友釣り
世界がひっくり返る経験、というものを、生まれて初めて体感している。
最初はどこか懐かしさというか、親しみやすさを感じていた。
おススメに流れてきたSNSの画像をまじまじと眺め、どことない親近感からくる好感で、何気なくタップして、拡大してみて。
あ、好きだな、これ。とても素直に思った。
でもそれが何なのかに気が付いた瞬間に、血の気が引いた。
私の絵だった。
水族館にいる女の子の絵。
水の表現は特に凝っていて、涼やかで立体感のある透明の中を淡い色で表現された大小さまざまな魚影たちが浮かび上がるように泳いでいる。この透明感にはこだわって描いた。絵の中に人物はいるけれど顔はあえて描かない。水槽から漏れる光にうっすら照らされて、水と魚の引き立て役になってもらうために。
その女の子のチェック柄の服の模様に紛れ込ませて、私のサインが入っている。
これは私の絵だ。
すぐに気づけなかったのは、水槽のサイズや女の子の立ち位置、床や天井のデザインが元の絵と違っていたから。
——AIに喰わせて出力された絵だったから。
視界が一気に狭まり、心臓が早鐘を打つ。いやな汗がスマホを持つ手をじっとりと湿らせ、息が荒くなった。好感が転じて嫌悪と怒りに変わり、まるで世界がひっくり返ったようだった。
世の悪意が唐突に全身に突き刺さってくるような気がして、強いめまいを覚える。
「大丈夫ですか?」
ハッとして顔を上げると、座る私の正面に立っていた女の人が、心配そうに私を見下ろしている。
電車内はそこそこの込み合いで、私と同じ学校の制服を着ている人やスーツを着ている人が大半だ。女の人も通勤中なのだろう、スーツとまではいかないが柔らかなオフィスカジュアル
コーデで、片手にスマホを持っていた。
「すみません、大丈夫で……」
女の人のスマホの画面が目に入る。
はずみというハンドルネームのプロフィール画面だった。編集中だったらしく、プロフィール文が半端に入力された状態で開かれている。
はずみ、は先ほどおススメに流れてきた私の絵の盗用AIイラストの、投稿主の名前だ。
怒りが再燃して、憎悪へと変化していくのを感じる。
私は顔を伏せた。今、まともに相手の顔を見たら、私はなにをするかわからない。
すぐ目の前に立つ盗人は綺麗なパンプスをお行儀よく履きこなしていた。
どうすればいいのかわからない。
しかしこのままにはしておけない。
私が降りる駅に着いた。同じ制服の人が次々に降りていくが、私は席を立つことができず、じっと俯いて綺麗なパンプスを睨みつける。
電車が発車してしまう。
閉まるドアの音を聞きながら、こいつの後をつけよう、と考えた。こいつの会社を特定して、匿名で苦情のメールを入れる。効果があるのかはわからないが、とにかく何かしてやらないことには気が済まない。
私は、綺麗なパンプスを凝視する。絶対に逃がさないという意思を込めて。
どのくらいそうして俯いていたのか、電車の揺れでハッとした。
スマホをきつく握りしめたままだったから、手が真っ白になっている。
まだ怒りは消えないものの、時間がたったせいか、さきほどよりは幾分ましになっていた。
なんだか現実感が薄い。もう一度あの絵を見て、あれが私の勘違いじゃなかったことを確認しようとスマホの画面をつけるが、絵ではなく右上の時刻が目に入りぎょっとする。通学でいつも利用している片道15分の電車だったが、私は乗車してから、かれこれもう1時間も乗っているようなのだ。
あわてて外の景色を見るも、運悪くトンネルの中に入ってしまう。
この電車に乗っていて、トンネルに入るのは初めてのことだった。
私は今、いったいどこにいるのか。
車内を見ると、目の前に立つ女の人—―はずみと、数人の眠りこけている人しかいない。
朝の通勤通学の時間帯だったから、もっと人がいっぱいいたはずなのに。
1時間もの間、私はあんなにいた人たちが降りていくのに、気が付かなかったのだろうか。
異様に長いトンネルを抜けると、窓の外では所狭しと木々が生い茂って凸凹としていた。かなり山に近いところを走っているらしい。
電車は止まらない。トンネルだけでも20分ほど、トンネルを抜けてからは、もう30分は走っているというのに。
落ち着きをなくす私とは対照的に、はずみのパンプスは微動だにしない。
この女はいったいどこまで行くつもりなのか。
こんな山ばかりのところに、会社なんてあるのだろうか。
電車に乗り込んでから、3時間ほどがたった頃。
ようやく駅に着いて、電車が止まる。パンプスが動いた。どうやらこの駅で降りるらしい。
不安と緊張と長く座っていたせいで疲れていたのもあって、駅名は聞き逃したが、とにかく私ははずみの後を追って電車を降りた。
その駅は無人駅らしく、打ち捨てられた廃駅だと言われても納得しそうなくらいさびれている。
「あれ?」
私は確かにはずみの後を追って駅に降りたはずだ。
なのに、駅には人っ子一人見当たらない。
電車を振り返るが、開いたドアの中にはずみの姿はなく、じゃあやっぱりこの駅で降りたに違いなかった。さっさとホームを抜けて、会社に向かったのだろう。私も追いかけないと。
音質の悪い電子音が足元からした。
はずみの持っていたスマホが落ちている。
しめた、と思った。本人は見失ったけど、スマホが手に入ればはずみの個人情報が抜き出せる。
私は黒い感情でいっぱいになりながらスマホに手を伸ばす。
しかし、スマホに表示された文章を見てその手が止まる。
『ごめんね。次はあなたの番』
ずいぶんと長い間停車していた電車のドアが、背後で閉まった。
呆然と走り去る電車を眺めてから、ふとホームを振り返り、駅名を確認する。
そこには、『きさらぎ駅』とかすれた字で書かれていた。