山奥の古寺と
ショートショートです。
明確な説明を避けた「象徴抽象」の手法で始まります。
「具体的に、あれは何なのか」の説明を、ほぼ省き、謎を残したままの「放り」の手法で終わります。
生きがいを、なくした。
名も知らぬ駅で降り、山の中のけもの道を、漂うように歩く。
何かに熱中すると、無意識だけで動作を続ける。ただ、歩くだけ。
荷物は、胸の中の、両腕で抱えきれない黒い空間だけ。
いつの間にか、霧に包まれていた。
此岸と彼岸が、あいまいらしい。
意味はわからない。水墨画の中を、ひたすらに歩いている。
いつしか、誰も知らぬ、山奥の古寺だろうか。見上げることもなく、歩みを止めることもない。
どうやら、自分は、靴を脱ぐことを知っているらしい。靴を脱いで、板の間を進む。
突き当りに人影。若くはないが、年齢も性別もわからない。僧侶の畑仕事などの作業服である、作務衣を着ている。
巨大なオーラを感じる。もしや、あらゆる艱難辛苦を過ごした、高僧の解脱だろうか。
時が止まったのではない。ここには、「時」が無い。
この人に会うために、歩き続けたのだろうか。
立ち止まり、座る動きの、脚の痛みから、今まで歩き続けていたことを知らされた。
「生きとし生けるものは、ただ生きるために生まれた」
その声には、全く、圧力は無い。「無臭という香り」のように、言葉が静かに心に沁みて来た。究極の脱力。
「楽しむことが、生きること。ただ、それだけ」
悩むことが、自分でも可笑しくなった。
やかましい足音がした。振り返ると、汚れの無い作業服で、数人が入って来た。
そうだった。この世には、色があったんだ。
高僧と思われる人を、数人で連れ出した。
一人だけ、私服の人がいた。連れ出された人に、うんざりした口調で「遊んでばかりいないで、働きなさい!」と、叱っている。
高僧じゃない? ニート?
最後の一人が、携帯電話で報告している。去り際、電話をしながら、こちらに会釈した。
作業服の胸ポケットに書いてある文字は、読み取れなかった。
ワゴン車のドアが閉まる音、去って行く音が聞こえた。
バスのクラクションの音。雨の舗装道路を、たくさんの自動車が通り過ぎる音。幹線道路が、近いらしい。
冷えた体。脚の痛みで、立ち上がりたくない。篠突く雨が、建物を包み込む。
ニートと思われる人の言葉を、思い出す。
「楽しむことが、生きること。ただ、それだけ」
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