零話 Prologue : Ending.5
にわかに、雨が降り出したようだ。
小雨。いや次第に、音が強くなっていく。
(…………)
宇治川に架かる大橋の下。
冷えた空気に、薄く吐いた息が白く濁る。
雨に降ってほしくはなかった。
なにより、地面がぬかるむからだ。
川原の小石をなるべく避けて、二枚重ねて敷いた茣蓙。
そこに寝転んでいると、隙間から徐々に水気が染み込んでくる。
ただでさえ汚れ放題の下履きに、じっとりとした泥の濃い色が吸い込まれていく。
否応なしに足や尻が冷え始めていたが、どうすることもできなかった。
着たきりの上下と、地面に敷いている茣蓙二枚。
それ以外には、もう何も手持ちがないからだ。
特にここ二三日は、ろくな飯すら食えていない。
運悪く、日雇いの働き口が見つからなかった。
なので腹が減れば、ひたすら川の水を飲んで凌ぐばかり。
そのせいで、頭もうまく回らなくなっている気がする。
ただあいにく、昔から体だけは丈夫だったからだろう。
まだたぶん、動こうと思えば、動ける。立ち上がれる。
そう、まだ立ち上がれるうちに、なんとか飯を確保しなければならない。
どこかぼんやりと霞むような頭で、一左はこれからの方策を考える。
いまの体力で、雇われの力仕事を探すのは無謀だろう。
給金をもらうどころか、おそらくふらふらと縒れるばかりで、周囲の邪魔になるだけだ。
だからといって、頭を使う仕事も満足にできるとは思えない。
(……それでも、とにかく。雨が弱まったら、動かないと駄目だ)
そう決めた一左は、いちど大きく息を吸って深く吐く。
それからきつく色が変わるほどに唇を強く閉じると、自らの覚悟を誓うように――|自身の左腕を横から掴むもの《・・・・・・・・・・・・・》に目をやった。
「…………」
か細く、色味の薄い、骨ばった指。
満足な食事を取れなくて、肉が落ちてしまったのだろう。
爪はささくれ、節は荒れ。乾いた手のひらの、その感触。
華奢と呼ぶにはあまりに頼りない両手が、一左の手首のあたりを、弱々しく握りしめている。
せめて一左はそっと右手を伸ばし、その手の甲に付いた小さな土くれを剥がしてやった。
次いで、その跡を指で撫でてもやる。
残りの土と一緒に、黒ずんだ垢がかすかに落ちる。
一左がその肌に触れても、反応が返ってくる様子はない。
だが、触れれば、確かに人の熱を感じられるのだ。
『姉』は、たしかに生きている。だから、一人ではない。
一左にとって、それは最後に残った心の支えかもしれなかった。
一左は目をつぶって、左腕から顔を背けた。
心を落ち着かせるように、ふたたび一呼吸。
そして、はたと気づく。
雨音とは違う、水の撥ねる音。
ぱしゃぱしゃと大げさな音を立てて、橋の下に駆けてくる者たちがいるようだ。
(……雨宿りかな)
一左はいまの気分が変わることを歓迎するように、音のする方をじっと眺めた。
そうなくして橋の下に駆け込んできたのは、男。
いや、一人ではない。三人。年も背格好も違う男たちだ。
皆、濡れて垂れてきた髪を両手でかき上げながら、荒くぜえぜえと息を吐いている。
三人の服装は粗末に見えた。
とはいえ、一左たちのように土で汚れたりはしていない。
つまり、日雇いのその日暮らしで生活しているような格好ではない。
どこかの家に仕えている者たちだろうか。
ならば、人を助ける余裕などないだろうか。
まもなく、三人もこちらの存在に気づいたようだ。
向こうからすると、茣蓙を敷いて座っているのと、横になっているの。
その状況、あるいは姿格好からだけで、皆、ある種の確信を持ったらしい。
それはひとえに、一左たちの立場。
まず間違いなく、近隣の村からの流民だと。
そこらの道端でもよく見かける、京の都に逃散して来た奴らだと。
そうした三人の反応は、一左が期待したものではなかった。
すぐに男たちの視線に、こちらを蔑むような色が混じり――。
いや、違う。一左は気づいた。
何かを嫌なことを思いついた人間の顔。
たちの悪い、関わり合いになりたくないと思わせるような表情、目つき。
そんな一左の内心を知ってか知らずか、真ん中にいた男の一人が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
遅れて残りの二人も、にじり寄るように距離を詰めてくる。
ある程度まで近づいたところで、先頭の男が顔をしかめて自分の鼻をつまんだ。
先頭の男が俺を見る。違う。相手は一左の様子など気にしていない。
その目は一左の左横に向けられていた。
髪の長さで、女と気付いたようだ。
一左はそれを見て取った途端に、叫んだ。「やめろ」と。
しかし久しぶりに出した大声は、思ったよりもずいぶんくぐもった声になった。
男は一左は無視してその目の前にしゃがみこみ、その細い腕を一左の手首から引き剥がす。
一左は、とっさに男を突き飛ばそうとした。
「……!」
その次には、逆に思い切り勢いをつけて顔を蹴り飛ばされていた。
一左が感じたのは、草履の裏のざらついた感触。痛みはそれほどでもない。
ただ、顔じゅうが泥まみれになったのと、すこし意識が飛びそうになっただけだ。
「……誰か、誰か!」
知らず、叫んでいた。できる限り大声で、精一杯、叫んだつもりだ。
自分の声は、ざあざあと激しい音を立て始めた雨にも負けていない。きっとそのはずだ。
だから、誰かが。きっと、助けに。
「どこで、いったい、何を間違えたんだろう」
……急に、いつか、誰かが言っていた言葉が思い出された。
頭の裏に触れる茣蓙の感触を確かめながら、一左はその言葉を反芻する。
こんな事態に陥るくらいなら、もっと自分には、なにかができたのではないか。
たとえば、頭に浮かんだのは、あの晩、あの夜。
村の仕事で関所を越えることになった、数年前の出来事だった。