一話③
利兵衛が言った通り、たしかに背負子は重たかった。
荷物の重さに加えて、そもそも背負子自体の重さがそれなりにあるようだ。
これはいくら頑丈さが売りになろうとも、作りに関してはもう少し改善の余地がある気がする。
一左が背負った量ですら無理をすると体がふらつくから、堅吾の方はよほどの重さになっているはずだった。
正味、一人で運ぶような分量とは思えない。
そういう意味では、利兵衛の「荷物を分け合った方がいい」とはまさしく的確な助言であって、こちらの塩梅を計った上での発言だったらしい。
そんな人の厚意を無下にして、戻り足を行きと変わらない速度で歩く堅吾の表情は、後方を進む一左にはまったく見えない。
とはいえ、せいぜい歯を食いしばって進んでいるだろうことは、背後からでも容易に想像できた。
一応、帰り道に関して現状を報告すると、先の例と同じように堅吾が前、一左が後ろの順番で、二人はもと来た道を戻っている。
利兵衛と別れてからまださほど時間は経っていないはずだが、実情が実情だけに、堅吾は自分のことだけで精一杯の様子。だんだんと周囲への注意が散漫になっているようだ。
その分、一左が用心して気を張ってはいるのだが。
ただ実際のところ、そうそう不測の事態が起こる気配は感じない。
率直に言って、余計な仕事をわざわざ増やされている気分ではあった。
それではなぜ一左がいまだ堅吾の後ろを従順に従って歩いているかというと――。
もちろんそれは、『気に食わない相手が四苦八苦しているのをほくそ笑んで眺めていたい』という一左の正直な心の機微があっただけでもなく、単に現実的な理由からだ。
そうなくして、関所の近くまでたどり着いたときには、堅吾の息は明らかに上がっていた。
しかし、一左の目の前で弱みを見せるのがよっぽど嫌なのか、堅吾は一休みしようとするそぶりも見せない。
ひたすら荷物を背負ったまま、先の機会に乗り越えた柵の近くへと向かっていく。
その後ろ姿には、もはや周囲への配慮など微塵も感じないが、遠目に見える門番は相変わらず半分寝ているようだから、そこまで気を張らなくても大丈夫だろう。
(……よし)
ここで一左は初めて自分の歩く速度を早め、一息に堅吾の横を追い抜いた。
「……?」
この期に及んでの迅速な動きに、堅吾は不審そうな表情で一左の背中に視線を向ける。
だが、あえて口を開く気にもならなかったらしい。
そのうちに一左は、目的の柵の前まで進むと、自分が背負っていた荷物を一度地面におろした。
そうして一人、柵を乗り越えて向こう側に降りると、柵越しに自分の荷物をちらりと見てから、堅吾に視線を送る。
「…………??」
視線に気づいた堅吾が何かしらの反応をする前に、一左はすぐに顔をそらして身構える。
(………さあ、これで?)
どうなるだろう。
多少の不安はあるが、この一連の行動は一左が道中で考えていたことだった。
すなわち、いま自分が背負っている荷物の重さからして、この背負子を背負ったまま柵を乗り越えるのは難しいはずだと。
まさか、仮にも大事な荷物を積んだ背負子を柵の向こう側に送るのに、勢いひとつで乱暴に放り投げるわけにはいかない。
であれば、誰でも自然と思いつくのは、『二人が柵の両側で向かい合い、背負子を持ち上げて手渡しする』やり方だ。
手っ取り早く、一左は協力しろとは言わなかった。
むしろそうやって言葉にすること自体、余計な反発を生む原因になる。
『あくまで誰に指示されたわけでもなく、荷物の受け渡しを行うのは、堅吾自身がそうした方が良いと判断したから』
まるで面倒な子どもを相手にしているような配慮にも思えるが、ひとえに一左が考慮したのは、滞りなく関所を抜けることだけ。
それにもう正直、堅吾とはまともに会話したくないというのもある。
そう先んじて図った一左の仕立ては、おおむね間違っていなかった。
まもなく堅吾もその結論に至り、同時に『これは仕事の一環だ』とも見事に腹に収まったらしい。
かくして柵の前に立った堅吾は、のっそりとした動作で自分の背負っていた荷物をおろし、一呼吸置いたあとでまずは手軽な方、横にある一左の背負子を勢いをつけて持ち上げた。
そのまま柵の上を通して寄越されたものを、一左は腕を伸ばして受け取り、地面に置く。
(よし!)
これで一安心、最大の目的は果たすことができた。
次いで、『このまま自分だけ帰ったらどうなるかな』と一瞬、悪い考えが一左の頭をよぎったが、さすがにそれは道義にもとる。
その機会はまた後日に譲るとして、一左は堅吾に視線を送り、次を寄越すよううながした。
「…………」
しかし、堅吾はなかなか自分の背負子を持ち上げようとしない。
ひたいに汗を浮かべたその表情をうかがうに、どうやら背負子を一度にまるごと持ち上げられるか迷い、荷物をほどいて数回に分けられないか検討しているようだ。
いや、なんでもいいから早くしろ、と一左は足元の石でも投げつけようかと思ったが、もうここまでくると嫌々でも待つよりほかはない。
(……ったく)
いい加減あきれ果てながら一左は両腕を組み、それからゆっくりとした呼吸を、よもやの五回程度も繰り返しただろうか。
結局堅吾は、一度きりですべてを済ませることにしたらしい。
「……ふっ!」
本当にまったく遅ればせながら、再び気合を入れた堅吾は、両足を踏ん張って足元の背負子を持ち上げた。
すると今度は左右にふらついて危ういながらも、なんとか堅吾は持ち上げた荷物の高さを一定に保つ。
それを受け取ろうと一左もすぐに手を伸ばしたが――、
「!!」
ほんの刹那のことだった。
最後の最後に指が限界を迎えたのか、堅吾がずるりと手を滑らせたのは、一左が背負子に手をかけようとした瞬間。
「な……!」
とっさに一左は背負子の枠を掴んで自分の側に引き寄せようとしたが、想像したよりもはるかに荷物が重い。
指が掛かった程度ではとうてい支えきれず、結果、突然下から支えられる力を失った背負子は、斜めに傾きながら柵の上に乗りかかる格好になる。
そうして折り悪く、背負子と柵のぶつかった一点に集中して圧が掛かったために、その重みに耐えきれなかった柵の一部がばきりと音を立てて壊れてしまった。
「「……!!」」
背負子が地面にすべり落ちる。
堅吾と一左はお互い、音にならない呻きを漏らした。
それでも最後の悪あがきが功を奏したか、背負子は一左がいる側の地面に落ちている。
しかも運が良かったのは、落下で相当な衝撃があっただろうにも関わらず、背負子も荷物もなんら壊れた音を立てなかったことだ。
同時に運が悪かったのは、柵の折れる音が思った以上に大きく響き、おそらく離れた位置の門番の耳にまで届いたこと。
一左は一息に状況を飲み込むと、ただちに身を低くし、横を向いてその方角をうかがった。
(……っ!)
案の定だった。
神妙にも自分の仕事を思い出したらしい門番が、はっきりとこちらに注意を向けていた。
身体中に一気に緊張が奔ったが、門番はすぐには動かない。
ただ音がしたこちらの方向を疑り深い様子で見つめている。
くしくも一左たちがまだ見つかっていない様子なのは、向こう側が松明の灯りに目が慣れていて、急な暗がりが見通しづらいためだろう。
だが、だからこそ、状況を見極めるために、門番がこちらまでやって来るのは間違いない。
いまや一刻の猶予もなかった。一左は射抜くような目で柵の正面を向く。
しかし堅吾は、『やらかした』という狼狽した表情のまま、視線だけを門番の方を向けて固まっていた。
「おい!」
それを見た一左は、できうる限りの大げさな手振りでそっと柵を叩いて、小声で懸命に怒鳴った。
「早く! こっちに来い!」
「……いや、でも!」
「荷物! 俺ひとりじゃ、二つともは無理だ!」
言葉の通り、一左ひとりでは、背負子は一つしか運べない。
最悪どちらかを選ばねばならないなら、一左は当然、自分の荷物を選ぶ。
「それで、いいんだな!」
短い言葉にすべてを叩き込めて言うと、一左は足元の自分の背負子に手をかけた。
その姿に、堅吾もかろうじて覚悟を決めたらしい。
すぐさまその場で飛び上がって柵の上部を掴み、一気に乗り越えようとする。
「……!」
しかし気ばかり急いているために、堅吾は自分の手元すらよく見えていなかった。
柵に体重をかけた瞬間、ふたたびぺきっと乾いた音が鳴ったのはまだいい。
だが、続けて片足を持ち上げて乗り越えようとした瞬間、下履きの端が柵のどこかに引っかかったようだ。
「え、え?」
折り曲げた上半身だけは首尾よく柵を乗り越えているものの、堅吾はなかなか一左のいる側に足を引き上げることができない。
「……くそ、くそっ! なんで!」
焦った声で、堅吾は何度も悪態をつく。対して一左は、目の前の光景にろくな罵声も出てこない。
その程度の困難、いったん落ち着いて冷静に対処すれば何の障害でもないはずだ。
だが、焦った堅吾はあとにも先にもただただ力ずくですべてを乗り切ろうとしてしまう。
いまの状況が人の頭も感覚も鈍らせて、それゆえに余計に時間が掛かっているのだった。
そして一左もまたそれがわかっていながら、段取り良く他人を落ち着かせられるような状態でもない。
そうまごまごしているうちに、いよいよ遠くの門番がこちらに向かって歩き出した。
(……くっ!)
暗闇に目を慣らしながら、ゆっくりと近寄ってくる門番は、腰に刀を一振り差している。
生きた心地がしないのは堅吾も同じだろう。
それに加えて、柵に沿うように相手が歩いているのは、運悪く一左のいる南側。
一度見つかってしまえば、荷物を抱えながらではまず逃げ切れない。
一左は再び視線を上に向けた。
堅吾はまだ柵の上にいる。まだ、柵の上にいる。
ますます早く逃げないと、早々に後悔する暇さえなくなるかもしれない。
ここが、分水嶺だった。
一左はすでに自分の背負子を背負い、逃げる準備は万全。
いや、一左の両足はもう一目散に、自分勝手に走り出そうとする寸前だ。
だが、次の瞬間――、急に違和感が湧いた。
視野の両端がぼやけて、目の前の光景が浮き出すような感覚。
冷えた空気。雨。橋の下。
どこか頭の線がずれて、おかしくなったのか。
それに気づいたときには、一左は、傍目からはまったく自然に、なぜだか姿勢を変えてその場にしゃがみこみ、足元にあった手頃な石をひとつ拾っていた。
(……あれ?)
わからない。自分のやっていることが、よくわからない。
自身が始めた不可思議な行動に、一左はただ戸惑うほかない。
なのに、その次には。
一左は手元の石を強く握りしめ、門番の歩いてくる方向に向かって大きく振りかぶっている。
(やめろ、やめろやめろ!)
冷静な頭の部分が、絶叫に近い金切り声を響かせていた。
それでもただただ体の赴くまま。
一左は思い切り勢いをつけて、手の中の石を遠くの相手に投げつけていた。
「…………!」
対して、こちらに向かってくる門番。おそらく相当に注意はしていたはずだろう。
ただ、暗がりからほとんど無音で正確に石が飛んでくるとは、寸前まで思い至らなかったようだ。
それだけ平和な職場だったのかもしれない。
なんにせよ、当たった。当たってしまった。
それなりの大きさの石が、真正面から直接、顔面にぶつかった。
うっ、と一左のいる場所までうめき声が聞こえ、顔をおさえた門番はその場にしゃがみ込む。
しかし、気を失うほどではない。あくまで驚かせた程度、多少の時間稼ぎにしかならない。
幾ばくもなく相手は気を取り直して、今度は腰の刀を抜き放った上でこちらまで駆けてくる。
わずかに血走った目で一左が堅吾のほうを向くと、ようやく堅吾は柵を乗り越え、地面に降り立っていた。
それだけを確認した一左は、
(逃げるぞ!)
そう視線だけで告げ、返事も待たずにその場から走り出す。
言うに及ばず、堅吾も即座に自分の背負子を背負い、可能な限りの早足で追いかけてくるようだ。
(ぁあ――――――!)
許されるなら、獣のように奇声を上げながら、一左は走りたかった。
いやもしかしたら、知らず叫んでいたかもしれない。
……さすがにそれは嘘かもしれない。
そのあとのこと。
二人はともに脇目もふらずに道を走り続け、いつの間にか合流地点、さきに堅吾と待ち合わせた場所にまで戻ってきていた。
(…………もう大丈夫……か?)
命からがら逃げてきた興奮で顔を真っ赤にした一左は、やっとその事実に気づくと、わずかに走る速度を落とし、後ろを振り向く。
するとだいぶ後方に、必死になってこちらに駆けてくる堅吾の姿が見えた。
さらにその後ろ、目を凝らすようにしてよく見たが、刀を振りかぶった相手が追いかけて来る様子はない。
どうやら、最悪の事態はまぬがれたらしかった。一左はさらに足の速度を緩める。
大丈夫。逃げ切った。よかった。本当に。
結果的には、ひとまず荷物も命も失ってはいない。
だがもちろん、最高の結果でもない。
さきほど自分がしでかしたことを冷静に振り返ると、一左は頭が痛くなってくるようだ。
(なんでまた、あんなことしたかな……)
我ながら、土壇場に飛び出てきた自身の内なる蛮勇さには驚くしかなかった。
あれで投げた石が外れていたら、今頃どうなっていただろう。
いや、もう何を考えても後の祭りでしかないとはいえ。
……なんにせよ、限界だった。
一左はついにいったん足を止めると、ちょうど横に生えていた木に持たれかかるように体を預けた。
荷物は下ろさず、肺の底から絞り出すように大きく息を吐くと、冷えた空気に白い煙が大きく立ちのぼる。
そう時も置かず、ぜいぜいと荒く息を吐く音が聞こえ、いいかげんに堅吾も追いついてきたようだ。
気だるげに一左が目を向けると、無理を押し通した末、赤と青の色味が見事に入り混じった堅吾の尊顔が見える。
「…………」
さて、いまの状況をかんがみれば。
恥をさらしたままでは終われないと、堅吾も一左に対して言いたいことが山ほどあるだろう。
だが、疲れ切った一左はもう嫌味など聞きたくもなかったため、先んじて口を開こうとして――。
「……助かった。悪かった。……ありがとう」
しかしそれより先に、目の前の相手から信じられない一言が飛んできた。
「……は?」
突然、どうした。
急に人が変わったかのような、堅吾の素直な言葉。
思わず面食らった一左は、うまく反応を返せない。
「……いや、これは、うん……」
かたや堅吾のほうでも、これまでと正反対の態度を自身が示していることに戸惑っているらしい。
まるで頭で考えていたはずの言葉と、口から実際に出た言葉が異なってしまったかのような。
奇遇にも、それはなぜだか一左にも直近、覚えがある感覚だった。
……ともあれ、堅吾はたしかに礼を言った。
その事実に思い至った一左は、やはり何と答えるべきか迷いながら、
「……次があったら、お互い、もう少しうまくやろうな」
それだけ言って、一左は堅吾に一歩だけ近づき、小さく空を切るように足元のあたりを蹴ってやった。