第六十九話『ラ・』
俺達が歩く灰に塗れた階段は途中から灰の一つの見当たらなくなり、始めて灰が無い地を踏んでいる気がした。目的地が分からない崖に沿った階段。
「春はこの先の場所、知ってるのか?」
「そう……ですね。この先はいわゆる拠点となっていました。そのうちに大きめの石造りの城が見えてくるはずです。悪魔長がわざわざ出張ってきたあたりもぬけの殻でしょうが。父は何らかの罠をしかけているかと……」
春の母はこの先にいるであろう春の父に春を奪われたような事を言っていた。となれば、春が産み落とされたと同時に、その成長を無理やりに加速させた彼女の父は、悪魔じみている。
ミセスの事も気にはなったが、どちらにしろどちらも倒すべき相手なのは間違いない。ミセスと春の父が仲違いしていれば良いのだが、手を組まれると厄介なのは言うまでもない。
この様子だと、ミセスもまた何らかの力を手にしていると思っても良いだろう。何故ならば半界一つ分を破壊する程の行動に出たのだから。ただ壊すだけでは何の意味も無い。目的があってのことなのだ。
だが、結果として俺が春の母に会ったのは偶然。という事はミセスは春の母を灰と化し、彼女の半界を壊す事によって何かを得たのだろう。
「それと、姉貴が厄介だな。聞いたとこによりゃ春の嬢ちゃんの母さんを灰にしてまで何かをしようとしたんだろ? アイツの事は俺ももうわかりゃしねえ」
「むしろ、分かっちゃ駄目なのかもよ。そういう考えなんてさ」
響がヘラリと笑って、階段をトテテと上がっていく。
もう少しで頂上が見えそうだった。もう既に灰が周りには無い。一抹の不安が襲う。
――灰魔法は、灰を作り出す魔法では無いのだ。
もしかすると俺は、この後に及んで色格・灰の魔法使いとして役立たずになるかもしれない。
「灰が、無いな」
「ん、思ってた。ちょっとマズいかも?」
朝日の刀についても、俺の刀についても、響や仕掛け屋の銃弾にしてもそうだ。俺の灰魔法による現実と幻想の融合を成さなければおそらく状況は上手く進まない。
朝日は一瞬後ろを振り向いて地面を見るが、拾える程の灰も無い事を確認してから、少し心配そうにこちらを見た。
「雑魚でも、斬り伏せられりゃいいんだけどな」
唯一、その獲物だけで幻想を破る事の出来るアルゴスがあっけらかんとしたままに酷い事を言う。
だがもし敵対勢力がいて、戦う事が必須だとしたら、勝つ事を前提としてありがたい事は間違いなかった。
「今までは散々灰だらけだった癖にのぅ。流石に抜かりないもんじゃな……」
フィリもいい案が思いつかないようで、難しい顔をしたまま歩いていた。
「ん、あそこです。門番は……いませんね。中はそれなりに広く入り組んでいるので、はぐれないように気をつけてください」
春が指差すそこは、天使側の拠点とあまり変わらないような、砦と呼ぶには大きく、城と呼ぶには小さいくらいの石造りの建物だった。
扉が閉められているという事も無く、がら空きの悪魔陣営の拠点は正に罠と言わんばかりに人の気配がしなかった。
「一人か、もしくは二人で余裕だなんて思ってんのかな。むかっ腹だ。しかしなんか……ざっくりしたとこだね」
響の声が入り口からすぐのホールに響く。誰がいるわけでもない。ただの広い空間。
「あれ? いや……こんな所じゃなかった気が……」
困惑している様子の春の言葉が言い終わる前に、急にこの広いホールに幾つもの黒い球体が現れる。
「そりゃま、作り直してるし、罠だもの」
この場の誰もが、ミセスの声と共に球体から身を躱そうとしたが、狙われた者は誰も間に合わなかった。
残されたのは、俺一人。
おそらくはあえて残されたというべきだろう。
ミセスは俺を見て、不敵に笑う。印象的だった緑色の髪も、白い色がところどころに混じっていて、元々持っていた奇妙さに悪い意味で拍車をかけていた。
「心配しないで? あの子達はただ閉じ込めただけ。ただまぁ、長々と生きてる保証は無いわね」
罠というよりも、これは確実に個々人を狙った魔法だ。
ミセスの力にこんなのがあるとは聞いていない。つまりはやはり何かしらの力を手にしたという事なのだろう。
「ちなみに、今誰かを助けるだなんて考えない方がいいわよ? アタシが目の前にいるんだから」
皆を閉じ込めた黒球はホールに移動させられ、すぐに俺達の手の届かない天井へと固定された。
灰が無い今の状態では、そうして俺一人では、どうする事も出来ない。
――尤も、眼の前の悪意の権化を灰にすれば、別だ。
俺は彼女に赤刀を向けて、静かに次の動きを待つ。
「バカねぇ。私が幻想の種を植えた二人も一緒に来られたってことは幻想を打ち破ってきたんでしょ? じゃあ今の私に適うわけが無いじゃないの」
「本当に、畜生だな。お前は何がしてぇんだ」
「アラ? 随分と酷い言いようねぇ……私は、到達したいのよ。理解して、辿り着きたいだけ。この世界の本当の姿を、知りたいだけ。タッくんが言う星とやらがいるなら、そいつを怒鳴りつけて、私が次の世界を創ればいいのよ。なのに私にはなんにも聞こえやしないなんて、ズルいと思わない? ねぇ、アクタちゃん? 灰の海に、行ったんでしょ?」
どうやら、春の父とミセスは既に接触済み、その上で、関係こそ分からないものの、どうやら灰の海の事や星の事は理解し、実際に灰の海へとたどり着いた事も半界の主ならば知っていたのだろう。それを教えてもらったらしいミセスは俺を忌々しげに睨んでいた。
「私の知らない事を、教えてもらわなきゃ、ね。灰の魔法使いちゃん?」
言葉と同時にこちらへと飛び込んでくるミセスの拳を俺は確かに赤刀で受け止めた。
だが弾かれたのは俺の赤刀の方、ミセスの殴打で俺は壁に叩きつけられる。
「アンタが行けて、アタシが行けない理由は何だってのよ。クソ!!」
「くだらねぇ。行った所で、誰が、どの灰がお前を認めるってんだよ!」
何度かの拳と刀のやり取り。相手はただの拳のはずなのに、まるで見えないバリアでもがあるかのように俺の一撃は弾かれ続ける。
「仕組みとして、アンタの攻撃方法じゃ私に傷一つ付けられない事くらい理解くらいはしているんでしょ? 灰があればもしくはって所? 半界を一つ手にした私は今や幻想をこの手におさめているのと同義、だったら傷なんて、つくわけもないのよ」
ミセスが手を振るうと、悪魔長ですら一度に一つしか展開していなかった魔法が俺を襲う。
その風は俺の身体に傷を付け、激しい炎が俺がいた床を焦がす。
そうと思えば上空から落ちてくる鋭利な氷柱。避けたと思えば床に生えた樹木に足を取られて、俺は無様に床へと転げ込む。
「ほら、早くしないと、皆が死んじゃうわよ? 全員で一人をいじめるなんて酷いじゃない? だから私も考えたってわけ。アンタ達の数だけ、私と同じ存在を作り出せばいいじゃないって。でもあの中で誰が私に勝てるかしらね? 幻想はイメージで強くなっていく。私のイメージは、そう簡単には負けないわよ?」
彼女の言う通り、全員が今ミセスと対峙しているというのならば、状況はかなりまずい。
アルゴスが唯一幻想に抗える武器を持っているが、それを信じて時間稼ぎをする事が正解だとは思えない。時間が無いのだ。アルゴスはフィジカルが強い為、すぐに心配は無いだろう。身体能力が元々高い仕掛け屋や響に関しても、多少は持ってくれるだろう。
朝日も心配だが、スロータイムを駆使すれば時間稼ぎは出来る。フィリもその体術でミセスをいなすことは可能だろう。だがアルゴス以外の全員が決定打を一切持ち合わせていない。
そうして一番心配なのは、こと近距離戦闘に於いて、耐性が無いであろう春だ。
彼女の頭脳は俺達にとって心強いものであり、補助役としても非常に優秀な役割を持っていた。
だが、もしあの黒球の世界の中でミセスと対峙したとして、魔法のぶつけ合いで勝てるだろうか。俺を吹き飛ばす程の一撃を、耐えうるだろうか。
そんな事を考えていると、ミセスの掌底が俺に向かってくるのが見え、俺はそれを咄嗟に赤刀で受け止める。だが俺の手は彼女の強化されたであろう掌底の力にも抗えずに、赤刀を手から離してしまった。
飛ぶ赤刀が、一瞬黒球に刺さり吸い込まれそうになるのが見え、そのままガランと音を立てて地面へ落ちた。
「危なかったわねぇ。 私を相手しているのに、急に刀が飛んで来ちゃ、下手すりゃそれで殺してたわよ?」
ミセスは未だ、余裕ぶった笑みで嘲笑っていた。
たった今放ったその言葉が、この状況を打破すべきヒントだという事にも気付かずに。
「アイツらは、俺の事を把握出来てんのか? 刀が届かなかったのはありがたいが、声も何も届かないなんてのは、随分と便利な魔法を覚えたもんだな。草しか生やせなかったから張り切ったのか?」
今俺がやるべき事は、挑発と共に、あの黒球の情報を引き出す事だ。
この場を俺一人で打開する事は、決して出来ないという事は分かり切っていた。
「舐めんじゃないわよ! ……聞かせてあげましょうか? 無様に死ぬ仲間の声を。伝えてあげましょうか? 私の前で負けを認めるアンタの声を。アンタの態度次第じゃ、どちらが先に死ぬか、選ばせてあげるわよ」
彼女の拳が俺の腹部を殴打する。鋭い痛みが走るが、これでいい。
無様に死ぬ声だと思っていれば良い。負けを認める声だと思っていれば良い。
「ぐっ……そりゃあ、いいな。じゃあ、伝えてくれ。刻景もロクに使えなきゃ灰の魔法も使えない俺が、最初に膝をつく。別れの言葉を躱すくらい、いいだろ? なぁ、いいだろ?」
情報を抜き出して、泣き落とす。負けを認めた振りは、ミセスに通じるだろうか。
もし、彼女が『あの事』を忘れていないのであれば、少しの慢心を持っているのであれば、そうして灰の海にアクセスしていないのであれば。試すべき事が一つだけある。
「ほら、聞こえる? 球の中の皆、聞きなさい? 今貴方達のリーダーが、膝を付いたわよ? 本当に良い気味。アンタの灰から、たっぷり情報を吸い上げてあげる。幻想は良い。本当に良いわ。あの馬鹿な女はどうしてこれに飽きたんでしょうね? 使えないクソガキでもいればマシだったのかしら? あら失礼、アタシったら口が悪いわね。どう? 黒球の中の皆? 絶望してるかしらぁ?」
元々知り合いという事もあったのだろう、彼女は意味もなく、散々春を罵倒してから、黒球に吸い込まれた仲間達に声をかける。
すると、それぞれの黒球から仲間達の声が聞こえた。
響がいるであろう黒球からは、声にならない叫び声と、銃声。
仕掛け屋がいるであろう黒球からは「大将、こんなクソ姉貴に屈してどうすんだよ」と叱咤が飛ぶ。
フィリがいるであろう黒球からは「解せぬ、刻景すら縛るのか」という新たな情報と困惑の声が聞こえた。
アルゴスがいるであろう黒球からは「あったんねえんだよ! 畜生!」という苛立ちの声が、そうして朝日がいるであろう黒球からは「ねぇ! ねぇどうするの芥!」という縋るような声が聞こえてきた。
そうして、春がいる黒球から、小さく声が聞こえた。
「……負けませんよね? 芥さん」
――そう、今の俺に必要なのは"彼女"の場所を知る事。
中原春という気弱だった少女、力と向き合わずに、封じた少女、だけれど気丈で、諦めない心を持った、彼女の黒球の位置を、探していたのだ。
「あぁ、負けないさ」
俺は小さく呟いて、弾き飛ばされた赤刀を拾う。
「なぁに? 自害でもしてくれるの? それよりもほら、私がやったげるから、その刀よこしなさいよ。思い切りズッポシ、やったげる」
その声に俺は、赤刀を持った手を上げる。
、そうして、思い切り黒球の方へと、放り投げた。
「"ラハル!" 俺の刀を掴め! お前の炎を纏った刀が、幻想を砕く!」
その瞬間、春がいた黒球が赤く染まった。
そうしてその刹那、黒球からゆっくりと、赤い目をした魔法使いが、小さな微笑みを帯びて俺とミセスの元へと降り立った。
「……うん。やっぱり、私も芥さんが好きだな。ありがとうございます、思い出させてくれて」
春はそう言って、俺に炎を纏わせた刀を手渡す。
「は? 出来損ないの魔法使い如きが? 私のコピーを片付けたっていうわけ?」
「出来損ない……ですかぁ。やっぱりちょっと傷つきますね。お味噌汁、あげなきゃ良かった」
そんな事をふわりと呟く春の表情は柔らかで、この場を制圧しているといっても過言ではなかった。
「芥さん、一撃で」
彼女は見ていなかったとしても、俺の負傷と、音を聞いてミセスとの接触があった事を理解したのだろう。だからこそ俺の耳元で、小さく呟いた。
「そもそも、眼の前のあの人を含めて、本人がいるかも怪しいはずです。とりあえず私は少しだけ……休みます」
おそらく黒球の中で相当量の炎を放出したのだろう。春はその場にへたり込む。
この状況にミセスは驚きの表情をしつつも、未だ余裕ぶった風を保っている。
それを憎々しげに見つめながら、俺は自分の刻景の名前を叫んだ。




