第六十ニ話『天国と地獄の場所』
真っ白な世界なんて、見たことも無い。真っ黒な世界は、目を瞑るだけで体験出来るのに。
そうして、その間の中途半端な灰色の世界、そこに、俺は立っていた。
見渡す限りの、灰、灰、灰。
遠くに見える灰の丘、この世の終わりを、見ているようだった。
すべて燃え尽きた後、きっと地球という星は、こんな風景になるのかもしれない。
「水と灰じゃ、上手いもんは出来ひんな」
不意に声がする、いつか聞いた、一緒にいたかった人の声。
「でもなんていうか、身の危険を知らずに水を飲んで笑ってられるだけ、マシじゃあない?」
姿は何も見えないのに、灰の世界は、自分に声を届け続ける。
「ほら、コック。芥くんが困ってるよ?」
「困らせとき困らせとき、どうせコイツは片道切符じゃあらへんやろ?」
何となく声は楽しげだが、俺がコックと師匠の声を、聞き間違えるわけがない。だけれど、二人の声が聞こえてくるわけがない。だったら、此処は夢の世界だろうか。俺は半界が一つ失くなった時の余波……生命の灰の力の濁流に飲み込まれて、倒れたはずだ。
「夢……か?」
「ん~どうだろ。どうかな? 元マスターさん?」
見えない師匠がパッパっと灰を払いながら、気怠げに座り込むしょげた顔の女性と共に目の前に現れる。
「知らないわよ。誰が知るってんの、こんなとこ。そもそもアンタ誰よ。っていうのも通じないから、腹立つのよね」
苦々しい顔で、渋々と、その妙齢の女性はこちらに頭を下げた。
「娘に良くしてくれてどーもね、芥君」
――娘とは、そう考える前に面影が頭を過ぎった。
それと同時に、忘れもしないあの、異世界病者のきっかけも。
「アンタ……春の……」
「そ、中村雪、春ちゃんのママ。まぁ親権みたいなモンはあのバカに持っていかれたけどねー。最後には縁ちゃんにぶっ飛ばされて結果こんなとこにいるの。ほんと、馬鹿げた話」
まるで他人事のように、彼女はケタケタと笑ってから、大きい溜め息を吐く。
「ウェルカーム、灰の海へようこそ? 芥君」
「アンタが、アンタ達が……いなきゃ……」
頭の中に入り込んでくる、山のような異世界病者達の、半界に生きた者達の死に様、人生。
それは、ミセスが俺を灰の魔法使いにした時よりも壮絶な、処理しきれない程の情報量だった。
――何よりも、不快で、許せなくて、だけれど、悔しい。
何故なら、その記憶達は、何処か少しだけ幸せで、死んでいる癖に満足すらしていたのだ。
「んふ、この世界の情報を齧っちゃったらその拳は振るえないよねぇ。私も実際に来てみて驚いちゃった。思ったよりか、幸せに死んでんだね。みんな」
「灰の海って、言ったか? コックは声だけ、でもアンタも、師匠だって此処にいる。夢じゃあ、無いんだろ?」
師匠はあまり見せた事のない柔らかな表情で手をフリフリして黙っている。
「ん、そーだね。此処にはあの、半界で死んだ人達の生命の情報が蓄積されてるみたい。芥君はあの世界で唯一の灰だかって色格らしいじゃない。だから私という半界の一つのコアが崩れた衝撃でこっち側に来ちゃったんだろーねー」
春の母はあの世界で消滅したのにも関わらず、危機感もなく何処か適当さを感じる口調でラフに話しかけてくる。一方師匠は嬉しそうだ。
「観測者がいて初めて、この灰の海で私達は自意識を持てるみたいだしね~。コックも出てくりゃいいのに~」
「あんなええ格好して今更姿出せるかアホ! 天国もクソもないやないか!」
コックは相変わらず、少しやかましいが、つまりは此処は天国でも地獄でもないようで。本当に灰に蓄積されている情報の海なのだろう。
聞く所に寄るならば、今この瞬間、俺がこの灰の海にいる事で、コックや師匠、そうして春の母親がその情報の集合体として顕現出来たらしい。ならば俺がいなければ、ここは静かな灰だけが積もる場所という事だ。それは、思うだけで寂しい光景だと思った。
「俺……帰れるんだよな?」
「むむ、せっかく会えたのに寂しい事を言うね~……でも仕方ないか! ただ、私達も芥君が此処に来た瞬間から情報の波に流されそうなところを拾い食いしてるとこだし、この世界から抜け出した人がいないだろうし……抜け出し方もわかんないんじゃないかな~……おねぇさんがちょっと考えてはみるけどね~」
師匠がまさにうーんと言いたげな雰囲気で顎元に指をくっつけて考えているが、あまり期待は出来ない。というよりも、彼女のこういう姿が見られたという事が、少しだけ嬉しかった。
出来るならば、朝日にも見せてあげたいくらいに。
俺は、遠い目をしながら遠くの灰の丘を見ている春の母に呼びかける。
「お陰様でこっち側に来たが、アンタの娘は立派にやってるぞ。アンタの旦那は……クソッタレみたいだけどな」
「あら? 芥君ったら私と気が合うかもねぇ。春ちゃんは飽き性で怠惰な私にも似ず、あの全部まとめてクソッタレなアイツにも似ず、いい子に育ってくれたみたいで……うん、それは嬉しいかな。あの子の冒険は、きっとファンタジーなんかじゃなくて、本物だ」
離れて暮らしていたのだろうという事は分かる。それに、たった今まで春の事を何も知らなかったであろうことも分かる。だけれど、この灰の海に落ちている情報が春の事を彼女に伝えたのだろう。
現実では大罪人と憎む程の人間だと思っていたが、実際はただの母だった。とはいえ、その口ぶりや性格からいくらか見た目より幼く、性格に難がありそうなのも気づいてはいたが。
だとしても、そうだとしても、春の事を話した時の顔は、母の顔だったように思える。
「だから芥君にはサービスしたげようね。半界ってなーに? って思った事はあるよね?」
「あ、あぁ……そりゃあ、あんな世界疑問に思わないわけがない……だろ」
答えると、春の母は両手を広げて灰を上をくるりと回った後に、真面目な顔をしてから、小さく笑って右手で上を、左手で下を指さした。
「外宇宙の神の反対はー、内宇宙の神……じゃあない、とも言い切れない。私達が望むという行為に、私達の世界が答えちゃった。結果私達がいる、半界があるわけだ。ちょっとむつかしいかな?」
「一言で言えば奇跡やんな?」
コックが声だけで口を挟む、口も無いのに話に入ってくるあたり、やはり彼らしい。
「んーー、まぁそう! そういう事なんだよね。実際にこの半界はさ。私達が住んでいた地球っていう星が産み出した、余白なんだよ。それも何かに怖がった結果のね」
「パラレルワールドだとか、別世界じゃなくてか? 確かに建造物は似てはいたが……」
「そりゃあまぁ、そこらへんは私達がカスタマイズしたよ? でもさ、この世界の存在は、私達の手によるものじゃない。現にさ、此処は……私達が住んでた世界のずーーーーっっと下。単純に、本当に単純にそれだけの話なの。きっかけが私達だっただけ、だけれどどうして私達がきっかけだったのかはわからなかった、でもまぁ……この灰の海を通して現実の様子を知って何となく分かった。都合良かったんだろうね、この地球にとって、あの状況がさ」
あまりに暴論、自分達の罪を、まさか地球に、星に擦り付けるとは、そんな事を思いかけながらも、真実味を帯びている事に、少しだけ驚きながら、だけれど怒るような気もせず、彼女の話を聞き続ける。
相変わらず師匠はこの話自体には興味が無いようで「うーん、うーん……」と声に出しながら何かを考えているし、コックはまぁ……聞いてはいるのだろう。
「つまりは、この場所は俺達が暮らしていた地球の内部にあるって言うのか?」
「そゆことだね。此処は紛れもなく地球だよ。一つの星の奥深く、本物の空があった私達の知っている現実とは交わる事の無い二つ目の世界――それが此処。皮肉にもさ天国も地獄も下にあったってわけだ。違いは、言わずもがなだよね?」
あまりに想像の逆を行っている。それ以上に、それではそもそも半界は異世界などではない。あらゆる常識が変化している、地球の中だという事だ。
「俺達が生きた現実では技術が、そうして此方側では魔法か……」
「そうね、私達は最初にそれを頼まれたんだ。上手くやってくれってさ。だからまぁ……私達は元々空白だった場所に異世界風の世界にする為に間借りしたようなものだね。とはいえ、今のあの世界はマズい。ハッキリ言えば私も適当だったし、あのクソ旦那も余白を灰色で塗り潰すつもりだ。現に君という観測者がいなきゃこの灰の海もおそらく地球の更に奥にあるただの情報の海だし、あるべき形まであの世界を戻さなきゃあ、この星はまた何かをし始める。私という半分はもう失敗した。でもあのクソッタレももう失敗してるんだ。だから正してあげないと、上の世界でまた惨事が起きるだろうねー。私がぶっ壊してあげたかったなー、めっちゃくちゃに」
彼女は他人事のように言う。事実他人事なのだろう。だからこそ、やっぱり中原は春以外好きになれない。結局、この話をまともに受け取るのならば『始まりの二人』でさえ駒だったのだ。この地球という星の思惑に突き動かされた駒。どういう理由で、こんな事態が起きているのかは分からない。
それでも、この世界が失敗作と認定され、また現実で不幸が起こり始めるのならば、それはまるで星の自傷だ。意味も上手く分からない。そもそも、星の意図なんて、壮大すぎてついていけそうもなかったが、それでも要は、俺達がやるべき事は変わらないのだ。
「星が、語りかけてきたとでも? だとして、何に、ビビってるって言うんだよ」
「さぁーね。外宇宙がどうたら言ってたけど、私飽き性だし、よく覚えてないや。要はさ、人が人を怖がるように、星も星を怖がってるんじゃない? だから上の世界と下の世界を作った。結果私達は、下にいるってわけだ。笑けて来ちゃうけど、星の声はきっとそのうち聞けるよ。尤も、君が此処を出られたらねー。神気取りの星は、力だけ与えてなーんもしてくれないからねぇ」
「神! いるじゃないですか!」
うなり続けていた師匠がそう言って俺の手を掴んだ。
「ねぇ春ちゃんママさん。此処って要は失くした生命の溜まり場なんだよね?」
「そーね……あぁ、そういう事。うちのクソ旦那も頭が回る子から殺すあたり、意地が悪いね」
春の母と師匠は何かを目で合図しあって、丘の方を見た。
「刻景だったっけ? 君らの呪い。それの答えに、会いに行きなよ。それと……まぁ、春を頼むね」
「ん……せっかく会えたけど~、また会えないといいね~。じゃ、朝日ちゃんによろしく!」
俺はまだピンと来ないまま、二人に言われるがまま丘へと歩き始める。
サラリと灰が揺れる音に振り返ると、そこにはもう二人の女性の姿は無かった。
「振り返んなや、ダサいで」
その声に笑うと、声も聞こえなくなっていた。
今聞いた話も、経験も、夢では無いかと、夢であればいいのにと思いながら、向かった丘の上には、悲しそうな顔をした、髪の長い、長身の女性がこちらを見下ろしていた。
――あぁ、つまりは、こういう事なんだな。
決して会った事が無いはずのその女性の表情に、仲間の面影を見た時、俺はやっと、夢から覚めるような思いで、真正面からこの世界――失くした物達と、亡くなった者達と、灰と、向き合う事を決めた。
声に鳴らない「はじめまして」が、灰の海に溶けていくようだった。




