第五十話『ヘアピンが揺れてベルが鳴る』
気まずい沈黙、珍しい沈黙、心地良い喧騒や心地良い沈黙があるのも知っている。
けれど明らかに気まずい空気を変えたのは、パチンというヘアピンの音だった。
「じゃ、お話してよ。これまでの事」
朝日が俺の渡したヘアピンで右の前髪を留めて、それをそっと撫でてから響を見つめる。
見つめられた響は、少し驚いた顔をしてから、こちらを見て笑った。
「ん、いいよ。何から話そっかなー、私の事? 世界の事? それとも今の状況?」
ニヤついている馬鹿天に溜息をついて「今の状況だよ」と言えばアルゴスが豪快に笑う。
「追われてるな! それも大量にだ! 次に来るヤツラを見てきてやろうか? 行ってきてやろうか?」
「そもそもお前がいる理由が訳分からないんだよ……」
明らかに敵だったじゃないかと言いたいが、現に彼と響の参戦は非常に助かった。
味方であるというなら有り難いが、どんな神経をしているのだろうか。悪いだとか思わないのだろうかと俺よりも身長の高いアルゴスの顔を見上げると、「何だい兄ちゃん?」とアルゴスは笑って見せた。
快活というか、馬鹿というか、きっと馬鹿なんだろうなあと思いながら、俺は響に目を移す。
すると響は朝日とじーっとお互いを見つめ合っていた。響は少し余裕を持ってニヤニヤとしながら、朝日は子犬が虚勢を張っているような雰囲気で、それでも負けじと真っ直ぐに彼女の目を見ていた。
――別にこの二人は仲が悪いわけじゃなかっただろうに。
「それで、何睨み合ってるのよお前らは……」
「いやー、面白くって!」
響が笑うと不機嫌そうに朝日が「おもしろくないっ!」とふいっと顔を左に向ける。
キラリとヘアピンが光り、それを見たであろう響がより楽しそうにしている。
「やってんねぇアクタん」
朝日には聞こえないようにコソコソと響は俺に話しかける。それに応じて俺の声も小さくせざるを得ないのが面倒だった。話しているという事自体は見れば分かるというのに。
「……そういうんじゃねえよ。お前にもある」
俺がリュックからベルを渡してやろうとすると響は「ちょちょちょちょちょーいまち!」と大きな声を出して、それを制止する。ビクリとこちらを見る朝日と、いつの間にか立ち上がって腕を組んだままこちらを楽しげに見ているアルゴスに、響は一旦身体を停止させ「それは……後でいいから!」と少し赤い顔で囁いた。
その赤い顔に、朝日に渡したようなやや女性的なプレゼントを期待していたら悪いとは思いながら、事実雑貨屋のカウンターに置いてあった呼び鈴を引っ剥がして来ただけなのだが、後でいいのは確かだ。
「面白えが話が進まねえ奴らだなぁ。要はアレよ。悪魔陣営か、アイツらがあまりにクソだからよ。唾吐いて出てきた所にこの馬鹿天使がいたわけよ」
「そうか、俺達を襲った事を許すかどうかは置いておくとしても、気が合うな。それでこの馬鹿天と一緒に暴れに来たってわけか」
アルゴスはガハハと笑い、そうだと言わんばかりに大曲刀を振るって見せた。その剛力によって刀についていた灰は殆どが彼の足元へと落ちた。
「危ないっての……いいから座ってくれ……灰席」
装飾こそないものの、少しだけ良い椅子をイメージして灰を形づくる。体重をかけても壊れない程度の強度と、座る部分には柔らかな感触。これが上手くいけば椅子職人にでもなろう。
「へぇ……、そいつが真っ当な灰魔法か。さては兄ちゃん、出し惜しみしてやがったな?」
「違う。俺は魔法使い成りたてだから違和感を覚えたんだよ。使いすぎると何かあるんじゃないか?」
真っ当な灰魔法っていうのも気になったが、アルゴスは俺の質問に首を振る。
「知らねえ、少なくとも俺が悪魔長に意味分からん酷使を強制されてた時にゃあ感じんかったな。兄ちゃん身体弱いんじゃねえのか? ちゃんと鍛えねぇと廃るぜ」
クソババアだのなんだのと、本当にこの馬鹿ミの子は自由だと思いながら、もう一つの質問をぶつけてみる。
「真っ当じゃない灰魔法ってのがあるのか?」
「あー、俺のダチがな。特殊なんだよ。灰から情報を読んで人や物を創れる。いつだか雑魚が邪魔したろ? わりぃな、まぁ俺は見てただけだけどな!」
要は、あの灰の天使長を創ったヤツと共にしていたという事だ。
「死者の冒涜……か」
「いーや、二度も殺せて清々したね! 私の十八年の人生、飲んじゃった?」
響が機嫌良さそうに笑う。あの時は確か響の援護射撃によって難を逃れたのだったが、それでも楽な戦いでは無かった。
失う物こそ無かったが、危険だという事には変わりがない。
「まだ持ってるよ」
そう言って俺はもうほんの少しになったスキットルを振る。
「そいつにゃぁ十八歳の処女の魂が宿ってんだから、大事に飲みなね?」
笑えない冗談だが、アルゴスがガハハ! と笑ってくれて少し助かった。何でも面白いのだろうかコイツは。
「まぁ、お前らが助けに来てくれたってのは実際助かったよ。響には後で聞かなきゃいけないこともあるけれど、まずは先に行った皆と合流するのが先だな」
浅緑の道の先を見ると、朝日が俺の隣に立つ。
「いいの? フィリちゃん怒るよ?」
朝日が心配そうな顔をしてこちらを見るが、響はタタタっと俺等の数歩前へ進んでからこちらを振り返って、少し寂しそうに笑った。
「分かり合えなきゃ、しょうがないよ。でもまぁ、ちゃんと謝るくらいはするつもり」
「……あの人は?」
朝日はとにかく、あまりこの二人の登場について快く思っていないようだった。
アルゴスとも呼ばず、この人と呼ぶアルゴスは何も気にせずにもう既に俺達の前をブラブラと歩いている。朝日は特に、眼獣を倒した時の事もあって、受け入れがたいのだろう。そう考えるならば俺だって春を襲った眼獣を創り出したのがアルゴスだと思えば許しがたくもあるのだが。
「それもおんなじ、アイツは馬鹿だから。扱えるなら、それは力だしね」
その言葉を無理やり納得させたかのように、朝日は少しだけ難しい顔をしてから、俺の顔を見る。
「……まだ分からない事だから。なるようにしかならない。最善を探そう」
朝日の主張する事については、味方になりたいとは思っていた。気持ちの良い状態じゃない事は事実なのだ、だが現状を考えるとそれを押し殺してでも戦力が必要だった。
響とアルゴスが本当の意味で、それぞれの理由で俺達と共闘してくれるというのならば、それ以上の事は無い。だが人間が集まる以上不満も生まれるのは間違い無い。
「……そっか。芥君がそう言うなら、我慢する」
朝日が言った『我慢する』という言葉が、唯一の抵抗のように思えて胸が痛んだ。俺が決めて答えた事だ。これ以上言える事は無い、無いのだが、ただ俺は小さく謝罪を口にしていた。
「……悪いな」
「ごめん、先に行くね。あの人が先に皆に会うのは、流石にまずいからさ」
その謝罪に朝日は何も答えず、俺が思う通りの、現状で一番の最適解を選んでその場から浅緑の芝生の上を走って行く。すぐにアルゴスを追い越した。説明の時間はあればあるほど良い。フィジカルが強いからといって彼女にそれを担わせるのは心苦しいとも思ったが、それを伝える前に走り去られてしまった。
響は俺達のやり取りを真面目な顔でジッと見て、朝日とすれ違うように俺と歩を並べた。アルゴスは朝日に追い越されたのを見て不思議に思ったのか、こちらを振り返る。
「どーした兄ちゃん、痴話喧嘩かー? 女泣かせんのは関心しねぇぞー」
「お前らのせいだっての!」
つまりは、泣かせてしまったという事なのだろう。余計な事を言うヤツだが、重要な事でもある。彼女はその心の芯こそ強けれど、人一倍感情に揺さぶられる人間だ。
ずっと彼女と共に、彼女を肯定していた俺にとって、初めての否定は、やはり彼女なりに想う所が大きかったのだろう。
「……悪いね、アクタん」
「あぁ、この悪タレ達め」
だとしても、状況は一つずつ、もしくは同時に進行していく。ならばそれらを終わらせていくしかない。
「アルゴスが悪いヤツじゃない事は分かるよ。でもフィリや朝日にとってはどうだろうな。仕掛け屋や春――っと」
「知ってるからいーよ、中原春、ラハルちゃん」
二人の間で情報共有があったのだろう、それにアルゴスの眼があったなら、何もかもお見通しだったのかもしれない。
「絶対にラハルって言うなよ。おいアルゴスも! 春の事『ラハル』って言うなよ!」
「わーってるよ! それにあのお嬢ちゃんのキーは兄ちゃんなんだから、兄ちゃん以外が言っても何もならねえよ」
それは初耳だった。彼女が使える魔法について、彼女自身は理解しているのは勿論だが、説明が抜けていたのかもしれない、もしくは会話の中での俺が言えばという所で伝えられたと思ったのかもしれない。往々にして、自分の中に完璧な情報があれば情報の小出しで知らない相手が理解すると思ってしまうのが人間だ。
「そう、春と仕掛け屋はあまり気にしないだろうけど、やっぱり朝日とフィリについては難しいのかもしれないな。朝日がアレだけ嫌がるのは意外だったが……」
「それはー……、まぁねぇ。アルゴスが嫌なのもあんだろうけどさぁ……くぅ、美少女ってつれぇな」
相変わらずこの馬鹿天も馬鹿天らしい事を言う。というより今は馬鹿堕天か、より悪い響きで我ながら良いセンスだと思ったが、流石に堕天については言い過ぎかと思って口を噤む。
「あぁ、そうだ。今のうちにこれ」
「――ッッ!」
一瞬身体を硬くした響に、俺は呼び鈴を渡す。
何のロマンティックも無い。ただの呼び鈴だった。会うとも思っていなかったが、捨てるには何だか違う気がして、飲み残したスキットルの中身を惜しむような気持ちで、持ち歩いていた呼び鈴、ベルだ。
「えぇ…………?」
――チーン、チーン、チーン。
「……何これ?」
響が割と真面目な顔というより真面目な苛つきを見せながら、俺を睨む。
アルゴスは「チーンチーンだってよ! チーンチーンって! ガハハ!」と小学生みたいな事を言っている。
「いや、呼び鈴」
「いや分かるよ、分かるけどさ。何で朝日ちゃんにはあんなロマンティックな物渡しといてこの響ちゃんにはただの呼び鈴なのさ!」
言いたい事は分からないでも無いが、では何かアクセサリーでも渡せば喜ぶだろうか。
逆にそれで喜ぶ響を見るのも想像出来ないし、喜ばれたとしても、からかわれそうで軽く苛つく未来が見える。
「ほら、良くいないだろお前。だから叫ぶよりかは、ソイツの方が響くだろうなって」
率直な理由だった。助けられてばかりなのだ。
――そうして、助けられなかったのだ。
だから、彼女がその呼び鈴を鳴らした時くらい、駆け出したいと思った。
響からは、苛立ちの表情が消え、俺の次の言葉を待っているようだった。
「それにアレだ。ベルが鳴るってのは、天使が羽根を授かる合図って言うだろ」
「いや言わないよ? 格好つけてるけど言わないからね?」
朝日であればピンと来る古い映画の話なのだが、天使は映画がお好きでは無かったらしい。
「言うんだよ! お前の今の姿が嫌いってわけじゃない。けれどお前は無理してそうなったわけだろ。なら、それに対して見舞うくらいの気持ちがあってもいいだろ」
「……それは、良いね」
彼女の顔が、やっと見慣れた笑顔に戻る。
格好つけてるだとか言われた事は無視してやるとして、彼女が大事そうにその呼び鈴をしまったのを見て、少しホッとした。
「……呼んだら、来てね?」
「……あぁ、今度は、ちゃんと呼んでくれ」
まだ、彼女とは話さなきゃいけない事はある。
アルゴスが「おせぇぞー」と言うのを無視して、俺達はわざとゆっくり、道を歩いた。




