一話① Breaking the Barrier with two Big Burdens
暗闇は、いつまでも肌になじまなかった。
吐き出す白い息を手でうすく抑えながら、一左はひとり静かに足を進めた。
山城国の最南部、相良郡。
その郡境へとつながる道の、ひとつである。
日中さえ人通りが少ないこの田舎道は、夜も更けたいま、人の気配など微塵も感じない。
辺りはただしんとして、虫の音すらも聞こえてこないほどだ。
(……もうそろそろ、だな)
一左は、道の先をまっすぐに見据える。視界は悪いが、踏み出す足元に不安はない。
山あいのなだらかな坂道は北側に一直線に伸びているだけだし、履いている草履はおろしたての新しい品だ。
いきおい全力で駆け回りでもしない限り、そう簡単に壊れたりはしないだろう。
だから、一左が本当に注意するべきなのは、ただこの一点。
『絶対に、松明の灯りには近づかないこと』
というのも先日、この郡境を目指す道の先に、新しく【関所】が建てられていたからだ。
無論、普段の通行量からして、そこまで立派な建物が作られたわけではない。
道をふさぐ簡易的な門と、人の背丈ほどの高さに組まれた柵。
また倉庫代わりに小さな小屋が建っているだけで、見張り役の番人もせいぜいが一人か二人。
その気になれば、こっそりと身一つで関所を抜けること自体、難しくはなかった。
ただ――、このあたりは道を一本外れると途端に獣道じみた悪路となるから、たとえばこちらが台車を使って物を運んでいるような状況だと、だいぶ話も違ってくる。
もとより関所を建てた側も、税を取るにはそちらを押さえておくだけで十分だと思っているのかもしれない。
(……)
一左は、再び抑えた息を吐いた。
しがない【地下】の身で考えても仕方のないことではあるが、世の常として、関所は物の流れを妨げる。
関所を通るたびに、決して安くない額の通行税を支払っていては、商いになるものもならなかった。
それでただ物の値段が上がるだけならまだしも、最悪、村々への行商やら人の行き来が打ち切られては、普段使いの品物すら容易には手に入らなくなる。
いかんせん山で塩は作れないし、浜辺で薪は拾えない。
いくらでも米が湧き出る袋があるのは物語の中だけで、生きるに必要な品々を自儘に自給自足できる村落など存在しない。
畢竟、だからこそ、国の人々は――特に物を運ぶことを生業にする各地の馬借などは、関所の新設がなされるたび、顔中を真っ赤にするほど怒って【権門】各所に訴え、挙句の果てには物騒な一揆を引き起こすのだろう。
ましてやそこに、普段から飢えと借銭とに尻を焼かれている者たちが加われば、いよいよなりふり構ってもいられなくなる。
まるで蝗のように京の都になだれ込み、高利貸したる土倉や酒屋への乱妨、および寺の広場などの占拠。
次いではその数を頼みに徳政、つまりは関所の撤廃や、債権、税の免除を要求する。
その成否や規模こそ異なれど、ここ十数年の間で一揆の噂を聞かなかった年というのは、数えるほどしかないはずだ。
(……ま、そこまで大げさな話になると、俺にはぜんぜん関係ないんだけど)
さておき、道をしばらく進んでいると、ふいに月が雲に隠され、辺りが暗くなった。
一左は何度かまばたきして、色の濃くなった闇間に目を慣らす。
すると、ちょうど道の少し先。
右手に広がる開けた土地に、雑木が数本、標のように立っているのがわかった。
そのうちの一本から、にわかに乾いた鳴き声がして、鳥がばさばさと飛び立っていく。
しかして一左は、ゆっくり体勢を低くすると、細めた目に力を入れ、視線の先を注視した。
(……ん)
一番手前の木の影、やはりかすかに人の気配を感じる。
なんとはなしに輪郭はわかるが、今の位置からだとよく見えない。
それゆえ一左は唇を突き出すように細めると、一度長く口笛を吹いた。
すると向こうから二度、短く区切った口笛が返ってくる。
どうやら目当ての人物であるらしい。
だが、一左は体の緊張を浅くも解かず、そろそろと近づいていく。
そうしてやっとお互いの顔が見えたところで、
「……ようやくのご到着か」
先に声をかけてきたのは、相手側の方だった。
「なんともまあ、ゆっくり歩いてきたもんだな」
中肉中背、まだ年若い顔つきの男。
野卑な麻の衣服を身にまとい、寒空に強くこすったのか、小鼻のあたりだけを妙に赤くしている。
「それとも、道でも間違えたのか? 本当に? こんな真っすぐ歩くだけの、簡単な道を?」
見るからに、明確に悪意のこもった目つきだった。
加えてまだ互いの挨拶もないままに、この毒気のある物言い。
これには一左も「……あ?」と、鋭く冷えた声で反応する。
「……いや、あまり考えなしに早く着いて、万が一でも人目についたら困るだろ」
無論、この場で胸ぐらをつかみ合うような大喧嘩をしでかすわけにはいかない。
すぐに一左は気を取り直し、声を抑えて仕切り直した。だが、それだけだとまだ言い足りない。
「それに、ここに集まるのは月がてっぺんに来る頃だって決まりだよな? ほら、上見てみろよ。誰がどう見ても、いまがちょうどだろ」
「……ふん。さて、どうだったか」
口ぶりからして、男は一左の理屈になどかけらも耳を傾ける気はないようだ。
それどころか、一左が抗してきた事実を無視するかのように、鼻を鳴らして顔を背けた。
そんな男の態度の悪さに一左も負けず、これでもかと顔をしかめて一度、舌打ちをする。
言わずもがな、目の前の男は一左とは違う村の出身。
名は堅吾といい、近隣の村、【上溝村】という集落の出だった。
年は確か、十六とか七とか言っていたはず。おおよそ一左と同じほどの年齢だ。
思えば今日の仕事相手、堅吾と初めて顔を合わせたのはふた月ほど前のこと。
それから指折り数えれば、一緒に仕事をするのはこれで三度目になる。
だが、いまの会話からもわかる通り、お互い残念なほど反りが合わないことは、すでに重々承知していた。
(……あ――――)
気怠い。
ふりかえって前回、前々回は一左と堅吾以外にも人が参加していたのだが、今回に関しては二人きりでの仕事。
それゆえ、互いの間に入って壁になってくれるような人間もいない。
この調子でいまから物事が進むのだと思うと、一左はただひたすら憂鬱になるようだ。
(ただでさえ、ろくでもない仕事だってのに)
それでも、いちど引き受けてしまったからには、こなすべき仕事はこなさねばならない。
一左は目の前に浮かんで見えるような面倒臭さの膜を、一点で突き破って尋ねる。
「それで? 西と東、今日はどっち側に行くんだ?」
「……西側だ。そっちをぐるっとまわって関所を抜けた先に、相手が待ってるって手はずだ」
相変わらずの口調で堅吾は答えたが、いいかげん仕事には手を抜くつもりはないらしい。
「あとは――。いやまあ、細かいことは俺がやるから、そっちは黙って後ろをついてこい。今度は遅れるなよ」
そう言って、こちらの返事も聞かずに歩き出した背中に、一左もまた飛び蹴りをくらわせたい気持ちを我慢して、静かに道を歩き出した。
【関所】幕府も認知している公的な関所のほか、有力者が私的に建てた関所も多々ある(という設定)。
【地下】庶民の意。地下人とも。
【権門】社会的な特権を持つ有力者たちの門閥。公家や寺社、武家などの特定の集まり、集団。
【上溝村】架空の村。山城国相楽郡東部の中山間地域に存在する設定。