第三十話『の・ようなものと、小さなほんもの』
完全に打ちのめされたわけでは無いが、イロスとの戦いは間違い無く敗北だった。もしくはあの戦いに勝者なんて、最初からいないのかもしれない。イロスは俺達の事情を知っているだろうが、俺たちは彼女の事情すら知らないのだ。何も知らずに戦っているだけなのかもしれない。それでも、許すわけには、もういかなくなった。最初からそうあるべきだった事を後悔しても、どちらにせよもう、イロスの右手も、フィリの右手も動かない。
向こうもこちらも右手一本ずつで、イロスと痛み分け。事実はそうだろう。もっと言えば単純な勝敗なら逃げ帰ったイロスの負けと言っても良い。けれど、そんな事を思っている人間はこの場には一人もいなかった。涙を溢す朝日が強く握っているフィリの右手は、もう動かない。
「分かってたんじゃろうな、アクタは」
「あぁ、知ってたよ」
残酷な話だと思う、冷徹、冷酷、なんとでも言ってくれても良いと思った。だけれど、それでもこの何処かも知らない世界の、何処かも分からないビルの一室を灰だけが積もる霊廟にするわけにはいかなかった。
「そもそも、俺と春が駆けつけた時点で俺をあの場に招き入れる必要だって無かったんだろ。隙が作ればそれで良かった。刻景が頻繁に展開される場所に来いなんて、お前は言わないよ」
「ん、そうじゃな。結果として全員の力を以て一瞬の隙か。相性の一言で片付けたくは無いが面倒じゃったのぅ……」
つまりはフィリにとって、俺がイロスに攻撃される事も知った上でのタイミング作りだったのだろう。だが癖というのはそう簡単に消えはしない。相手の刻景のロジックが分かったとしても、あるべきタイミングという物を読み切るなんて事は、達人の芸当に他ならない。
「仕掛け、もう離れるなよ。それでお主らは手を離さんか! 鬱陶しい!」
「ええ、一時も、こっちのシゴトは済みましたしね」
『刻景・オンタイム』
神の子に与えられる刻景はやはり強すぎる。彼女は自身の刻景に従い動き、彼女の刻景の範囲の人間は刻景が定めた確実なタイミングで無ければその攻撃を許されない。というよりも、ほぼ確実に躱される。
イロスにある程度の身体能力がある事を考えたならば、もう既に消滅した響のストップタイムや、仕掛け屋のバレットタイムといった確実性や不確実性に頼るしかない。
仕掛け屋のバレットタイムを見て逃げた所を見れば、確実性は勿論、どのタイミングか把握仕切れない程の攻撃にも余り強くは無いように見えた。だからこそ、俺と春が魔法使いと戦っている時に銃声が聞こえ続けていたのかもしれない。朝日はおそらくいち早く気づいたのだろう。だが最後にイロスが俺を仕留めようと広げた刻景の範囲から考えるとオンタイムは部屋全体に展開されていた。ならば朝日の動作が確実なタイミングかどうかはイロスからは丸見えだったはずだ。だからこそ朝日の攻撃は当たらずに、朝日は攻撃を当てられていた。
「右手か、まぁ相応じゃろ。幸い足技も左手も残っとる。アクタ、使わんならその銃よこせ」
「いえ、お嬢には預かりものが……」
仕掛け屋が背中に背負っている仰々しい入れ物から、一挺のショットガンが現れる。
「扱いにくそうじゃな……。じゃがまぁ、調整しろ。友からの贈り物を無碍にする程野暮では無いからの。それに……」
ショットガンシェルもまた、その一発から放たれる弾の多さから、不確実性を持っている。イロスと対面した時に、その散弾はある程度の効力を発揮する筈だ。もし俺がそれにすぐ気づいていたならば良かったのだが、結果論としてイロスを撃てばフィリに当たる状況でしか無かった。それでも、もしどうにかできていればフィリは右腕を失わずに済んだかもしれないという後悔は、消えない。
「ええ"ヤツ"には悪いですが、マガジンを追加して、軽量化します。それと、『皆によろしく』と」
「ふん、流石に面倒なシゴトだったようじゃな」
フィリがほくそ笑み、仕掛け屋は何とも言えない風に頬を掻く。
「朝日の嬢ちゃんには、コイツだ。もう泣くなよ、せっかくの美人が台無しじゃねえか」
「そうじゃ、ワシは……、ワシだけがこの結果に納得しておる。それに力が入らんだけで本当に消えたわけでも無いしの。コイツをどうにか出来る事だって、無いとは限らん。消せたんじゃから、生み出すヤツもおるじゃろうよ」
彼らしくあり、彼女らしくない言葉だった。それでも仕掛け屋は声が引きつり、フィリは希望みたいな物を安易に掲げる。不釣り合いな慰め方ではあったが、朝日も納得せざるを得ない。それが半分嘘であっても、覆水を盆に返す奇跡なんて、無かったとしても、フィリがそう言っている。
――彼女だけが、この結果に納得している。
その言葉は、俺達全員が、もう何も言えない魔法のような言葉だった。それでも、フィリ以外の全員が納得していないという事実も同時に口にしている。おそらく、フィリ以外の心には同じ感情が芽生えているのだと、彼女は気づいているのだろう。
「アサヒの傷も、アクタの傷も、ワシなりに考えた結果出来た物で、ワシが至らん結果生まれた物じゃ。この世界での傷はそう怖い物では無くとも、痛みは誰だって辛い。だがワシはな、お主らにそれを負わせるつもりで考えた。お互い様じゃろうて、アクタは言ったな。『敗北』じゃと、じゃがワシが、ワシだけけがこの戦いを『勝利』だと思っておる。おかしいか? おかしいなら言うてみろ。腕の一本くらい、お主ら全員の命と、比べようがないのは当たり前じゃろうが」
――彼女らしくない言葉だった。
「悔いるならば、泣くならば、勝て。それだけの話じゃ」
フィリは朝日の頭を左手でポンと撫でてから、隣に座った俺の腹を軽く殴り、俺の肩を使って立ち上がった。
「その通りだわな。朝日の嬢ちゃん、コイツが嬢ちゃんの獲物だ。使い方は……見りゃ分かるか。上手に使い分けな」
朝日は、仕掛け屋からそれぞれ赤い鞘と青い鞘に包まれた刀らしき物を二つ渡されていた。
「持ちゃ分かるが青は重く赤は軽い、二刀を同時に使おうとは思うな。その場に応じて選択しろ。使い方は、慣れるしかあるめぇな」
「すっごく長いメス……、だと思えば……。でも、凄いアンバランス……」
何とかなるのか心配になりながら、長さこそ変わらないのに重さが違うという事への理解が追いつかなかった。模造刀というわけでも無いだろう、金属だけでそれだけ変わるのだろうか。
「君がポチ、君はタマ、かな」
やはり何とかなるのか心配になったが、その心が前向きになっているならばと何も言わなかった。確かに基本的に犬の方が重いし、猫の方が軽いイメージはあるが、彼女らしくも何ともトンチキな名前だった。
「クク、面白えなあ。銘は無かったからな赤軽刀と青重刀とでも呼ぼうかと思ったが、名付けから始めるのは悪くねえ。愛してやってくれよ。簡単な説明と整備品は後でな」
朝日は頷き、その二刀『ポチ』と『タマ』を鞘ごと抱きしめる。
その光景を見て安心したのか、フィリも少し明るめの声で鋭い目で外を眺めていた春に声をかけた。
「来い、ハル。自己紹介もまだじゃろ」
春はハッとしたようにその鋭い目から温和な目に戻り、小走りだけれどとてとてと音がしそうな感じでフィリ近付いてくる。改めて、彼女には不思議な二面性があるなと思って眺めていた。
そうして近付いて来た春を左手で軽く抱きしめるようにして「助かった」と言って仕掛け屋の方へと押し込んだ。
「あ、えと……」
「中原春、魔法使い。多くの言葉はいらねぇ。俺達はもうこの『戦いのようなもの』の中心人物だしな」
その言葉に恐縮するように春が身を縮めるのを見て、仕掛け屋は肩を竦めた。
「仕掛け屋と呼びな、後は柄でもねえな、言い方を間違えた。『戦いのようなもの』の仲間、が正解だな」
嬉しそうにコクコクと頷く春を見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。朝日ももう涙は流していない。
嘘で塗れたこの世界の『戦いのようなもの』と、俺達のような、灰に消えていく『人間のようなもの達』は、一体何のために戦うのか。理由はこの先に、もっと強くなった先に、失う物なんて無くなった先に、きっとある。
「仲間、か」
小さく呟いた言葉、きっと誰にも届いていない。
俺が一番届けたいヤツは、そもそも此処に居すらしない。
失われた物は、戻るだろうか。
取り返しの付かない事では、無かっただろうか。
俺達は、取り返しの付かない事をした『人間のようなもの』だ。
だがもしかしたら、神の子が失った右腕も、天使が失った翼も、戻るかもしれない。フィリが朝日に言ったのはでまかせかもしれなくても、灰になった天使長を蘇らせる悪魔の奇跡すらあるのだ、ならば自分達が正しいと思うべき事をして、現に正しかった彼女達には、奇跡の一つくらい起きたっていいじゃないかと、俺は取り返しのつかない人生に思いを馳せながら、灰を照らしている『太陽のようなもの』を睨んでいた。




