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室町一記  作者: おんたま
1/6

零話  Prologue : Ending.5

 にわかに、雨が降り出したようだ。

 小雨。いや次第に、音が強くなっていく。


(…………)


 宇治川に架かる大橋の下。

 冷えた空気に、薄く吐いた息が白く濁る。

 雨に降ってほしくはなかった。

 なにより、地面がぬかるむからだ。


 川原の小石をなるべく避けて、二枚重ねて敷いた茣蓙ござ

 そこに寝転んでいると、隙間から徐々に水気が染み込んでくる。

 ただでさえ汚れ放題の下履きに、じっとりとした泥の濃い色が吸い込まれていく。


 否応なしに足や尻が冷え始めていたが、どうすることもできなかった。

 着たきりの上下と、地面に敷いている茣蓙二枚。

 それ以外には、もう何も手持ちがないからだ。

 

 特にここ二三日は、ろくな飯すら食えていない。

 運悪く、日雇いの働き口が見つからなかった。

 なので腹が減れば、ひたすら川の水を飲んでしのぐばかり。

 そのせいで、頭もうまく回らなくなっている気がする。


 ただあいにく、昔から体だけは丈夫だったからだろう。

 まだたぶん、動こうと思えば、動ける。立ち上がれる。

 そう、まだ立ち上がれるうちに、なんとか飯を確保しなければならない。


 どこかぼんやりとかすむような頭で、一左いっさはこれからの方策を考える。

 いまの体力で、雇われの力仕事を探すのは無謀だろう。

 給金をもらうどころか、おそらくふらふらとれるばかりで、周囲の邪魔になるだけだ。

 だからといって、頭を使う仕事も満足にできるとは思えない。

 

(……それでも、とにかく。雨が弱まったら、動かないと駄目だ)


 そう決めた一左は、いちど大きく息を吸って深く吐く。

 それからきつく色が変わるほどに唇を強く閉じると、自らの覚悟を誓うように――|自身の左腕を横から掴むもの《・・・・・・・・・・・・・》に目をやった。


「…………」


 か細く、色味の薄い、骨ばった指。

 満足な食事を取れなくて、肉が落ちてしまったのだろう。

 爪はささくれ、節は荒れ。乾いた手のひらの、その感触。

 華奢と呼ぶにはあまりに頼りない両手が、一左の手首のあたりを、弱々しく握りしめている。


 せめて一左はそっと右手を伸ばし、その手の甲に付いた小さな土くれを剥がしてやった。

 次いで、その跡を指で撫でてもやる。

 残りの土と一緒に、黒ずんだ垢がかすかに落ちる。


 一左がその肌に触れても、反応が返ってくる様子はない。

 だが、触れれば、確かに人の熱を感じられるのだ。

 『姉』は、たしかに生きている。だから、一人ではない。

 一左にとって、それは最後に残った心の支えかもしれなかった。


 一左は目をつぶって、左腕から顔を背けた。

 心を落ち着かせるように、ふたたび一呼吸。

 そして、はたと気づく。

 雨音とは違う、水の撥ねる音。

 ぱしゃぱしゃと大げさな音を立てて、橋の下に駆けてくる者たちがいるようだ。


(……雨宿りかな)


 一左はいまの気分が変わることを歓迎するように、音のする方をじっと眺めた。

 そうなくして橋の下に駆け込んできたのは、男。

 いや、一人ではない。三人。年も背格好も違う男たちだ。

 皆、濡れて垂れてきた髪を両手でかき上げながら、荒くぜえぜえと息を吐いている。


 三人の服装は粗末に見えた。

 とはいえ、一左たちのように土で汚れたりはしていない。

 つまり、日雇いのその日暮らしで生活しているような格好ではない。

 どこかの家に仕えている者たちだろうか。

 ならば、人を助ける余裕などないだろうか。


 まもなく、三人もこちらの存在に気づいたようだ。

 向こうからすると、茣蓙を敷いて座っている()と、横になっている()

 その状況、あるいは姿格好からだけで、皆、ある種の確信を持ったらしい。


 それはひとえに、一左たちの立場。

 まず間違いなく、近隣の村からの流民だと。

 そこらの道端でもよく見かける、京の都に逃散して来た奴らだと。

 そうした三人の反応は、一左が期待したものではなかった。

 

 すぐに男たちの視線に、こちらを蔑むような色が混じり――。

 いや、違う。一左は気づいた。

 何かを嫌なことを思いついた人間の顔。

 たちの悪い、関わり合いになりたくないと思わせるような表情、目つき。


 そんな一左の内心を知ってか知らずか、真ん中にいた男の一人が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 遅れて残りの二人も、にじり寄るように距離を詰めてくる。

 ある程度まで近づいたところで、先頭の男が顔をしかめて自分の鼻をつまんだ。


 先頭の男が俺を見る。違う。相手は一左の様子など気にしていない。

 その目は一左の左横に向けられていた。

 髪の長さで、女と気付いたようだ。


 一左はそれを見て取った途端に、叫んだ。「やめろ」と。

 しかし久しぶりに出した大声は、思ったよりもずいぶんくぐもった声になった。

 男は一左は無視してその目の前にしゃがみこみ、その細い腕を一左の手首から引き剥がす。

 一左は、とっさに男を突き飛ばそうとした。


「……!」


 その次には、逆に思い切り勢いをつけて顔を蹴り飛ばされていた。

 一左が感じたのは、草履の裏のざらついた感触。痛みはそれほどでもない。

 ただ、顔じゅうが泥まみれになったのと、すこし意識が飛びそうになっただけだ。


「……誰か、誰か!」


 知らず、叫んでいた。できる限り大声で、精一杯、叫んだつもりだ。

 自分の声は、ざあざあと激しい音を立て始めた雨にも負けていない。きっとそのはずだ。

 だから、誰かが。きっと、助けに。


「どこで、いったい、何を間違えたんだろう」


 ……急に、いつか、誰かが言っていた言葉が思い出された。

 頭の裏に触れる茣蓙の感触を確かめながら、一左はその言葉を反芻はんすうする。

 こんな事態に陥るくらいなら、もっと自分には、なにかができたのではないか。


 たとえば、頭に浮かんだのは、あの晩、あの夜。

 村の仕事で関所を越えることになった、数年前の出来事だった。

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