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第1話:錆びた針金とハローワールド

リサパチ・ウォール 第1話:錆びた針金とハローワールド

ゼェ、ハァ……っ。肺が焼き切れるみたいに痛い。アスファルトを蹴るスニーカーの底は、鉛みたいに重たくて、もう一歩も前に進めそうにない。でも、ダメだ。止まったら、喰われる。背後から聞こえる、あの不気味な呻き声と、何かを引きずるような湿った足音が、じりじりと、確実に距離を詰めてくるのがわかる。


あたし、小牧ルイは、ほとんど反射的に角を転がり込んだ。昼間でも陽光が届かない、古い家が密集する裏路地。ゴミ収集所の破れたネットから漏れ出す生ゴミの酸っぱい匂いが、鼻の奥を刺激する。息を吸うたびに、喉がヒリヒリする。ブロック塀には、誰がいつ描いたのか、チョークの猫の落書きが雨で滲んで薄気味悪い模様になっていた。どこにでもある、見慣れたはずの風景。でも、今はその全てが、息を潜めてあたしを待ち構える罠みたいに見えた。


心臓が張り裂けそうだ。ユズハ先輩なら、こういう時でも冷静に状況を分析して、的確な指示を出してくれるんだろうな…。でも、今は一人だ。あのパンデミックの日以来、学校の友達とはほとんど連絡が取れていない。リリカとは、ついさっきまでスマホでやり取りしてたけど、今はそれどころじゃない。あの子、また変な動画とか撮ってないといいけど…。


(どうしようあたし!? プランA:最後の力を振り絞って叫ぶ!…いや、余計にゾンビが集まるだけか。この前のリリカみたいに。プランB:エアコン室外機の裏に隠れる!…無理、狭すぎるし、汗の匂いでバレる。プランC:諦めて噛まれて、ラクになる…って、それだけは絶対にイヤだ!)


パニックで思考が空回りする。手のひらにじっとりと滲む汗が気持ち悪い。


絶望で頭の中が真っ白になりかけた、まさにその時だった。


視界の端に、何か妙なものが映った。電柱に、ガムテープで無造作に括り付けられた、一枚の真新しい板切れ。雨に濡れても大丈夫なように、丁寧にビニールで覆われている。そこに、マジックで書かれたらしい、はっきりとした文字が見えた。


『人なら足下の針金に注意!』


「……え?」


思わず声が漏れた。その板切れのすぐ下、地面スレスレの高さに、キラリと光る新品の針金が数本、路地を横切るようにピンと張られているのが見えた。巧妙に、でもどこか急いで設置したような、そんな印象のトラップだ。


その瞬間、路地の入り口からヌッと現れた一体が、その針金に勢いよく足を引っかけた。


「グェッ!?」


カエルが潰れたみたいな声を上げて、ソイツは顔面からアスファルトにダイブする。もう一体も、それに気づかず突っ込んできて、同じように派手に転んだ。


(助かった…!)


感心してる場合じゃない。これはチャンスだ。あたしは一瞬の躊躇の後、迷わず針金トラップが仕掛けられたその先――路地のさらに奥へと駆け出した。


数メートルも進むと、路地は少しだけ開けた小さなスペースに出て、その奥に、古びた二階建ての一軒家が見えた。煙突からは細く白い煙が、まるで誰かの溜息みたいに立ち上っている。誰かいる!


家の周囲の低い生垣や、庭木の幹の間にも、同じような新品の針金が、計算され尽くした蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。庭の隅には、何かを引きずったような新しい跡と、まだ乾ききっていない黒ずんだ血痕。ここも、戦場だ。


そして、その家の玄関先に、人影があった。


「あの…!」


声をかけると、その人影がゆっくりとこちらを向いた。肩までの無造作な黒髪。くたびれたパーカーにジーンズ。そして何より印象的だったのは、全てを見透かすような、それでいて何も考えていないようにも見える、不思議な色の瞳だった。あたしより少し年上…くらいかな? 手には、ペンチと、丸められた針金の束。


「…おや、お客さん? 例の警告看板、ちゃんと読めたみたいだね。それなりに頭は悪くないと見える。それとも、ただ運が良かっただけ?」


女の声だった。妙に落ち着いた、抑揚のない口調。顔には、埃なのか泥なのか、黒い汚れが何本も筋みたいについている。でも、その汚れの隙間から覗く肌は、驚くほど白く見えた。


「あ、あの、あなたが、あのトラップを…? 助かりました! 本当に!」


「まあね。趣味みたいなもんだよ」


彼女はそう言うと、あたしの全身を、頭のてっぺんからつま先まで、品定めするようにじろりと見た。その視線は厳しいけど、敵意はない。むしろ、その視線が首筋を通り過ぎる時、肌が粟立つのを感じた。


「で、あんた、ゾンビに追いかけられてたクチ? 見るからに必死だったけど」


女の人は立ち上がり、パーカーのポケットにペンチを無造作に突っ込んだ。その仕草で、パーカーの襟元がわずかに乱れ、汗ばんだ鎖骨の窪みが一瞬だけ覗く。あたしは、見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて視線を逸らした。


「は、はい! 二体です! でも、あなたのトラップのおかげで、なんとか…!」


「ふーん。二体か。トラップ君も頑張ったね。あんたも、運が良かった。あの針金、もうちょっと高い位置に張るべきだったかな。いや、あの高さだからこそ…」


彼女は独り言のようにそう呟くと、あたしとの距離を詰めてきた。一歩、また一歩。鉄錆と、それからこの人のものらしい、甘いような、汗のような、不思議な匂いが混じり合う。息が詰まる。


「…で、ここが安全なシェルターだとでも思って逃げ込んできたわけ? 残念だけど、そんなお人好しな場所、今の世界にはないよ」


彼女はそう言って、あたしのすぐ横を通り過ぎ、コツコツと自分の家の玄関ドアを指で叩いた。その声は、非情さというより、何かを諦めたような、でもそれを受け入れているような、そんな複雑な響きだった。


「え…じゃあ、ここも危ないってこと…ですか?」


「当たり前じゃん。でもまあ、入る? 追われてるなら、一時的には匿ってあげてもいいけど。ただし、足手まといになるようなら、その時は…わかるよね?」


ミユの言葉は淡々としていたけど、拒絶じゃない。むしろ、手を差し伸べてくれているように感じた。この人、ぶっきらぼうだけど、優しいのかもしれない。でも、その優しさの裏には、何かすごく厳しい現実を見据えているような、そんな覚悟も感じられた。


「あたしは時任ミユ。見ての通り、ただの通りすがりのガラクタいじりだよ。あんたは?」


「こ、小牧ルイです! あの、本当に…ありがとうございます! 足手まといには、絶対になりません!」


あたしは慌てて深々と頭を下げた。ミユと名乗ったその人は、そんなあたしを見て、初めて少しだけ口元を緩めたように見えた。それは、困ったような、でもどこか面白いものを見つけてしまった子供のような、そんな複雑な表情だった。


「ルイ、ね。まあ、とりあえず中入りなよ。立ち話もなんだし。コーヒーくらいなら出してあげてもいいけど、インスタントの安いやつだよ」


ミユはそう言うと、ひらりと身を翻して玄関のドアを開け、中へ促す。その細い背中が、なぜかすごく頼もしく見えた。


ミユの仮拠点の中は、意外にも生活感があった。部屋の隅には、工具や電子部品、それに用途不明のガラクタが山積みになっている。


「これ…何かの部品、ですか?」


「ん? ああ、ちょっとした趣味だよ。気にしないで。それより、ルイ。怪我とかしてない? 飲み物、持ってくるから座ってて。あ、そのソファ、右側のスプリングがちょっとイカれてるから気をつけて。座るなら左側推奨」


ミユはそう言うと、キッチンらしき方へ消えていった。戻ってきた彼女が差し出すマグカップを受け取る時、その無骨なマグカップを支える彼女の指が、やけに細くて白く見えた。指先が、ほんの僅かに触れ合う。ひやりとした感触に、あたしは心臓が小さく跳ねるのを感じた。


「あの、ミユさん」


あたしは思い切って声をかけた。マグカップからは、インスタントコーヒーの少し焦げたような、でも今は何よりもありがたい香りが立ち上っている。


「実は、あたし一人じゃなかったんです。同じ高校の友達と、一緒に逃げてて…。リリカっていう子とは、さっきまでスマホで連絡取れてたんですけど、今はどうなってるか…。もう一人、ユズハ先輩っていう人もいたんですけど、途中でゾンビの群れに襲われて…はぐれちゃって、それっきり…」


言いながら、涙がこみ上げてくる。ミユは黙ってあたしの話を聞いていた。その表情は、相変わらず読めない。でも、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、痛みを堪えるような、あるいは何かを決意するような、そんな複雑な色が浮かんだように見えた。


「…そうか」


ミユはぽつりと言った。それから、あたしのマグカップに目を落とし、続けた。


「大変だったな。…そのリリカって子と、ユズハ先輩か…」


その一言に、なぜかすごく救われた気がした。そして、ほんの少しだけ、希望が湧いてきた。この人なら、何かしてくれるかもしれない。


あたしの、このぶっ壊れた世界での新しい日常は、どうやらこの路地裏の、ミユの「仮拠点」から始まるみたいだ。一体これから、どうなっちゃうんだろう。リリカは? ユズハ先輩は? そして、ミユの、あのどこか寂しげな瞳の奥にあるものは? 不安はもちろんある。でも、それと同じくらい、このミユという人と一緒にいれば、何か面白いことが起こりそうな、そんな予感もしていた。


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