3 おとにきく はまへにたちて
あっという間に時が過ぎた。
旅の準備に与えられた猶予はわずか五日間であった。
明日の朝に、博頼は京を出立しなければいけない。
その晩、博頼の大宰府行きを伝え聞いた典連が来た。
二人は、いつものように釣殿で静かに酒を酌み交わした。
別離の寂寥が、夜の空気には強く混じっている。
「博頼。まことに大宰府へ行くとはな。お前が京を離れるなど、夢にも思わなかったぞ」
典連は寂しそうに眉を下げた。
「これもまた、常なき世の理であろう」
博頼は淡々と答えた。
典連は、博頼に真剣な眼差しを向けた。
「此度のこと、どうもきな臭い。心せよ博頼。
まあ、お前のほどの才があれば、心配はいらぬかもしれんが」
そう言って、典連は文を博頼に渡す。
「これは?」
いぶかしげに尋ねる博頼に、典連は笑いかける。
「じつはな典連。葦里は、太宰府の地の南、根深の出なのだ。一族のものが大宰府におる。困った時はそれを出すといい」
「すまぬな。ただ、私は政に近づく気はない。せっかく旅に出るのだ。
今まで書でしか知らなかったことをこの目で確かめてくるよ」
「お前らしい。まあお守り代わりだ。それにしても太宰府の地は遠い。寂しくなる。帰京を待っておるぞ」
「うむ。一年間と聞いている。帰れば、またこの釣殿で、存分に語ろうではないか」
博頼はそう言って小さく笑むと、典連との一時の別離の坏を交わした。
翌日の早朝。博頼は、都を出立した。
博頼は使節団の一員として馬に乗り、街道を進む。
馬上で都を振り返ると、遠く東寺の五重塔が視界に小さく見えている。
京の華やかな衣を脱ぎ、塵を払う身軽な旅装束に身を包んだ彼の姿は、まるで旅する蝶になったかのようである。
やがて、一行の視界に長岡の野が広がってきた。
ここは、かつて菅原道長や在原業平といった名だたる貴人が詩歌管弦の興を催した、由緒ある地である。
博頼は馬上で、かつてこの地を通り、大宰府へと下った菅原道真の、失意に満ちた旅路を思い浮かべた。
彼は当代一の知恵者であったが、謀に敗れた。人の世はやはり複雑なようだ。
博頼は、今回の旅は、むしろ政争から一時的に逃れる機会になったかと思う。
気持ち次第で旅への想いは変わる。不思議なものよと心で呟く。
やがて、山崎津へと至り、淀の川が見えてきた。
ここから舟に乗り、摂津へと出る。
大江まで出たところで、まさかの一晩の宿が用意されていた。
さすがは師時少輔の手配。まるで船遊びかと思わしき接待で博頼は少し苦笑する。
翌朝、船に乗り込んで、須磨へと向かう。
はじめてみる広大な海。
その雄大さに慄く。
都の池とは比べ物にならない、尽きることのない水域の圧倒的な姿は、博頼の知的好奇心を強く刺激した。
無事に一日の船旅を終えて、夕刻、須磨の浜辺に降り立つ博頼。
ここが、かの源氏物語で著名な須磨。
瀬戸内海を目にして、潮の香と波間に漂う侘しい風景を博頼は眺める。
静けさの中に凛とした空気を感じ、自然と背筋が伸びる。
源氏の君が過ごした時を思い起こしながら、博頼は心を詠んだ。
われたちて すまのはまへに おとにきく
なみまのかせよ あかしへいさなへ
(評判に聞いていた須磨の浜辺にいざ立った。源氏の君が明石の君に出会ったように、波間を渡る風よ、私の運命も良き方へ導いてほしい)




