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水を読む器  作者: katari
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1 うるはしき よるのまにまに

承保二年、深まる秋。


平安の都、左京の北辺。

従六位上行じゅろくいじょうぎょう中務少内記なかつかさしょうないき北条ほうじょう博頼のひろよりの邸にて。


藤原氏の分家である北条氏は低位貴族ではあるが、葛城玉出かつらぎのたまでの血をひくという母方の伝手により、邸宅の設えは、小さくも格調高い雅を凝らした空間となっていた。


邸の造りは、池を中心とした寝殿造の形式をとり、細殿の先に設けられた釣殿が、静かに水を湛えた庭池の面へと張り出している。


今宵、博頼は、友と二人、その釣殿の縁に座し、静かに酒を嗜んでいた。

周囲は闇に包まれているが、どこからともなく、松虫や鈴虫の合唱が幽かに響き渡り、秋の夜の寂寥をかえって深くさせている。


友の名は、従五位下じゅごいげ蔵人所寄人くろうどどころのよりうど葦里あしさと朝臣のあそん典連ふみつら

畏くも主上の側に仕える能吏である。

格上の貴族でありながら、博頼を気に入り、連んでくれている。

博頼としても典連とは不思議と気があった。


藤原の力が衰えを見せ始めた今日、世情が少し不安を感じさせている。

気晴らし、それもあっての、男二人だけの静かな夜の宴であった。


池の水面は、邸の奥に灯された篝火を映し、揺らめいている。

岸辺には、博頼が趣向を凝らして植えさせた藤袴が露を帯び、夜風に揺れていた。


博頼はふと、この昼、その藤袴に優雅に舞い降りていたアサギマダラの雄大な姿を思い出していた。

その蝶が遠い海を越えて旅をするという話は、彼の知的好奇心をくすぐるものであった。


「いつ来ても、お前の庭は閑雅の極みだ。都の喧騒を忘れる心地がする」

いつもは宮仕えの者らしく抜け目のない貌も、今は穏やかになっている典連が、坏を干しながら言った。

控えていた女房が、音を立てぬよう慎重に、その乾いた坏を白酒で満たす。


博頼は薄く笑い、自分の坏を干した。

彼の瞳は、水面に映る闇の揺らめきを静かに捉えている。

すかさず女房が酒を満たす。


「魔境ともいえる蔵人所から駆けつけてくれたお前への、せめてものもてなしだ、典連」

博頼の声からは、出世への執着が微塵も感じられなかった。

ただ、万象を明らかにしたい、その好奇心が目に宿り、その類稀なる知性を支えていた。


白酒は、夜の涼気に冷やされ、甘く舌に絡む。

二人は、酒肴の干し鯛や木菓子をつまみながら、静かに坏を重ねた。


典連は、小さく息を吸い込むと、少し真面目な顔になり博頼に問いかけた。

「しかし、お前ほどの才がありながら、内記の座に安んじているのは惜しい。

文書を扱う役目とはいえ、お前がその気になれば、さらに上への道は開けよう。

……儂が蔵人頭に口を利こうか?」


博頼は、池の水面に目を向けたまま、静かに答えた。

「上へ行くと、私の時間が減る。面倒なことだ。

典連。文書を写すことは、流れる水を写すことに似ている。

そこに、向き合い得心する。それが私の何よりの喜びだよ」


「博頼。お前はまこと、欲がない。その心は常に涼。儂には真似できんわ」

典連が感嘆するように言った。


博頼は、釣殿の縁に垂れる藤袴の影を見つめながら、おもむろに口をひらき、静かな声で歌を詠んだ。


みすころも ふしのいろして こころをは

              かきうつさはや たひのてふしる


(水に映る藤袴が影を宿している。もしそれを書き写したならば、遠くを旅する蝶の心を深く知ることができるのだろうか)


「良きなり」

雅な調べに感心した典連が、小さく息を吐く。

「ううむ、それなら儂は、」

二人はそのあと、月影のもとで静かに歌を詠み合い、秋の夜は優雅に更けていった。

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