第二十九話『手を、尽くす』
この鼻に付く血の臭いは、誰から出た物だろうか。
鼓動が鳴り響く中で、嫌に静かな階段を駆け上がる。
いつの間にか辿り着いた廊下に残っている血の跡が焦りを早めて、俺は春の横を通り過ぎ部屋に飛び込む。
――あぁ、間に合わなかったんだな。
一見、そう見えた。目に映ったのは血の海で倒れたままの朝日と、朝日の短刀を手に、傷だらけで立っているフィリ。
相手の姿なんて、目に映らないくらいの、絶望。朝日はかろうじて生きているように見えるが、その傷の深さは分からない。灰になっていないのであれば、まだ可能性はある。
「アクタ! 来い!」
言われずともと俺はマチェーテを手に、フィリと対峙している神の子にソレを振りかぶる。
「遅いですよ、アクタ君。ちゃんと"オンタイム"で行きましょうね?」
修道女のようなその姿と、背が高く華奢な体型、灰がかった色の長い髪をピンで分けた奥に見える温和で優しそうな目つきからは想像もつかない残酷なまでに冷静な声と、発動する彼女の刻景。
「ワシらの時間はワシらが決めるわ! ロストタイム!」
それに噛みつくようにフィリもまた刻景を発動させる。
異なる刻景の間に刻景に、明確な強さという物があるのならば。そんな事を俺は考えた事が無かった。何故ならば、それぞれが別物であり、近似してはいても重要なのは使い方だからだ。
それでも、響が使っていた『ストップタイム』が朝日の使っている『スロータイム』の上位互換だと思えるように。
――この場にも明確な力の差が存在した。
「進行は正しく行いましょう。ちく、たく。ちく、たく。フィリさんのロストタイムの発動は、私のオンタイム発動前が正解だったようです。そうしてアクタ君は、あぁ惜しい、一歩分の遅れが出てますね。よって……」
俺のマチェーテは空を切る、あと一歩分踏み込めていれば当たっていたはずなのに。
だが、確かに、確かに俺は彼女の頭目掛けてマチェーテを振るっていたはずだ。
「おしおき」
その言葉と共に、思い切り空振りをした俺の背中に、鈍器か何かと思われる衝撃が走る。
息が出来ないまま、足りない酸素で頭を回転させる。
「多勢に無勢、それが時に正しいとは限らない。正しい時を刻んだ人だけが、正しい結果を得られると私は思うの。ねえ、フィリさんはそうは思わない? この場、この状況に於いて一番正解に近かった子が、そこに転がってるなんて、皮肉よね」
オンタイムと呼ばれた刻景、それに彼女の言葉と俺達の攻撃が通らなかった理由。
ちらりと時計を見るが、瞬間的な発動だった事は分かった。だからこそフィリも俺に来いと言ったのだろう。そこまでは分かる。そこまでは分かるのだが、具体的な能力がどうしても分からない。
「ねぇフィリさん、アクタ君は私のお友達三人を殺して此処まで来たみたいね、だから私も……」
「ロスト!!!」
「オンタイム。こればっかりは、相性でしょうね。今度も早すぎる。挑発に引っかかってちゃ、事は上手く運ばないわよ?」
今一度広がるフィリのロストタイムの範囲が、オンタイムにかき消されていく。
「そうだ、自己紹介をしましょ。私ばかり君達の事を知っているなんて、不公平だものね。まぁ、その間に朝日さんは死ぬかもしれないけれど」
残酷な話かもしれない。だが俺は動けるようになったのに関わらず動くのを止めた。今は、聞くべきだ。その上で、間に合わす。そうでなければ、此処で死ぬのは朝日だけではない。
――いつのまにか、鼓動は落ち着き始めていた。
「私は、イロス。知っての通り神様の子です、灰になる方々も、どうか私の名を祈りとしてお見知りおきを。フィリさんは殺せませんが、まずは動けないくらいに痛めつけますね!」
イロスがその右手に持っているのは重たそうな金属製であろうメイスだった。彼女はそれを本当に重たそうに振りかぶりながら、フィリの方へその重みに身を任せるように近づく。あんな一撃を避けるなんて事、フィリにとっては容易なはずだ。
「なっ?! ……ッ!!」
フィリの困惑の声が聞こえる。一瞬だけイロスの足元から刻景が広がった後、俺も、そうしてフィリもまた目を疑っただろう。フィリはイロスのメイスによって、腹部を思い切り突かれていたのだ。
「そういう……、事じゃったか……。道理で、な」
「振り下ろされたなら避けられる距離、でも突かれたなら当たる距離。やっぱりフィリさんは早いのね……。だからこそ油断もするし、当てられてしまう。だけれど、私に与えられた恩寵『オンタイム』は、正しき時を授けてくださるのですから、仕方ありませんよね」
能力を開示する程の、余裕。事実フィリはその身軽さにも関わらず大ぶりな鈍器の一撃を腹部に与えられている。
「手加減です。でもフィリさん以外を殺さなきゃいけないのは、本当ですし、まずは最初にフィリさんを再起不能にさせちゃいますね。ごめんなさい、後の灰の方々!」
放たれる鋼鉄の一撃、広がる刻景と、潰される腕、音のない朝日と、呻くフィリ。
「うふふ、楽しい。楽しい! 私の出番を与えてくれて、父なる神に感謝を! こんな素晴らしい立場を捨てた、フィリさんには哀れみと罰を!」
フィリがロストタイムを発動させるタイミングが永遠に来ないかと思う程に、彼女はイロスによって蹂躙されていく。あんな身軽で、頼もしかった彼女が、必死に声を漏らさないように痛みに耐え抜いている。
――その内に、言葉を発するのは一人だけになった。
イロスは倒れ込みそうになるフィリを持ち上げるように壁へと強く押し込む。
言葉にせずとも刻景は発動出来るはず、だがそれでも天使長もイロスもフィリの首を狙っていた。
その理由はおそらく、響の刻景を消した時のように、彼女が消すべき物とその対価を口にするという制約があるからなのだろう。、
「ふふ、あはは!! 楽しい。これをあと? 二回と少しも!」
――言葉を発するのは、一人だけ。
興奮して喋り続けるイロス、おそらくはサディストなのだろう。その喜びようは震えが来そうな程だった。だがフィリが口を閉ざし続けるように、俺達の誰もが口を閉ざしていた。
ドアの前で、おそらく春は静かに状況を見つめている。
朝日はその傷の痛みに耐えながら、今かと耳を済ませている。
そうして、俺もまた、背中を打ち付けられたまま、息を止めている。
――誰もが、タイミングを伺っていた。
「なぁ、イロスさん。手打ちにしないか?」
この状況ではあり得ない提案。だがこの言葉は、今言うからこそ意味がある。彼女がタイミングという物を気にするのであれば、今言わなければ、いけない言葉。
そうして仕掛けるべきはおそらく俺からだ。何故ならば、この場で一番力が無いから。彼女はフィリの首元にメイスを当てたまま、こちらを振り向く事もせず返事をする。
「なーに? 芥さんは最後ですよ? ただ歩けるだけの出来損ないの刻景使いさんは、朝日さんがいないと何も出来ないんですから」
明らかな挑発、だが事実だ。だからこそ、俺が最初に動かなければいけない。フィリも、朝日も、春も、それぞれがこの場を一人で打開するだけの力を持っている。
――だから、確実なタイミングを掴む為に動くのは、俺だ。
「フィリのタイミングは、早いんだったな?」
その言葉が、きっかけだった。
「灰はその地を硬くする!」
春が放った魔法が、イロスの足元へと直撃しようとする瞬間、彼女は意図もたやすくその魔法を避ける。
「春さん、貴方も早い。それで、芥君はやっぱり遅い」
言われる瞬間、俺はマチェーテの引き金を引く、それによって加速した刃に、イロスは一瞬驚いた顔をするが、それでも俺の刃は彼女のメイスによって防がれた。
――だけれど、これで構わない。
フィリの拘束が解け、彼女は残された力でイロスから放れる。
そうして、黙り続けていた俺達の言葉が、喋り続けていたイロスの言葉を濁す。
「ロスト……タイム」
「だか……ら、早いってば!」
何度も指摘されていた事だ、フィリがロストタイムを使うタイミングは一瞬早いのだと。
だから、朝日はそのタイミングをずっと聞いていたのだろう。おそらくはこの戦闘が始まった時から、違和感と共に正しいタイミングを伺っていた。だからこそ朝日はイロスに一番正解に近かったと言われ、血に伏せさせられていたのだ。
本来ならば、ロストタイムがオンタイムに飲み込まれていた。
だが、朝日のスロータイムによってロストタイムの発動が一瞬遅れる事によって、正しいタイミングが、成立する。
「我はこの右腕を失い、汝の右腕を奪う」
その瞬間、ガランとメイスが床に落ちた。
「痴れ者、が。笑ってみろ」
刻景・ロストタイムは正しく、成立した。
倒れ込むフィリの右手が動くかどうかは、もうその多大なる蹂躙の後では分かりようも無かったが、イロスが不思議そうに自分の右手を見つめていた。
ブラリと、肩から動かないイロスの腕は、フィリのロストタイムがそれを奪った証拠だ。
「やって、くれましたね」
静かな怒りが、彼女から伝わってくる。
確かに、一瞬だけ俺達は彼女の正しき時間に侵入出来たのだ。
だが、それもまた誰もが息を止め、フィリの痛みを見ていたから。
そして、フィリが失くす事でしか、勝機を見いだせなかったからだ。
「なぁ、イロスさん。手打ちだ。もうアンタは殺せない、けれど俺達も、アンタを殺せない」
「いいえ、殺せる。芥君だけなら、ね!」
広がっていく意味の無いオンタイム、その刻景は、存在するだけで俺を殺すに足る。
まずいと思って走りだそうとしても、思った以上に範囲が広い。
「走って! 芥さん!」
春の声に、残り秒数を気にもせず、走り出したと同時に、銃声が響く。
「なぁ姉さん、大の男がよ。手打ちってんで頭を下げちゃあいねえが、頭を下げてるくらいの気持ちが分からんもんかね」
聞き覚えのある、仲間の声。
「仕掛け……、お主は遅すぎる……」
「お嬢。すまなんだ。しかしまぁ、葛籠の兄ちゃんもよく手打ちに出来たもんだよ。敵討ちなら御免だが、手打ちなら手伝いやしょうぜ。アンタ、オンタイムの姉さんだろ? なら俺との相性は抜群だ。しかし俺から見て、だな」
その言葉と共に仕掛け屋から数多くの銃弾が洟垂れ、イロスの前でピタリと止まる。
「今すぐその汚え刻景を止めろ、殺してやりてえが、葛籠の兄ちゃんの顔に泥を塗るわけにはいかねえ、手打ちにしてやる」
その多くの銃弾には、タイミングも何も無い。数十発を越える銃弾が動くタイミングなど、分かっていても避けようがないだろう。であるならばやはり仕掛け屋の自由自在に銃弾が動く"タイミング"を操作出来るバレットタイムはオンタイムの天敵となり得る。だからこそこの場を支配しているのは、仕掛け屋だと誰もが理解した。
「次は、ありませんよ」
「ああ、次なんてねえよ」
イロスと仕掛け屋が違う意味の同じ言葉を言い、イロスは窓の方へと走り、ビルの外へと消えていく。
その右手に、一発だけ仕掛け屋の銃弾が当たった事にも、気付かずに。
「朝日の嬢ちゃんに約束の物は持ってきたが、しかしその道中で見てきた限り、状況が悪すぎるみてえだ。悪いな、一人でも多くいるべきだった」
「本当じゃ、馬鹿者め」
灰にならず、誰もが小さく息をしていた。
窓から下を見ると、イロスがタイミング良く灰の山をクッションにし、歩いて行くのが見える。
「皆、生きてるか?」
俺のその声に、この場の全員が各々返事をする。
満身創痍の朝日も、頭から血を流しながら、手を挙げた。
そうして、フィリの右手を強く握って、声も出さずに、泣いていた。
俺の、春の、仕掛け屋の感情を肩代わりするかのように、ただ涙が溢れていく。
「アサヒは泣き虫の癖を直せ、毎回これじゃ堪らん。これしか無いと知っておったんじゃ、及第点をやる。お主は良くやった、アクタと、ハルもな」
「いいや……」
未だ血の臭いと、痛みが残る部屋で、涙が流れる部屋で、失っていく世界で、ただ俺は小さく呟いた。
「これは、負けって言うんだよ」
声を出さずに泣いた事が、朝日の成長だったのかもしれない。
目深に帽子を被らず、真っ直ぐにその光景を見つめているのが春の成長だったのかもしれない。
だけれど、俺は仕掛け屋が来なければ死んでいただろう。
仕掛け屋に小さく「悪い、助かった」と呟いてから、俺はフィリの隣に座って、彼女の左手を強く握った。




