会にも行かなかったようだけど、きみにとって、それは大きな大きな一歩だったのだ。周囲の人からしたら、小さなことかもしれないけれど。
「ねえ、ユウくん」
陽が、傾く。夕焼けが、ぼくらを照らしている。
「幽霊に足はないらしいよ」
「つまり、おれは幽霊ってこと?」
「きみには戦士の右脚とかっこいい左脚があるじゃないか」
ぼくの言葉に、きみは目を伏せて息をひとつ吐き出した。
この場所で顔を合わせたときから、きみはどこか悲しい目をしていた。諦念とも侮蔑とも読めない瞳はぼくに向けられているのか、それとももっと違うところへ向いているのか、それすらもわからない。
だけど、願うのだ。
ねえ、笑って。笑って。
四季が巡って、桜が咲く。きみは桜の花弁から、目を逸らした。きみの視線は、桜の木の下に向けられる。
きみはきっと、ずっと前から気づいていた。だからきみは、たびたびそうして桜の木の下に目を向けていたのだろう?
足のあるきみは幽霊なんかじゃない。その戦士の右脚と、かっこいい左脚で、どこへだって行ける。
「レイ」
地面に伸びた影は、ひとつ。
ないのは足ではなく、影じゃないか。
桜の木がぼくの影と混ざっていただけだったらよかったのに。そう信じられるように、いつもぼくに向かって影が伸びてくれていたらよかったのに。そんな偶然を、与えてはくれない。
ぼくはどこにも行けない。気づいたらここにいたから。行きたい場所へは、行けなかったから。だから、奇跡だったのだ。きみが、ここを訪ねてくれたのは。きみが、ぼくを見つけてくれたのは、奇跡だったのだ。
霊感少女が中学三年生の夏にはぼくに幽霊の話をしなくなったのは当然だ。ぼくは、中学三年生の夏、事故に遭って死んだのだから。正しくは、霊感少女が話す幽霊の話を聞くことがなくなっただけ。
だから、ぼく、本当は知ってたんだ。彼女が本当は嘘つきだったってこと。だって、彼女は、ここにいたぼくを見つけてくれなかったから。ぼくを見つけてくれたら、家族に伝言でも頼もうと思ってたんだけどね。
「きみは大丈夫だよ。少しだけ口が悪いけど、やさしくて人思いのいい子だって、ぼくは知ってる。きっと、この先ずっと楽しいよ」
ねえ、ユウくん。
ぼくは、ごめんねは言わないよ。
「気の毒そうに見てきたら、言ってやればいいんだ。かっこいいだろって」
だから、きみも、言ったらダメだ。
「兄ちゃんの両腕を守った、かっこいい両脚なんだって」
ぼくは、あの日、事故に遭った。いつものように弟を迎えに行った、その帰りに。きみの命をどうしても守りたかったぼくはきみを抱きしめて、そのおかげで、ぼくの腰から上は無事だったのだ。両脚は、なくなってしまったけど。
きみの脚は瓦礫の下敷きになった。結果、伸びて薄くなっても一生消えない傷痕は右脚に残り、左脚は切断することとなった。
傷のひとつもなく助けてあげたかったけど、ぼくにはできなかった。本当は、きみをおぶって山頂まで連れて行ってあげる脚は、もうなかった。きみにはぼくの脚が見えているのかいないのか、わからないけど。
「父さんにも母さんにも、胸を張って言えばいいんだ」
ぼくが生き永らえていたら、きみは罪の意識に苛まれることなどなかったのだろう。きみはやさしいから、長男を失った両親のことを憂いたのだろう。いつまでもぼくが存在するように、ぼくの着ていた制服を着て、ぼくと同じように塾も行かず。ぼくの行こうとした高校に行こうとしたんだろう。
「ねえ、ユウくん。笑って。きみの名前はぼくがつけたんだよ」
憂う人に寄り添う人になりますように。そう願いを、こめた。そのとおり、きみは育ってくれた。憂うぼくに、何度だって会いに来てくれた。奇異な目で見られても。この一年、腫れ物扱いされたのは、きみのその脚が原因じゃない。きみが何もない空間に向かって話しかけ、笑い、泣いたから。誰に何を言われても、思われても、きみは、ぼくをここに存在させてくれた。
「優人が生きてくれて、ぼくは嬉しい」
風が吹いて、花弁が舞う。ひらり、ひらり、ひらり。
奇跡よ、起これ。そう願っても、人生そんなに上手くはできていない。
「おれ、兄ちゃんが、こんな、変なやつだと思わなかった」
「ハハッ、ユニークなお兄ちゃんだよ」
「プリンパンの味、覚えてないんだ」
「せっかく苦労して手に入れたのになぁ」
「入学したころにはもう先着十人しか食べられない制度もなかったし、プリンパンも売ってなかったし」
「そうなんだ。十年もあれば変わるんだね」
「山頂から見た景色も、覚えてない」
「残念だなぁ」
「今日の夕陽より、綺麗?」
「うん。きみをおぶって見た景色だからね」
「必ず、行くよ。何年かかっても。父さんと、友達と。母さんは、嫌がるかな」
そうだね、って、笑った。きみも、笑った。
ぼくたちは、こんな下らない話をしたかったのだ。ずっとずっと、この先も。きみが小学生になった姿を見たかった。中学生のきみは想定より捻くれていた。それでもぼくにとってはかわいい弟だ。これからきみはぼくの積み重ねられなかった時間を重ね、大人になっていく。
今までありがとう。ぼくの死を背負って生きてくれて。その細い肩には不似合いな、重たい荷物だっただろう。
重たい荷物を持つのは、兄であるぼくの役目なのに。
「優人、最後に人生を楽しむコツをもうひとつ教えてあげる」
ぼくの生きた時間よりも長く生きるきみへ。最後の最後、もうひとつだけ兄としての務めを果たさせてほしい。
「自分が信じたいものを信じることだよ」
霊感少女は嘘つきだった。ぼくにとっては。だけど、やっぱり嘘と言いきれないのは、ぼくは彼女じゃないからだ。十五で生を終えたぼくは、神様の気まぐれか、十五のきみと話をさせてくれた。きみのこの先の人生を願った。ぼくの死を悼んでも、罪など抱えないでほしい。お父さんもお母さんもきみを恨んでなんていない。何も遠慮しないで、幸せに生きていってほしい。きみの未来は明るいと、信じた。
きみの明るい人生のために、神様はきみとぼくにこの一年を与えてくれたのかもしれない。
「会えなくなっても、おれのこと、見ていてくれる?」
「うん」
「間違えたことしたら、怒ってくれる?」
「うーん……間違えたことしてるかぼくが判断できるかなぁ」
「うんって言うところじゃないのかよ」
「うん。きみが信じたいものを信じるんだ」
「じゃあ、兄ちゃんも、信じて」
風が吹いて、花弁が足元から吹き上がる。
ひらり。ひらり。実体のないはずのぼくの手に花弁が止まる。
ああ、よかった。幽霊にないのが足で。
両腕があるから、ぼくは、きみを抱きしめられる。
「ぼくが、ずっとずっとそばにいるから大丈夫だよ。きみの恋模様もバッチリ見ていてあげよう」
「ハハッ、キモい」
「失礼な」
そうして、好きな女の子やかわいい子どもと一緒に、ぼくのお墓参りに来てよ。たくさんたくさん楽しい話をして、それから、ありがとうって、たくさん言って。そうしたら、ぼくも、ずっとずっと呼ばれている気がするから。
ユウくんと、レイくん。
優人と、礼人。
ありがとうって笑って言ってくれたら、ぼくは、ずっとずっと在り続ける。
きみのその戦士の右脚とかっこいい左脚は、この愛情を抱きしめるためにぼくの両腕を守ってくれたのだから。




