第六十七話『悲愴の日の前に』
ゆっくりとした時間と、いよいよ荒廃が進んできた世界。
とはいえこの場が荒れているのは先程の、というよりも俺達が来る前の激闘のせいなのだろうが、それでももたれられる壁があり、地面には柔らかい灰が敷き詰められているというだけで、少しだけ心と身体の休息を得る事が出来た。
「あのバカほっといちゃダメかなぁ?」
響がぶー垂れているが、彼もまた仲間だと思ってくれていると思いたい。
来ると行ったのだから、きっと来るだろう。彼らの死闘もまた、そろそろ終わるはずだ。
春は未だにあの灰の丘、アルゴスとザガンの殴り合いの場所から樹木を伸ばしたまま。消耗があるのかは分からないが、それにしても早々と来てほしいなんて思っていたら、何とも気楽そうにアルゴスが大曲刀を片手に歩いてくるのが見えた。
「アレ、ぶっ壊したんだけどなぁ……」
「なんでぇ……? しぶとすぎる! しぶとすぎるよ! おっもいんだからあの一撃!」
実際に彼の一撃をいなしていたであろう朝日が憤慨気味に吠える。
「しかしまぁ、満足そうにのそのそと歩いてきおって……」
フィリが遠くに見えるアルゴスを右目で追い、小さく笑う。結局は幻想に侵されていても二人ともある程度自分の目的に対して動いていたように思えた。であれば、もしかすると彼女にしか分からない現状に対して満足感があるのかもしれない。
あれだけ美味しそうにプリンをほうばっていた彼女が、その嗅覚を、味覚を失くして尚、笑っているのだ。その笑顔の片方の目はずっと瞑ったままであっても、笑っている。
それがどうしても寂しくて、思い詰めそうになるのを必死に堪えた。
――彼女の選択に対して、彼女が笑うのならば、俺達もそうありたいと、決めたのだ。
それがきっと、彼女がしてくれた事への、唯一の恩返しになるような気がした。
もし灰の海に落ちる事があったなら、今眼の前にいるフィリとは同じ人のようで少し違うけれど、フィーリスに腹いっぱいプリンを作ろう。その方が、きっと彼女も喜んでくれる。
「そういえば、卵抜き茶碗蒸しも作りそこねたなぁ」
「全部終わってからでもいいじゃねえか。楽しみにしてるぜ大将」
「大将ってガラかよ」
やっと兄ちゃんから昇格かと思えば、急に大将にされてしまった。やはり仕掛け屋のセンスは独特で、だから面白い。俺からすれば彼こそ兄貴といった感じだった。実際に兄もいたが、結局この世界で出会う事も無く、あの悲しい顔を忘れる事は出来なくても、彼はいつも頼れる存在だったように思える。
「弾ぁ! 弾ぁ無いかー!! 残弾少ないよー! 誰かー!」
「石鐘のお嬢はしかし元気だな。ほれ! いくらでも持ってけ!」
仕掛け屋はずっと背負っていた大きく頑丈そうな鞄を床に軽く放り投げると、響は「弾だー!」と言いながら鞄からガサゴソ物を持ち出していく。
「なぁ、響とは呼ばないのか?」
「……ありゃあ口が滑ったんだよ。忘れてくんな。壊れんだよ、キャラがな」
この口調はキャラ付けだったのか……思えば確かに現実にこんな喋り方をするヤツがいたら変人と呼ばれても仕方がない気がする。
「こんな世界に来ちまったからにゃ、踊る阿呆に見る阿呆を続けにゃ損だろうよ。な、大将?」
「そーだよ、たいしょ! 石鐘って名字も、響って名前も好き。私はもう、私が嫌いじゃないからね! あぁ! ガンパウダーの匂いがたまらにゃい……」
猫にマタタビ、響にガンパウダー。とはいえ今から銃弾を作っている暇は……どうやらあるようでせっせと見たことも無いような機械で銃弾を作り始めていた。
「あんなんも持ってたんだな」
「まぁ、俺に与えられたロールってぇのか? あの役割ってぇのは商人みたいなもんだったんだろうよ。ある意味大将達が言う特殊色格だかってのに似てんな」
「戦える商人なんてかっこいーじゃん!」
響が慣れた手付きで銃弾をモリモリ作っているあたり、彼女も相当なガンマニアというか。この世界に来てから本当にどれだけ銃と付き合ってきたのか、分からない。
「まぁこの世界で商売なんざ成り立たねえ、ロハ働きのロバってヤツよ。だから仕掛けた。そんだけだ」
仕掛け屋も話しながら、手持ち無沙汰なのか朝日から返してもらっていた青刀に何かしらの仕掛けを施しているようだった。相変わらず器用な二人に、少し笑みが溢れる。
それに、セーラー服になんとやらとは言ったものだが、堕天しようとなんだろうと響は響で、因縁が抜けた後くらいからはいっそ何か弾けたように無理に笑う仮面が剥がれたような気がした。
「戦える商人も良いセンスだけど、トリガーハッピーの堕天使も中々のもんじゃないか?」
「やだ照れる」
そういえばこいつはバカ天だった。最近のゴタゴタっぷりでゆっくりと話をする暇も無いから頭から抜け落ちていた。
「いや、そうでもなかった」
「なんでぇ?!」
こんなやり取りも、初めの頃は当たり前だったような気がする。
思えばそう長くない旅路でも、積まれた灰の量、詰め込まれた思い出の量は決して少なくない。
それら全てを灰銃として撃ち切ったなら、この星は、納得してくれるのだろうか。
「おう! 揃ってんなぁ!」
アルゴスがよく見るとやや灰色がかった刀身を持つ大曲刀を手に、やっと合流する。
「遅ぇぞ。楽しかったか?」
「そりゃあもう! 最高だった。もう一回か二回は、待ってんだろ? 最高のヤツが」
想像以上の喧嘩馬鹿、やっぱりコイツが来る前に話し合いを終わらせても良かった気がする。
「ザガンは?」
言うと彼はニッと笑って、新しい自分の獲物を叩いた。
「コイツが形見よ! アイツもほんっとーに楽しそうだったぜ!」
目的の為にはその死すらも厭わない悪魔や神の子の概念は分からないが、思えばそれは俺も同じ事か、と思わず苦笑した。
「そりゃ良かった。今際の際もゆっくり喋ってたか?」
「ものすげー早口で良くわからんかったな! でもまぁ、アイツの灰の中にコイツがあったって事はコイツを使えって事だろうよ! 言葉は分からんでも良い! 拳で散々語ったからな!」
おそらく幻想の崩し方のような物を教えたのだろうけれど、悲しいかな。彼には通じなかったようだ。とは言えその灰を帯びた刀身はおそらく俺が赤刀に使った灰の魔法に近しく、そうして俺の魔法以上に高等な物がかけられているのだろう。明らかな鋭さと、鉄の色とはまた違う色味がそれを教えてくれた。
「じゃあそろそろ、お話ですか?」
朝日と隣同士で話していた春がこちらにとてとてと寄ってくる。
思えばこの子も、この短期間で物凄く成長した。上手く話すのも苦手だったのに、今じゃアルゴスのような豪快筋肉バカとギラギラの大曲刀を目の前にしても怯える様子が無い。
トンガリ帽子も浅くかぶり、その表情からも強い決心のような物が伺える。
幼いように見えて、実は誰よりしっかりと物事を考えてくれているのは、やはりこの子なのかもしれない。
「ふぁ……久々に座るだけでも疲れって取れるね、芥」
同時に朝日もだいぶ気安くなった。それがおそらくあえてだという事は、何となく察している。
だけれどその答えを出すには、この世界はあまりに酷だと言うことも、分かっていた。
「……そうだな」
「なーんか、思い詰めてるね」
春が戦闘状況の機微に聡いなら、朝日は精神状態の機微に聡い。
俺が何となく思い描き始めている。この先の風景を、一緒に見ているかのように彼女も目を細める。
「……一緒だからね」
「あぁ、ずっと一緒だったもんな」
朝日は、俺の指を少し強く握ってから、離す。
その痛みが、心地良かった。
「私も雑貨屋デートしたかったけどねー!!」
「ふぇぁあ?! あ、あああれはデートとかじゃ……なくてですね……」
突然、しかもそこそこ前の話で唐突に朝日から言葉で刺された春は最初に会った頃を思い出すくらいにたじろいでいた。
「なーんて! 冗談だよ! 私にはこれがあるし!」
本当に冗談だったのかは彼女のみぞ知るが、朝日はその明るい髪の中でも埋もれずにキラリと光るヘアピンをなぞって笑う。
その妙に照れくさい空気は、響が思い切り叩いたであろう呼び出しベルの"ヂーン!!"という音にかき消された。こちらを意地悪げに見ながら呼び出しベルをチチチチチーンと連打している馬鹿天にフィリが軽くチョップを入れる。
「やかましいわ! ……じゃが便利じゃの、それ。何処ぞへ消えるヒビにはピッタリじゃ。何処で拾ってきたんじゃ?」
「お土産! アクタンの! フィーはどうせその帽子なんでしょ?! 朝日にはヘアピンで私にはこれだよ! 畜生! 甘すぎて昇天しそうだよ!」
「昇天どころか堕天してるだろ……」
「うるさいやい!」
皆で笑う。少しだけ幸せで、緩和した空気の中、いつまでもこんな雰囲気が続けば良いと、そう思っていた。
だが、そのままじゃいけない事くらい、きっとこの場にいる誰もが分かっている。
「じゃあ、そろそろ、ね?」
「あぁ、そうだよな」
隣同士で座っていた朝日が、真剣な目をして、俺の顔を見た。
――話さなきゃいけない事、試さなきゃいけない事。
「刻景・タイムウォーカー」
その言葉を以て、その意識を以て、そうしてその理解を以て、始めて俺の刻景は、発動した。
俺の周りが、見る景色全てが灰色に染まり、この場にいる全員の刻が停止する。皆が俺の刻景の中で、静止していた。かといって、誰かに触れる事は出来ない。ただその空間を俺が動けるだけ。
そうしてまた、俺が知らない未来には、きっと辿り着けない。それが感覚で伝わってくる。
要は、俺の刻景・タイムウォーカーの正式な発動は、俺が動いた軌跡、俺が俺自身の刻を歩く事が出来るという能力なのだ。いわば俺だけを巻き戻す力と言っても良いだろう。
何に使えるかは、上手くまとまらないが、それは早急に考えるべき事だと、頭が警鐘を鳴らしている事には、ずっと気づいていた。フィーリスにこの名前を教えてもらってから、密かに考え続けていた事だ。
ただ、やはり実際に使ってみなければピンと来なかった。
きっとこれが、刻景使い達が本来最初に覚える感覚なのだろう。本来は名前が自然と脳裏に浮かぶからこそ、発動も出来て、使い方も分かる。
だが、俺の刻景の場合は、フィーリスに合うまで未知の存在、ともすれば刻景の中を歩けるだけの力だと思い込んでいたのだ。
でも、それは知らなかっただけ。気づけなかっただけなのだ。
「……解除」
それと同時に、灰色の風景が、少しだけ色付く。
「……あれ?! 立ってる?!」
隣に座っていたはずの俺が急に立ち上がっているのだ、彼女から見れば瞬間移動に見えるだろう。
刻景の中で、俺が歩いた道筋がハッキリと見えた。要は俺から見れば、そこを移動しただけの話。
だけれど停止した時の中では、誰もがそれに気づけ無い。孤独で、後ろ向きな力だと思った。
「響と仕掛け屋も、あの衝撃の事は覚えてるだろ?」
二人は俺の瞬間移動にも見える刻景に驚きながらも、頷く。
「その時に、俺が落ちた情報の……灰の海での話を、しなきゃいけない。フィリとアルゴスを幻想から引っ張り出す為の方法も、俺の刻景の話も、そこで聞いたんだ」
「ふむ……知らん場所じゃの。誰から聞いたんじゃ?」
知らぬがなんとやら、教えたのは自分なのに、不思議そうな顔をしているフィリが少し可愛らしかった。とはいえこちらのフィリが知っているはずはないのだけれど。
「お前からだよ、フィーリス」
その言葉を聞いて、響の肩がビクンと揺れるのが見えた。フィリは相変わらず不思議そうな顔をしているが、やはり響はフィリがフィーリスと名乗っていた頃から彼女の事を知っていたのだろう。
「じゃあ、俺の刻景の話と、フィーリスの話と、この世界の話。どこから話せばいいかな……」
「フィーのから、聞きたい」
響の握りしめている拳が振るえている。
――ならば、あそこにいた優しい、そこにいる優しい、神様の話から、始めようと思った。
これが、俺達がお互いの顔をゆっくりと見ながら出来る最後の話になるかもしれない。
たとえ誰かが心を痛める事があっても、たとえ真剣な話だとしても、噛みしめるように、噛みしめるように、俺は頭の中で言葉を選び始めた。




