第四十七話『明け方を照らす両目の篝火』
満月が、二つの刃を照らしている。金属音は、少なかった。
俺にとっては即席の師匠、朝日にとってはきっと永遠の師匠が、月明かりの下で刀を振るう。
「だ~からぁ、重心ズレてるよ~!」
キーパー――師匠は、朝日の胴体へ蹴りを入れる。もはや刀の使い方以前の問題だ。だからこそしばらくの間、金属音はやはり無く、痛みに呻く朝日の声だけが響いていた。
そうしてやっと鳴る金属音は、たった一つの、弾かれる音。
師匠は幾度とない蹴りや刀の柄での殴打によって、体力を減らし、息も絶え絶えの朝日の刀の下に自身の刀を合わせ、思い切り上へと振り上げていた。
灰に、朝日が握っていたはずの刀が突き刺さる。
「うん、そうなるよね? だけど絶対にそれだけは、刀だけは離しちゃ駄目だよ。転んでも、吹き飛ばされたとしたって、絶対に」
言葉に緩急を感じるくらいに、二重人格かのように師匠の口調はコロコロ変わる。本当に大事な事は、柔らかく言う余裕も無いのだろう。
これはもう、完全なレクチャーだ。歴然とした力の差が、俺の目からも分かる。悔しそうな朝日は尚の事それを理解しているだろう、それでも吹き飛ばされる度に朝日は思い切り刀を握るのが見える。
「左手が軸、右手で操作、力は、左手」
そう言われて何度目かの弾きを受け、やっと朝日はその刀を吹き飛ばされずに済む。そうしてそのまま、一瞬距離を取って師匠へと斬りかかろうとする。
「ん、元気でいいね~。右から振り下ろす? じゃああと一歩分足りない。難しいだろうけれど、間合いを読むの。自分の歩幅を気にする事」
師匠の言う通り、右に振り上げた朝日の刀は、そのまま右足を前に出して斬り落とすには距離が遠い。次の一歩は必ず左足になるならば斬り損じて打ち下ろした青刀を切り返すして上段へ切り返すべきだと考えたが、距離が近すぎる。師匠は判断が鈍った朝日の青刀を足で思い切り踏みつけた。
「今のは後ろに下がって横薙ぎ! 振り回すだけなら誰にでも出来るの。だけれど時間が無いからスパルタで行くからね」
「……ッ!!」
踏まれた青刀を力一杯振り上げようとする朝日の首元に、師匠の刀が突きつけられた。
「私は一本、朝日ちゃんは二本あるのにね~? アドバンテージには気は配らなきゃ~」
彼女は柔らかに言うが、目は笑っていない。そうして朝日は首元に刃を向けられ一瞬気が散ったのだろう。その手から青刀が完全に落ちる。
「基礎は多いけど、今教えられる大事な事は『届くか届かないか』と『どの場所を狙うか』とそうして『リカバリー』だね。あとは……アクタん君、ちょっとそっち行くよっ!」
師匠が不意にこちらを向いて刃を走らせる、動きは完全にさっきの朝日の物と同じように見えた。上段から斬り伏せようとしている。俺は灰刀を持ってそれを受け止めようとするが、彼女の刃は俺の一歩手前で、まるで朝日がした時のように振り下ろされた。
「急ぎだから合わせて行こうね。『届くか届かないか』届かないよね? でもこれはわざと。『リカバリー』に見せかけた純粋な攻撃!」
彼女は切り下ろした刀を逆側に持ち替え、俺の身体を斜め下から斬り上げようとする。
俺に届かなかった一歩分は、左足での踏み込みと共に確実に当たる位置へと変わっていた。俺はその切り上げを下段で受け止める、やはり俺相手には容赦が無いようだ。刃がひっくり返るのが見えていた、灰になるまではいかないものの、痛みに苦しむのは最低限でありたい。とはいえ朝日は実際に痛みに苦しんでいるわけだが。それでも俺については痛みどころか、生命についても下手すると危うい。ならば本気で対応しなければいけない。
「凄いな~、飲み込みが早くておねーさんビックリしちゃった~。さっすが男の子!」
「子という歳じゃないだろ。というかおねーさんって言っても、キーパーさんより俺の方が年上だよな?」
「キーパーさんじゃない~、師匠だよ~! あと歳は関係ないの!」
振るわれる一撃に手が痺れるが、師匠はそれを受け止めた俺を満足げに見て、朝日の方に向きを変えた。
今のはおそらく、俺の為のレクチャーでは無い。そうして朝日との行為もまた、彼女の為だけのレクチャーではない。
――お互いに、お互いを見させているのだ。
俺達の情報がどこまで敵側に把握されているのかは分からなくても、少なくとも彼女は俺の灰魔法を見て驚かなかった。ただ、それどころの話じゃないという事なのかもしれない。
「朝日ちゃん! ちゃんと見ててね! すご~~く大事な事だから!」
師匠は刀をスッと上へと真っ直ぐに立てて、その刃を俺の顔面スレスレに近づける。俺の灰刀と彼女の鍔がぶつかり合い、軽い力の入れ合いへと変わった。
何をするつもりなのだと思いながら、彼女を見ると、彼女は少し寂しそうな顔で微笑む。
今の状態は、所謂鍔迫り合いの状態というやつだろう。ギリギリの所で刀と刀がその刃をぶつけずに、その持ち手あたりで押し合っている状態。
「芥君……!!」
思わず朝日が声を上げるが、それを上回る声で「大丈夫! 本当に大事な事だから見といて~!」と師匠は強く声をかける。そうして目の前の俺に、そっと囁く。
「アクタん君、その刀さ~。持ち手から唾までをそのままで、刃先をふにゃふにゃにする事って出来る~?」
難しい事を言われてしまうが、持てるだけで要は斬れない刀を作れという事だと思えば良い。
「まぁ、おそらくは……」
「なら安心~、じゃあそうしてくれる~、じゃないと私今死んじゃうから~。それでこの場はお互いに全力で~、押す!」
向こうの刀から力が加わるのを感じるのと同時に、俺は思い切り持ち手部分を押し込んだ。
結果的に、俺は一歩だけ先へ進み、師匠は俺の力に負けて少しバランスを崩しながら後退する。
「此処! 斬って!」
師匠の強い言葉に言われるがまま、俺は左足を一歩前へ深く踏み込むのと同時に刃だけをただの灰の塊にした灰刀を振り上げ、右足で踏み込むと同時に彼女の肩へと灰刀を振り下ろした。
「アクッ……?! ……あれ?」
朝日が思わず飛び上がり叫びかけるが、結果的に俺は師匠の肩に灰を少し積もらせただけだ。彼女は朝日の方を向いて肩の灰を払いながら真剣な顔をする。
「私でもこうなったら力負けなの、だから本当ならこれでおしまい。絶対に力で負ける相手とぶつかりあっちゃ駄目だからね、覚えておいて。逆にアクタん君は力で勝てるなら絶対に押し込む。二人は刀という同じ物を持っているけれど、使い方は全く別だからね~」
朝日は、その言葉に少し悔しそうな顔をして頷く。
「最後は何処を狙うかだね~。アクタん君は勘が良いよ~、それともその灰の刀を扱える自信からかな~? でも首元に近い肩を狙うのはキミの殺しへの恐れだね~、本番は首だよ。肩じゃ一撃でヤれないから」
師匠は笑ってはいるが、これは明らかに俺の甘さへの指摘だった
「朝日ちゃん、今の見ててどう思った~?」
「どうって……、なんだか悔しいというか……」
その答えに師匠は思わず吹き出して、一旦俺と朝日は彼女が笑い終わるまで何とも言えない顔で見つめ合っていた。とはいえ悔しいとはどういう事なのだろう。笑う理由もあまり分からないまま、俺達は彼女の次の言葉を待つ。
「どういう『悔しい』なんだろうね? ほんとに楽しいな~。ワインが欲しいや」
「力の差、ですよね」
朝日がそう言うと、笑っていた師匠が真面目な顔へと変わる。
「そう、私達の圧倒的な欠点。刀を持つ女性が武器を持つ男性と戦う時の、永遠のテーマ」
――力の差、か。
「どれだけ鍛えてもさ、限界はあるんだよ。体格もそうだしさ~。だから、私達は私達の技を磨かなきゃね~」
師匠は悔しそうに、そうして半ば諦めたように言った後、改めて朝日と向き合った。
「私はさ、弱くはないよ。刻景は……弱いかもだけど~。剣道一筋だったお陰で今までなんとか生きてこれた。けれど覆せない力の差って物は絶対にあると思うの~。だからさ~朝日ちゃん。私にちゃんと一太刀入れてみて~?」
師匠は不敵に笑って、目の色が変わったように刀を真っ直ぐに構えた。
「私の技で、全部あしらってあげるから」
そこからはもはや一方的だった。今までも一方的だったかもしれないが、身体で分からせようとしているかのように、朝日の全ての攻撃を彼女はその刀一振りで捌き切った。
たとえば朝日の上段からの打ち込み。
朝日が刀を持つ手を挙げた瞬間に師匠の刀が朝日の胴を打つ。流石に俺相手の時とは違って逆刃だが、それでも痛みは相当な物だろう。それでも朝日は立ち上がる。
もう一度繰り返される、朝日の上段からの打ち込み。
次は朝日が手を振り上げた瞬間に手を打たれ、朝日は痛みに耐えかねて刀を落としかける。
「偉いね、落とすかと思ったよ~」
師匠は笑うが、朝日は悔しそうに懲りず、また上段からの打ち込んでいく。
三度目の正直、バカ正直とも言うべきかもしれない。
今度こそ当たるかと思った瞬間、朝日の刃は師匠の刃先によってずらされ、トンと朝日の頭に師匠の逆刃の先が当たる。
朝日の目には、涙が浮かんでいた。それでもまだ、まだ、上段を打つ。
打ち続ける事四度目にして、やっと金属音が鳴った。だがその直後朝日は地面に膝をつく。朝日の上段からの打ち込みを受け止めた上で、師匠は彼女の胴を打ち彼女の背後まですり抜けた。
「アクタん君、見てた~?」
苦しむ朝日には目もくれず師匠はこちらに振り返って、俺に刃先を向ける。今度は逆刃ではなく、真っ直ぐにその刃が光っていた。
「あぁ、見てたよ」
俺の中には、少しずつ怒りが溜まっていた。痛みに苦しみながら、朝日が見ている。だから、同じ轍は踏まない。
「なら~、捌けるかな~……ッ!」
朝日のは模擬戦、要は俺を実戦として扱っているのだろう。
だが、彼女の一撃目は上段では無く、中段の薙ぎ払い。
「これは、見てないヤツだろ!」
俺は灰刀の刃を下に向け無理やりその薙ぎ払いを止め、力技でその刃をぐるりと互いの頭上を通して、逆側へと落とす。
「でも捌けてる……っじゃない!」
師匠は飛ぶように数歩下がり、俺達はお互いに思い切り一歩踏み込めば剣先が届くような距離を保つ。
「これが一足一刀の間合い、一撃でお互いの刀が届く間合い。感覚で覚えなきゃだけど、一応は覚えておいてね」
――朝日との模擬戦では負けさせ、俺との実戦では自身の負けを見せているのか。
次に師匠が打ち込んできたのは上段からの斬り下ろしだったが、俺はその刃を受け止めると同時に思い切り横に灰刀を振り回した。弟子というには時間が短すぎるが、一応教えてもらった力技だ。
彼女は俺の灰刀の勢いに身体をよろけさせながらも、あろう事か首元に突きを放ってきた。突きの対応の仕方なんざ知らないが、思わず俺は屈んで避ける。
「そう! そうだよ! だってこれは殺し合いなんだもの! 礼儀作法なんていらないの!」
「剣道家らしからぬ言葉だな…………師匠」
興奮して口調も何も無くなっている師匠が、朝日に伝えるかのように叫ぶ。
「良いの! だってこの世界じゃ殺し合いなんだもの! 隙は逃さない! けれど私達は力と成るべくぶつかり合わせない! 打たせて、流す!」
彼女の生い立ちはさっき道場の娘という事しかわからないが、厳しい家柄であっただろうことは想像出来る。それでいて、もし彼女が一人っ子であったならと思えば、その境遇と、この戦闘スタイルになった理由も分かる気がする。
――これはただの想像だ。
だけれども、俺がしてしまう想像は、嫌なことばかり当たる。
俺は突きの後も尚屈んだ俺へと上段打ちを入れようとしてくる彼女の刃を、一旦灰刀で受け止めた後、力を込めている彼女の目を見た。少しだけ、怒りが浮かんでいるようだった。
おそらくは今のこの状態も、俺が押し返したならば力で勝ってしまうのだろう。
――だけれど、俺は卑怯だ。
一瞬だけ灰刀の刃を灰へと変えながら俺は一歩身体を横へ動かす。
すると灰刀を叩き折らんかの如く力を込めていた彼女の刀は、消えた俺の刃を通り過ぎて、地面を斬った。そうして俺は、改めて作り出した刃の無い灰刀で、彼女の頭をポンと叩く。
「こういう男もいるんだ。卑怯だろ?」
「……確かにほーんと卑怯だね~。でもそういうのもお姉さん、嫌いじゃないよ~」
その光景を、朝日がボウっと見ていた。
「じゃあ、改めて俺とやろう。朝日」
今度は、俺が朝日に灰刀を向けた。
「卑怯は、無しだよ?」
笑って、朝日が青刀を拾い上げ、それを鞘に仕舞う。
そうして、軽いと言われていた赤刀を抜いた。
「朝日ちゃんも、分かってきてるね。アクタん君、気をつけなよ~?」
師匠はもうその刀を鞘に仕舞っていた。そうして嬉しそうに朝日を見ている。その表情は少しだけ満足げに見えた。
夜が明けるにはまだ早い。
金属音が鳴り響く。だがお互いに傷は付かず。灰も付かない。
俺の一撃を、朝日はスルリと受け流し、その俺の隙に打たれる一撃を俺が受け止める。
「こういう事、なんだろうな!」
「……かもねっ!」
お互いの汗が混じり合うかのように、夢中で刀をぶつけ合っていた。
師匠から見れば子供の遊びかもしれない、チャンバラごっこのように見えるのかもしれない。
だけれど俺達は、少なくとも剣道としての礼儀とは外れているにしても、剣の道を教えてもらったのだ。だから、彼女はやはり師匠と呼ぶべきだと思った。
俺の大ぶりを朝日が躱した瞬間、朝日の刃と共に目の前に灰が飛んでくる。
俺は後ろへと躱しながら、光る線だけを頼りにその刃をギリギリで受け止めた。
「っと、危なかったな……」
「これで一勝一敗、かなぁ?」
受け止めたつもりの刀はスルリと受け流され、俺の首元には朝日の刀が突きつけられていた。
彼女は笑ってその刃先を避ける。
「まぁ、あの時は俺もズルしてたしな」
ヘヘッと嬉しそうに笑う朝日が、その刀を不思議そうに見つめる。
「ポチばっかり使ってたせいか、タマはすっごく軽い……ねぇ師匠。刀ってこのくらいの重さが普通なの?」
少し息を整えた朝日が、青刀を師匠に手渡す。
「いや重ッ! 重いわよ?! 軽重で二刀あるって言ってたけど~……」
「こっちが軽い方ですね……」
そう言いながら朝日は赤刀を鞘ごと渡すと、師匠は窓に向かって大声で叫ぶ。
「ばかけ屋! 女の子になんてものを持たせてるのよ~!! い~い? 青の方はね、短刀に作り変えてあげなさい! 逆手で短刀を扱う訓練は……最初にしといて良かった~……」
師匠が言うには、赤刀の時点で刀としてはだいぶ重いが、青刀はそもそも斬る為の物かも怪しい重さだと言う。軽さと重さ、仕掛けといえば仕掛けではあるのだが、仕掛け屋にしては珍しいミスをするものだなと思った。
「せっかくだからさ~、赤い方はアクタん君にプレゼントしちゃわない~? 力、強いみたいだし?」
やや嫌味っぽく言われるが、事実本気でやらなければ死んでいたのだろうから仕方がない。自分自身腕力がある方だとは思わないが、それでも二人を押しのける程度の力量差はあるようだ。
「でも……」
流石に此処まで鍛錬した後に刀を持たせないのは俺もどうかと思って、口籠る朝日に口添えしようかと思ったが、師匠は自身の使っていた刀を朝日に手渡す。
「だからこれあ~げるっ! どーせ私にはもう必要無いしね~」
朝日は赤刀を俺に渡し、師匠が使っていた刀を受け取る。
「重ッ!」
「かるっ!」
その重さに思わず口に出してしまったが、印象の違いは物が違うからという事にしておこう。
とはいえ、さっきこの赤刀を朝日が『軽い』と言っていた気がしないでも無いのだが、それも青刀との差という事にしておこう。
「ほらぁ、そろそろ夜が開けるよ~。頑張ったねぇ二人共」
その瞬間、銃声も聞こえないのに、師匠の胸に銃弾が突き刺さった。
「……は?」
「あらら~、的中だ~」
急に現れる銃弾なんて、見えるわけも気付けるわけもなく、斬り捨てる余裕も、朝日が刻景を使う暇も無かった。
「追跡魔法って言った、でしょ~? 離れ業やるのは、魔法使いの特権だよ~? アクタん君もやってたみたいに……ね?」
彼女は確かに、追跡魔法をかけられたと言っていた。
そうして灰になったコックも、追跡魔法の被害者だった。
だからこそ、二人はその生命を賭して、最後にすべきことを選んだのだ。
――だが、追跡してくるのが、人だけだとは一言も言っていない。
追跡という言葉で、見誤っていた。誰が追跡しているのだろうという事ばかり考えていたのだ。
「まさか、物……か」
朝日は何も言わずに、現状を飲み込めずに立ち尽くしていた。全員が集まった今ならば、もしかすると師匠を守れるかもしれないと、そんな事すら頭によぎっていた時の出来事だった。だからこそ、俺もまた呆然としてしまう。
速度こそ分からないが、彼女は一発の銃弾に心臓を追跡されていたのだ。心配させぬようにそれを隠したまま、俺達に迫る大群の追跡だけを伝えた。
夜明け頃というのは、大群が来る時ではない、彼女に銃弾が届く時の事だったのだ。彼女は、それが届いてしまう事も知っていた。
勘か、それとも教えられたのかは分からない。それでも彼女は篝火の仲間として、朝日の師匠として、事情も何も知らないまま、その気持ちだけで灰になる事を知りながらこの場に姿を表したのだ。
「意外と~……保つもんだねぇ。そういや、最初もそうだったっけなぁ……。あぁ……そうだ、本当に山程押し寄せてくるから……逃げなね~」
口から血を吐きながらも、師匠はおそらく相当な無理をして笑っている。心臓を撃ち抜かれているならば、本来は喋る事もままならないはずだ。だがこの世界では致命傷はすぐに死に直結しない事もある。灰になるまでのタイムラグのような物が起きる。
俺はそっと、師匠に纏わりつく灰を遠ざけた。混じり気のある灰は、もう見たくなかった。たとえ風で飛ばされたとしても。
「師匠……名前、教えてもらえますか?」
朝日が、師匠から受け継いだ刀を握りしめて、言葉を振り絞る。
「んー? 名刀『明烏』だよ~……。実家……あるか、分からなかったし、遠かったし邪魔なの一杯で大変だったけど……あってよかった~……。あっそだ……手……っ!」
師匠は焦ったように朝日の腕を掴んで、自身の時計の秒数を移し替えていく。朝日は何か言おうとするが、彼女の最後の言葉を遮らないように、口を噤んでいた。
「明烏取りに行く時と、此処に来る前に一杯倒してたの、忘れちゃってた~」
その顔は微笑みながらも、声は少しずつ、小さくなっていく。
「あんまりにもさぁ……」
師匠の声がかすれて、少しずつ身体が灰に変わっていく。
「この夜が~、楽しかったから、さぁ……」
「師匠……、ありがとう、ございました」
朝日が、小さくもしっかりと言葉を紡ぐ。
「短すぎ、だったけど、ね。ちゃんと、生き延びてね。私の夢を叶えてくれた、二人の、愛弟子ちゃん」
彼女にとってはたった二日だとしても、俺にとってはほんの数時間だとしても、彼女は間違い無く俺達の刀の師匠だった。
「この刀に、誓って」
朝日は『明烏』の鞘を手に取り、師匠の前に出して見せる。
「あり、がと~。弟子に看取られるって、いい……ねぇ」
その言葉を最後に、俺達の優しい師匠は、灰になった。
朝日が、無言で俺の時計に彼女の時計を合わせた。
お互い同じ秒数にしても『60秒』を越えている。それだけで、どれだけ師匠が俺達の事を想ってくれていたのか、分かった気がした。
「名前、教えてもらいたかったな」
「うん、ざんねん」
俺達の手には、ただ、刀だけが握られていた。
長いようで、短い夜が明ける、烏がいたなら、鳴く頃合いだろう。
そうして、もうすぐ朝日が昇り始める。拠点の窓からは、仕掛け屋が酒を片手にこちらを眺めていた。きっと、全て聞いていたのだろう。
「仕方なく、ないよな」
「そう……だね。仕方ない事なんて、もう起こさせない」
回避出来ない死を待ちながら、笑って、怒って、刀をぶつけ合った。
確かに、仕方なかったのかもしれない。そう思うしか無い。けれどもう、同じ事は、二度と起こさない。
俺と朝日の想いが、刃を通して一つになった気がした。
俺は、俺達は、その刀の扱いを教えてくれた師匠の名前を知らない。
だが、その経験が、その想いが、手の中に詰まっていた。
そうして、朝日のその手が震えていたとしても『明烏』に涙が落ちる事は無かった。
コックも師匠も、その生命を強く強く燃やし、灰になった。
それは正しく『篝火』だったのだと、思う。少なくとも朝日の眼には、彼女が使っていた刀『明烏』と共に『篝火』としてのキーパーが燃え尽きるまでの時間を受け継いだかように、その両目には、炎が宿っているような気すらした。




