第三十七話『その体温との間には』
春の選んだ雑貨屋は自宅も兼ねていたようで、どうやら縦に長い構造らしく、奥には普通の生活スペースが広がっていた。夫婦で営んでいたのだろうか。つい、癖で本棚を見てしまう。
――こんなところには、無かったよな。
現実での異世界病者は、異世界転生について書かれた文献を隠す傾向にあった。だから本棚なんかに堂々と置く物では無いのだが、俺が目にしてきた実際に自殺する程までの異世界病者は、丸で主張するかのように本棚に堂々と飾っていた物だ。少なくともこの異世界が俺達がいた世界と何かしらリンクしているのだとするならば、本棚に並ぶ絵本を見て、少しだけホッとする。勿論、インターネットを使ってアンダーグラウンドな場所で読むという事も出来たのだが、そこらへんの法律については、そう簡単には変えられずにいたというのが、知る限り最後の事だった。
「寝室は、向こうか……」
春は先に寝室へ向かったようだ。
俺は部屋中のカーテンを締め切ってから、簡単に食事の準備を始める。
勿論コンロの火も付かなければ電気も通ってはいないのだが、それでも光源が無いのは不便で仕方がない。
だがあまりに目立つのも得策では無いからと、小さな電気ランタンを最小限まで下げそっと床に置き、俺がまとめて運んでいた休憩用の食料や飲料を取り出す。携行食は各々が所持していたが。流石に数日分飲み食い出来る程度の食料を春に持たせるのは気が進まなかった。
勝手にやった事だから、彼女が気付いて悪い気にならなければ良いと思いながら、俺はプラスチックのコップを二人分用意し、1,5リットルの飲み物二つと、軽い食事を並べて置く。
床で食べるのは行儀が悪いとは思いつつも、テーブルでは灯りが漏れる可能性がある。
「えっと……、毛布、持ってきました」
そう言いながら春は大きめの毛布一枚と、枕を持って寝室から顔を出す。
それをソファの上に置いてから、こちらへトトトと寄ってきて、ランタンの灯りと食事、そして飲み物に目をやっている。
「お茶とジュース、どっちが良い?」
「ん、っと……、お茶でお願いします」
俺は彼女のコップにお茶を注ぎながら、所謂コンビニおにぎりを開けるのに苦戦している春を見て、いつまでも慣れない人っているよなぁなんて思って苦笑する。
「持ってた飲み物は? 飲みきってるか?」
「あ、はい! さっき飲みきりました!」
「じゃあペットボトル貰っていいか?」
不思議そうに俺を見る彼女からりんごジュースのペットボトルを受け取り、俺は手つかずにしておいた自分の水をそのペットボトルの中に注ぎ入れ、十数回振ってから、その水を流し場まで行って捨てる。
「へ? 何に使うんですか?」
「ジュースの銘柄、一緒だから継ぎ足せるってだけだよ。ただまぁ、衛生的に嫌かなと思って」
「いえいえいえ!! 大丈夫です! 気を遣って頂きほんと……」
そもそも水で洗っただけだから、それでも衛生的にはどうだろうと思ったが、彼女はどうやら気にしないようで、嬉しそうにしていた。
「食べてな、継ぎ足しとくよ」
俺は1,5リットルのりんごジュースのペットボトルを持ち上げ、0,5リットルのペットボトルを置いたままの水場に戻る。俺の言葉とは逆に、彼女は少し不格好で海苔がズレているおにぎりをパッケージの上に置き、りんごジュースを注ぐ俺の動作を近くまで来て興味深そうに見ていた。
「トク、トク……芥さんって器用ですね」
気をつければ特に難しい事では無いのだが、確かに何かから何かへ『注ぐ』という行為は塩梅を間違えると勢い余って溢れるし、いつまで経っても終わらなかったりもする。けれどこんな事で器用と呼ばれるのも何だか不思議な気分だった。
「漏斗でもあればな」
「ロート?」
使うと言えば使う、使わないと言えば使わない便利商品。この家にも探せばあるかもしれないが、とりあえず注ぐ分には注意すればいいだけだ。
「あぁ……っと、例えばこの小さいペットボトルの上に、先端が細長くて上側がお椀のようになっている物を差すとするだろ? するとそのお椀部分に注ぐだけで良い訳だ。それが漏斗」
「……成る程! 文明の利器だぁ……」
知らない子は知らないのも無理は無い。本当なら見せてやりたいが漏斗だしな、と思っている間に注ぎ終わってしまう。ただ、漏斗なら学校の授業なんかでも見ていないだろうか、液体を移し替えるという意味では化学の授業なんかで出てきそうなものだが、それはまあ十年一昔とも言うし、俺と春の歳の差を考えると、彼女が知らないのであれば俺の記憶違いか何かなのだろう。
春は俺から満杯になったりんごジュースを受け取ると、嬉しそうに薄暗くも明るい食卓へと戻っていった。俺は少しだけ軽くなった元は1,5リットルあった1リットルのりんごジュースをカバンに仕舞い、自分の食事を摂る。俺自身の携行食や飲料は、見たところ十分そうだ。そもそも持ってきている数も違う。
「一応インスタントスープ、春の魔法があれば作れるけれど、どうする?」
「いえ、これは今から伺う人に差し上げましょう。きっと喜んでくれるはずです」
そう言うなら、と俺は湯を注ぐだけで完成する中華風卵スープの固形パックをカバンの目立ち安い場所へと戻す、どうして卵かといえば、行きがけに食料を選んでいる最中、もし店内にあったこれが仕掛け屋の目に留まってしまうと少し気の毒だなと思ってまとめて持ってきてしまった。とはいえ卵を使った物は山程あるから勢いといえば勢いなのだが。
「それじゃあ、寝ようか」
「で、ですね!」
食事で出たゴミを律儀にゴミ箱に捨てていた春が、身体をビクンとさせる。
やはり思っていた通り、一回り年上の相手と夜を過ごすのは気まずいだろうと思い、軽いショックを受けつつも俺は仕方がない事だと割り切り寝室へ向かう。だが俺と春が向かう先は完全に異なっていた。
俺は寝室のドアへ、彼女は今のソファへ。
「流石に、寝る部屋は一緒の方がいいんじゃないか?」
俺は寝室のドアノブに手をかける前に、互いの安全を想って春に声をかける。すると春は真っ赤な顔をして寝室を指差す。
「あぇ! っとあの! えっと!」
その反応に物凄い焦りが見えたので、とりあえず俺が寝室のドアを開けると、彼女が言わんとしていることを一発で理解し、思わず頭を押さえる。
――ダブルベットか……。
「悪い……、知らなかった」
「い、いえ! 逆に私は知っていたのについこの家を選んじゃって! だから本当にこちらこそすみません……っ!」
だから彼女は居間に入り真っ先に寝室へ向かったのだろう。
そうして寝具を持ち出して、居間のソファを陣取ったというわけだ。
「芥さんにベッドを使って貰えたらなと……」
その思いやりは凄く嬉しいが、それでも同じ部屋にいておきたい。
「気持ちは嬉しいけれど、部屋は同じにしよう。ベッドは春に譲るから、寝室に行かないか?」
「で、ですが……!」
春がシーツを軽く掴んでいるのが分かる。彼女なりの抵抗というか、気配りの気持ちが逸っているのかもしれない。それか、単純に嫌なのかもしれない。
「俺は床で良いよ。見たところ寝室も狭く無いし、いつもよりはずっと寝心地の良い状態には出来そうだ」
「それでもベッドは芥さんが……!」
おそらくは、優しさ故に譲らない。意外と頑固だなと思いつつも、俺も一回り下の女の子を放っておいて一人でベッドに寝るなんて事は出来ない。
「同じ部屋で寝るのは決まりとして、こっちも譲らないぞ。せっかくのベッドに誰も眠らずに二人で床で寝るか?」
「むー……!!」
意地悪をしたつもりは無いが、春は頬を膨らませ怒っている。
事実この話が平行線上であれば、結論として二人してベッドに寄りかかって眠り、誰もいないふかふかのダブルベッドだけが残る事となる。
「わかりました! わかりました!」
春はそう言うと、自分の寝具を持ったまま寝室の入り口にいる俺の手を引っ張る。
流石に痛みなどは無かったがその勢いに思わず俺はよろけて、ポンとベッドの上に倒れ込む。そうして彼女はダブルベッドの反対側に回りながら、赤褐色のとんがり帽子をトンと部屋の端に置く。
「恥ずかしがってた私がバカでした! おやすみなさい!」
そう言って彼女は俺の横にやや距離と取りながら横になった。勿論俺とは背中合わせだ。
「いや、俺は床で……」
「芥さんは、私をベッドで寝かせたい。私は、芥さんをベッドで寝かせたい。であれば……これが正解では、ないので、しょう……か!」
ベッドから降りる気配を察したのか、彼女は俺の手を掴んで離さない。
「私なんかと同じベッドだなんて、嫌かもしれませんが。これが私の妥協案です。どうですか?!」
彼女の顔は真っ赤で、もはや破れかぶれと言わんばかりにペラペラと口が回っている。いつもの大人しさは何処へやら、もはや押し倒されるかと思う程の勢いと、恥ずかしさから来る興奮でもう彼女は我を失いかけているように見えた。
「分かった、分かったよ。俺なんかと同じベッドだなんて。って所まで同じだったみたいだしな」
そう言って、それでも俺は立ち上がる。
せっかくのダブルベッドの毛布やらなんやらが荒れに荒れていた。
「芥さん!?」
「いや、せっかくならちゃんと寝たいだろ?」
そう言って、帽子を取った彼女の身体の上にふわりと毛布をかける。ベッドメイクは好きではなかったが、毛布をかけるくらいの事は俺にも出来る。そして春も、そうされてやっと少し落ち着いてきたみたいだ。毛布の下から見えた足の先を嬉しそうに擦っているのが見えた。
「じゃあ、この話は引き分けって事で」
「ですね……っ」
小さく笑いながら、嬉しそうにもぞもぞとベッドの上で動く彼女は、年相応とは呼べない程度に子供らしかったが、それもまた微笑ましく思えた。
あれだけ汗をかいたのにシャワーも浴びないなんて! と朝日に怒られそうではあったが、それはとりあえず明日の朝で良いだろう。
春がもう単純な楽しさでウズウズしているベッドの中に入るのは、そういう意味でも一瞬ためらわれたが、結局俺の鼻に届くのは高級そうなベッドの香りだけだった。軽くアロマでも振ってあるのかもしれない。であれば彼女に届いている香りもそのはずだ。
「おやすみなさい、芥さん」
嬉しそうに、だけれど少し眠そうな声で、背中越しの春から声が聞こえる。
「あぁ、おやすみ」
俺は簡単に眠れそうには無かったが、そう答えて、俺達は黙りこんだ。
その内に、春が寝息を立て始めて、ホッとする。
おそらくは音に敏感になっているだろう、だからこれからこっそり床で寝るなんてのも彼女に悪いだろう。そもそも彼女が起きた時に信用を失くしてしまいかねない。だから俺も諦めてこのベッドで眠る事を決意した。少しだけ後ろから伝わってくる気配は、紛れもなく人間の温かみだ。
俺は出会ってから今まで春を見てきた。だが中原春という人間の事は、あえて考えずにいた。
茶褐色という色格。
悪魔陣営で追われた具体的な経緯。
赤褐色のとんがり帽子。
そして始まりの二人と同じ、中原という名字。
そうして、彼女がどうしてこの世界にいるのか。
そんな事達はなるべく考えないようにしてきたのだ。それはきっと、俺の恐れのような物なのだろうなと、天井を見ながら思う。俺はきっと、単純に隣で幸せそうに寝息を立てている少女の事だけを見ていたいのだろう。
だが、それでもいつか向き合う日が来るのだろうと思った。
俺もまた、そうして春もまた、向き合わなければいけない日はそう遠くない。
俺はその日が、どうか穏やかな日である事を願って、そうして万が一間違えて春を抱きまくらにでもしたら洒落にならないなんて事も思って、体制は悪くなったが枕を胸元に引き寄せて、抱きしめながら眠りについた。




