track3.第二第三の実家
フェルナンド商会を後にした私は錬金術師協会ウィンドット支部、通称『研究所』へと向かった。
研究所は街の北の外れ、周囲に民家や街道のない辺鄙な場所に位置し、用事のない人間は滅多に近づかない。それは朝から晩まで研究所から奇妙な声や音が聞こえたり、時には小規模な火災や爆発が起きたりと、明らかに危険な香りがする場所だからだ。もし自分の子供がいたら、ここには絶対近付くなと言い聞かせるだろう。
だがここは私にとって、実の母で錬金術師でもあるエミリア・ハーフマンの職場であり、小さい頃からラジオの研究開発でしょっちゅう出入りしている第二の実家のような場所だ。前述の通りそれなりに危険な場所なので、安心感はこれっぽっちもないが。
街並みを抜けて少しすると、遠くからでも目立つ無機質な四角い建物と、倉庫が並んでいるのが見えてきた。これが研究所だ。どちらも三階建てアパートくらいの大きさで、四角い方には共同研究を行うための広めのラボと、所属する研究者の個室が幾つか収容されている。
倉庫の方は単に資材や大型の魔道具を置いておく以外に、屋内の広い実験場が必要な際にも使われる。
私は共同研究用のラボの扉を開いて中に入った。
「お疲れ様でーす……うわぁ、やっぱり。こまめに換気しろって言ってるじゃないですか、リリー」
カーテンが締め切られたラボの室内は薄暗く、丸一日は換気していないであろう淀んだ空気も相まって、慣れない者ならここに居るだけで体調を崩してしまいそうな有様だった。机に突っ伏した人影にお小言を言いつつ、私はラボの窓をひとつ残らず全開にする作業に取り掛かった。
「おかえりなさいヘクターくん、待っていましたよ……」
机に突っ伏したまま顔だけをこちらに向け、掠れた声で返事をする彼女はリリー。二年ほど前からここの研究所で働いている見習い研究者だ。見習いなので自分の部屋はまだ貰えず、共用ラボが彼女の根城になっている。
年齢的には彼女の方が三つほど年上なのだが、私の方がここに通って長いからとリリーが言うので、お互いの呼び方以外はほぼ敬語という少々歪な話し方になっている。
「待っていたって、どうせ私じゃなくてこっちでしょう?」
フェルナンド商会で受け取った鞄から大人の顔ほどの大きさがある瓶を取り出し、彼女の傍らに置いた。瓶の中には黒い粉末が目一杯詰め込まれている。
「待ってましたよ〜、愛しの珈琲ちゃん!あなたがいないと研究が捗らないんです。早速お湯を沸かしましょうね〜♪」
瓶の中身はフェルナンド商会の人気商品のひとつ、コーヒーだ。私が研究所に来るのはラジオ開発の進捗を確認するためだけでなく、パトロンからの物的支援を研究者の皆さんにお届けするためでもある。どうせ行くのだからと配達を引き受けて以来、定期的にやっていることだ。
内訳としてはコーヒー以外に紅茶、角砂糖、茶菓子が少々。それと商品ではないが、フェルナンド商会がラジオについて調査した結果の報告書が主な荷物だ。
お目当ての荷物が届いたリリーは上機嫌で跳ねるように立ち上がり、鼻歌混じりにお湯を沸かし始めた。
ウィンドット辺境伯領があるマテリオン王国では、飲用の嗜好品としては紅茶が主流だ。だがフェルナンド商会が国外から持ち込んだコーヒーが王都を中心にコアなファンを獲得し、若干ではあるが勢力図が変化しつつある。特に文官や研究職の人間に好評なようだ。
金属製のポットに入れられた水は魔道具の火を受けてあっという間に沸騰した。その僅かな間にリリーはコーヒー専用と書かれた箱を持ってきて漏斗やマグを取り出し、それを使ってコーヒーを淹れる。
換気されて淀みの薄くなった空間にコーヒーの良い香りが広がった。
「せっかくだから一杯頂いても?」
「もちろんですとも。珈琲をもたらした功労者には、相応の報酬があって然るべきです」
リリーは二人分のマグを用意し、そこにコーヒーを注ぐ。
「どうぞ」
「どうも」
マグを受け取って一口飲んだ。肉体的にはまだ大人になり切っていないので少々苦味を強く感じるが、一般的には飲みやすい部類に入るコーヒーだと思う。
しばし言葉少なにコーヒーを楽しんだ後、リリーはラボの壁に設置された伝声管に向かって喋った。伝声管とは平たくいえば金属製の糸電話のようなもので、金属製のパイプが建物のすべての部屋に張り巡らされており、研究所で何かあるとこれを使って呼び出しがかけられる。
「皆さん、ヘクターくんが来てくれたので珈琲が補充されましたよ!」
コーヒー到着の一報を聞いた研究者達の返答とも呻きともつかない声が、伝声管を伝わって帰ってきた。……カフェインも糖分も、そして研究も程々に。
◇ ◇ ◇
研究所を後にした私は次に、ウィンディアナの冒険者ギルドへ足を運んだ。父、ジョージ・ハーフマンの勤め先だが、今日は私が頼みごとをしてしまったので不在だ。その頼みごとには母にも同行してもらっているので、同様に母も研究所を留守にしていた。
研究所が第二の実家なら、ギルドは第三の実家だ。私が幼い頃から母は錬金術の研究に明け暮れており、まぁその原因は八割がた私のもたらしたアイデアのせいなのだが、兎にも角にも、まだ幼い私を家にひとりで置いておくわけにも行かず。母や研究所の皆さんの手が全く開かない時、私は父の職場であるギルドへよく連れられて来ていた。
ただ父も父で忙しい立場であるので、私の面倒を見たのは専ら暇を弄んだ冒険者達と、ギルドの建物内にある酒場の皆さんだった。朝から晩まで酒場に居続けた、なんてことも数えきれないほどあった。
「よぉボウズ、今日はどうした?」
夜の分の仕込みが終わったのか、暇を持て余した様子の厨房のおっちゃんが、夕陽に照らされながらギルドの外でタバコをふかしていた。彼は私が幼い頃からの顔馴染みで、ギルドにお邪魔している時にしょっちゅう餌付けされた仲だ。
「ギルマスにちょっと用事が。あとこれ、こないだ言ってたキノコの乾物です。何か新作の開発でも?」
鞄から椎茸の干物が入った紙袋を取り出して見せる。フェルナンド商会がロザリアさんをこっちに寄越して以来、幼少期にお世話になった彼には食材の融通をたまにしている。
おっちゃんは吸っていたタバコをもみ消して紙袋を受け取った。
「おー、ありがてぇ!倅の嫁さん、悪阻が酷くてな。この乾物でとった出汁の粥は、珍しく美味そうに食ってたんだ」
「そうならそうと言ってくれればいいのに」
初耳だったが、どうやら彼のところにはお孫さんが生まれるらしい。つわりがあるということはまだ妊娠初期なので、時期としてはまだ先だろうけど。
「ボウズが頼んだんなら、どうせフェルナンド商会がそれなりの量を仕入れてる。あとはそっちから買うさ。ここ三ヶ月はラジオのおかげで人の入りがいいからな、金に余裕があるんだよ」
ギルドの酒場にもラジオを置かせていただいている。将来的に持ち運べるサイズのラジオが完成したら、冒険者やギルド関係者は確実にいいお客さんになってくれるはずだからだ。
ギルドの酒場はこれまで冒険者に対するイメージから一般客には敬遠されがちだったのだが、ラジオが設置されたことでギルド関係者以外の利用が増えているらしい。実際、付き合うのに少々コツがいるだけで冒険者の多くはいい人たちなのだから当然の流れだろう。
「余裕があるのは結構ですけど、孫が生まれるなら蓄えておいた方がいいんじゃないですか?」
「いいんだよ。あそこが儲かりゃ、結果的にボウズが動きやすくなるからな」
「それはそうですけど……」
商会の売り上げが上がればそれだけ、ロザリアさんから受けられる支援も大きくなる。助かるのは事実でも、申し訳ないという気持ちの方が勝る。
「気にすんなって!それよりほれ、さっさとギルマスに会ってこい」
こうなったらもう聞いてくれない。今度、ロザリアさんに乳幼児がいる家庭向けの商品を多めに発注してもらえないか打診してみよう。
ギルドの建物内は、夕方前という時間帯もあって比較的人が少なく、静かだった。二階ほどの高さが吹き抜けになったエントランスホールの両脇にはミーティングや飲み食いに使える座席整然と並べられており、突き当たりには依頼人や冒険者向けの受付がある。
受付でギルマスとの面会の予定を伝えて待っていると、程なく面談室へと通された。調度品や装飾の少ない、シンプルな作りになっている部屋だ。ソファに座って出されたお茶を飲みながら待っていると、五分ほど経ったあたりで入り口とは別の扉が開かれた。
「やぁやぁ、待たせてすまないね。とりあえず入っておくれよ」
そこに立っていたのはウィンドットのギルドマスター、テッドさんだった。メガネをかけた長身痩躯の男で、頭髪には白いものが混ざり始めているが溌剌とした雰囲気を纏っている。彼は手招きして、自分のいる部屋へ来るよう私に促す。
「こちらこそ、お忙しいのにお時間いただいてしまってすみません」
カップの紅茶を飲み干し、テーブルに置いてから隣室へと移動した。面談室の隣はギルマスの執務室になっており、書類が積み上げられている執務机が窓辺に置かれ、壁には一面資料で埋め尽くされた本棚が並んでいる。
「忙しかろうが何だろうが、これの実験は何よりも重要なことだ。そうだろう?」
テッドさんはそう言って、執務机の傍に鎮座する車輪付きチェストのようなものをポンポンと叩いた。研究所謹製の通信用魔道具、その試作機の完成版だ。これにも手紙鳥のマークがついている。今日はこれを含め、いくつかの魔道具のテストを行う予定だ。
街の中心付近にあるギルド、街外れの研究所、そして街から半日ほど行った先にあるダンジョン。今日はこの三箇所で、同時に十分間の通信を行うことがひとまずの課題となっている。
「そこまで高く評価していただけているのは嬉しい限りです。実験がうまくいったらもっと嬉しいんですけど……」
ゴーン、ガラーン、ゴーン、ガラーン、ゴーン……
街に、教会の鐘の音が鳴り響いた。夕刻の合図だ。家庭では夕飯の支度が始まり、ギルドにもそろそろ冒険者たちが戻ってくる頃合いだ。そしてこの鐘は、今日の実験開始の合図でもある。
ジリリリリン、ジリリリリン……
通信用魔道具に付けられたベルがけたたましく鳴り響いた。側面についたダイヤル式のスイッチを百八十度回転させ、待機状態から通話モードに切り替える。それと同時に、テッドさんが計測用の砂時計をひっくり返した。一拍置いて、魔道具から少しこもった女性の声が聞こえてきた。
『こちらダンジョン班、こちらダンジョン班。皆さん、こちらの声が聞こえていますでしょうか?』
私の母、エミリアの声だ。
「こちら冒険者ギルド、若干こもって聞こえますが聞き取りには問題なし。どうぞ」
『こちら研究所です。こちらもダンジョン班の方は少々音が掠れて聞こえますが、聞き取りには問題なし。どうぞ』
『ダンジョン班の方も、両者共にやや掠れていますが聞き取りには問題なし。ひとまず第一段階は成功ね、みんなおめでとう!』
魔道具からは、通話の向こう側で喜びを分かち合う関係者の歓声と拍手が聞こえてくる。
「おめでとう、ヘクターくん」
「ありがとうございます、テッドさん」
私とテッドさんもひとまずの成果に安心し、硬い握手を交わした。